盆栽には壮大なロマンが秘められているのだ
「盆栽1880万円相当盗まれる」(5月12日付朝日新聞)という記事を読んだ。
熊本県御舟町の創業47年目の「雅松園」で33点が盗まれ、時価総額1880万円の被害という。「怒りと落胆で苦しむ生産者の姿があった」という下りを読んで心が痛んだ。金額だけでは表すことのできない、はかりしれない損失を私も感じることができるようになったからかもしれない。
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2年前に埼玉県さいたま市の大宮盆栽村を訪れて盆栽の魅力の一端に触れて以来、盆栽が気になっている。
それまではなーんの興味もわかず、ドイツでBONSAIについて聞かれても「あれは園芸じゃなくって芸術ですから」と盆栽のなんたるかも知らないのに冷たく突き放していた。それどころか「植物はありのままが一番美しい」とぶって、針金をかけて枝を曲げたり、小さくまとめるために恣意的に根を切り詰めて育てる行為に敵意さえ抱いていた。
それがコロナの余波で外国人観光客などほとんどいない2022年の羽田空港にある観光案内所で盆栽村のチラシを手にし、心変わりした。
見に行ってやろうじゃないの。
それは自分の好き嫌いは脇に置いて、日本文化の一端を息子にかじらせねばと思ったというのが大きい。
それから2日後。まず訪れたのは盆栽美術館。門をくぐって、入り口近くに展示されていたコナラが放つ凛とした佇まいにいきなりガツンとやられた。
そしてずーっとずーっと昔に、名古屋の御園座の楽屋で13代片岡仁左衛門を見た時の感覚がよみがえってきた。公演が始まる前の記者会見に運良く同席させてもらい、素のご本人を目の前にする機会があったのだ。
その時仁左衛門は90歳になるほんの手前。高齢に加え、目を患っていたから黒子のように付き添う人たちが気を配り、質問する記者たちも大御所を相手に緊張しているのが伝わってきた。
でも仁左衛門本人はそんな周囲の様子に構うこともなく、柔らかな口調で時折笑みを浮かべながら質問に答えていた。見かけは本当に優しそうなおじいさん、でもピンとはった糸のような、そしてこちらが背筋をしゃんと伸ばさずにはいられないようなオーラを放っていた。それはきっと己の芸を究めようと人生を重ねてきた歌舞伎役者が醸す気迫だったのだと思う。
植物は人ではない。でも、庭に足を踏み入れる時にあふれ出す生命の息吹に酔うのとは全く違う感情が入り口にあった盆栽に湧いたのはおそらく、その中に自身の描く自然観を追い求めた人の気配と視線を感じたからなのだと思う。
美術館の展示は盆栽の種類からはじまって、東京から大宮にきれいな水と空気を求めた盆栽業者が1925年から移り住んで盆栽村を形成するようになった沿革までがコンパクトかつシンプルにまとめられていた。
締めは屋外に展示されていた作品群。大きさも樹種も手法も異なる盆栽が並べられていた。
大きな体が小さな鉢に閉じこめられている様をみて、とっさに「かわいそうに、大きな鉢に植え替えてあげればいいのに」と庭師魂がうずいたことは白状しておこう。
でもプレートにかかれた350年とか500年という樹齢を読み、木が積み重ねてきた命の長い道のりを考えるにつれて心が改まった。
どんな木でも、数百年も生きながらえるのは当たり前ではない。風雪にさらされ、動物に食われたりして命つきるのが自然の理だ。「千代の松」が生まれた500年前はざくっといえば戦国時代。それがそれこそ何十人もの人たちが水をやり、肥料をやってと手塩にかけて守り続け、バトンタッチされて令和の時代にまで残された。小さくという制限を受けながらも大切にされるのだから植物もこんな人間の道楽にはきっと目をつぶって許してくれるのではないかな。
盆栽とは植物と人の美意識、そして時間という3つの要素が合わさって産み出された生きた芸術作品なのだ。時空をこえて自然と遊ぶという壮大なロマンがそこには秘められている。
盆栽ブームは私も実感しているところ。ほぼ閲覧専用と化している私のインスタグラムにこの時訪問した盆栽美術館の写真をアップしたら盆栽愛好家のフォロワーがぐぐっと増えてしまった。それもブラジルとかアメリカとか遠い国から。
私は門外漢なんですけど、と申し開きしながらその方たちのあげる写真を見ると、オリジナリティーにあふれていてストレートな盆栽愛が伝わってくる。特に種から育てました、みんなどうぞ見てください、なんてのは親バカ丸出しの感があって好感度が爆上がりする。
つい感化されて私も0から自分だけのロマンを紡ぐのだと本まで買ってしまった。針金を使わない手法もあると盆栽村で教わったし。
盗まれた盆栽はどこへいっちゃったんだろう。毎日きちんと世話がされているのだろうか。海の向こうからこう書いたところでどうにかなるものでもないけれど、無事に雅松園に戻って、純粋に盆栽を愛する人たちの手元に渡って大切に受け継がれていきますようにと願わずにはいられない。