いくつになっても兄は兄
今日は兄の誕生日。
何だかんだで毎年この日はこの話題になってしまう。
兄と私は年子なので小さい頃の育児は本当に大変だったと今でも母が時おり話すことがある。
特に兄はかなりやんちゃだったようで小さい頃は手当たり次第に物を投げつける癖があって危険極まりなかったそうである。
また、それを見た私が何でもかんでも真似をするものだからダブルで家に物が飛び交って片付けても片付けてもキリがなかったと語っていた。
もう少し大きくなって幼稚園に通う頃になると第二次ベビーブームの私たちの世代は公立の幼稚園に入るのに抽選が行われた。
兄は見事に当たりを引いて公立の幼稚園に通う事が出来たが、翌年に私が抽選箱から引いたくじの結果は残念ながらハズレだった。
それまで何をするにも兄と一緒でべったりとくっついていた私にとって兄のいない生活は不安でしかなかった。
その頃通っていた私立の幼稚園は庭もなく薄暗い教室にギュウギュウに園児が詰め込まれていた。
私は誰とも仲良くなれず一人でずっと絵本を読んで時間を過ごしていた。
そして母が作ってくれたお弁当を食べたらお昼寝である。
その時間もあまり眠れずあ~あ一人って退屈だなぁと思っていた記憶がある。
それから夕方になって母が迎えに来てくれるとその足で兄が通っている幼稚園に行った。
私は兄の姿を見つけると無性にうれしくなって兄ちゃんっと飛びついていた。
それから母と三人でまだその頃は栄えていた商店街で買い物をして帰る時間が何より楽しかった。
幼稚園を卒園して小学校に入学してからも私は兄にべったりだった。
兄は身体が大きくてガキ大将気質だったので私はスネ夫的ポジションで虎の威を借りまくっていた。
夏休みになるとファミコンが大流行していた時期だったので人脈の広い兄の伝手でいろんな人の家を渡り歩いてゲーム三昧だった。
ゲームに飽きると駄菓子屋でプラスチックのバットとゴムボールをみんなでお金を出し合って買って近所の公園に野球をしに行く。
あの頃は子どもがとにかく多かったのでちょっと近所で声をかければ十人くらいの人数はすぐに集まった。
当時は原辰徳がスタープレイヤーだった時代で巨人びいきの子が多かった。
私はカープファンだったので対抗心を燃やしたものである。
兄は典型的なパワー野球で三振かホームランの大振りスイングだった。
しかしその力強さに誰もが警戒しており私も同じチームだったら頼もしく相手チームにいたら警戒する相手だった。
さんざん野球で遊んでどちらが何点取ったかわからなくなるくらいになると日差しが西に傾いている。
五時のサイレンが鳴る前に帰らないと親に怒られるので適当な所で解散になった。
兄と一緒にぶらぶらと家に帰って泥だらけの身体をお風呂で洗って宿題をを少しだけ進めてウトウトと夕寝をするのが黄金の夏の日の一日だった。
そんな兄と蜜月期が長い事続いたが、兄は段々アニメとかゲームに傾倒するようになっていった。
私も嫌いなジャンルではなかったが兄が中学生になるとゴリゴリのアニメオタクになったので、そこで趣味が合わなくなった。
私はと言うとプロレスやバンドブームに魅了されてロックやパンクのような激しい音楽に興味が出てきた。
当時はアニメオタクには今ほどの市民権はなくどちらかと言えばネクラとか気持ちが悪いというイメージが強かった。
私は憧れだった兄がアニオタになったという事実に軽くショックを受けながら心の中で兄と決別して自分は激しいプロレスやロックに染まっていった。
それから学生時代はロクに会話もしない時期が続いた。
一番しんどかったのは晩ご飯の時で兄弟がお互い軽蔑しあっている食卓のピリピリした空気感は他の家族にはいい迷惑だったと思う。
それから私が進学して上京してから数年後実家に戻ってからはお互いが大人になったからなのかギスギスした関係はいつの間にか解消されていた。
時が経てば人間関係も丸くなるんだなぁとその時にしみじみと思った。
それから色々あって兄はいまだにアニメやラノベに夢中である。
私も色々な趣味を浮気してアニメもたまに見るようになった。
とはいえお互いの好きなジャンルが全くかぶらないので共通の話題にはならないのだが。
兄との思い出はまだまだ沢山ある。
秘密基地を作ったらそこが昔の防空壕で大人たちにひどく叱られたこととか、万引きが流行った時にお前は絶対そんな事をするなよときつく言われたこととか思い出していったらキリがない。
何だかんだで私はブラコンなのかもしれない。
ああ、兄弟がいるってことはありがたい事だなぁ。
お兄さん、おたんじょうびおめでとうございます。
あ、そうそう少し痩せたほうがいいですよ。
最近お腹周りがねぇ…ちょっと。
ま、人の事は言えんか。
わはは。