良い詩とは何か、考えてみましょう
今日は「良い詩」について、特に他人が書く「良い詩」について考えたい。そのために上の文を引いてきた。これは私が「文学」というマガジンで投稿している「日記」の一部である。2024年の3月15日に書かれた「日記」の一部である。
ここで考えたいのは「……」というところである。ただ、まずはこの文を少し整理してパラフレーズしよう。
まず、私はここで「良い詩」には二つの要素が必要であると言おうとしている。少なくとも他人の書く詩には。一つは「記憶を辿るとき、色彩や形状、流れや彩りを思い出す強度」であり、もう一つがわかっていない。この「強度」とはなんだろうか。
これは簡潔に言えば、良い詩はその詩を書かせた生活の全体を思い出すことを助けてくれる、ということである。ある詩は一つの凝縮であり、一つの記憶装置である。その装置を付ければ、そこに凝縮されている生活がじゅんわりじゅんわりと滲み出る。それを私は大きく抱擁する。どれだけ抱擁しようとも充溢する、そんな充溢の抱擁できなさ、しかし「抱擁したい」とは思われるような充溢、それが「強度」である。
もちろん、ここでの用語も思想も揺れている。それがどのように揺れているのかがわからないくらいには揺れている。しかし、このようなことを助けてくれる、そんな力強さが良い詩にはある。いやむしろ、それを助けてくれるからこそその詩は良い詩なのである。
ところで、冒頭に引いてきた文章にはもう一つ、確認しておくべきことがある。それは私が書くか、他人が書くかによって「良い詩」の「良い」は変わるという観点がここにはあるということである。しかし、ここまで書いてきたなかでは別にそんなことはないし、これを書いたときに私が思い浮かべていた私の詩が記憶装置として「良い」ということを、そして他人の詩はその「良い」とは別の「良い」"も"持っているように思われたというだけであったように思われる。しかし、たしかに私自身の詩と他人の詩とでは「良い詩」の「良い」が異なるという感じもわかる。たしかに異なっているからである。
(しかし、その異なりが本当に「私(自身)/他人」という対比によって語れるかはわからない。いやそもそも、私は「良い詩」と言えるほどの詩を書く存在を「私(自身)」であるとは到底思えない。むしろ「他人」であると思った方が自然だと思っている。これは謙遜でもなんでもなく、ややこしいが本心を書くとすれば、「良い詩」は私が感じやすい違和感、つまり「持続する個人」という描像への違和感に「ほらね、やっぱりその描像は虚像じゃないですか。やっぱり。」とある意味見せつけたくなるようなものなのである。ただ、そのように思うのは「私(自身)の詩」「他人の詩」みたいに言っていることに注目する場合だけである。なのでここではとりあえず注釈的な立ち位置にこの考察を置いておく。)
よくわからないし、先が全然見えないが、とりあえず他人の詩の良さを考えてみよう。もちろん、他人と言っても千差万別なわけであるが、「良い」と思うときをある程度無理やりまとめてみるとすれば、キーワードは「目借り」であると思われる。「目借り」と言うと「蛙の目借り時」という季語があるが、それは関係ない。もちろん比喩で押していけば関係があるとも言えるがとりあえず関係ない。(さらに言えばこの季語の成立には二つの興味深い比喩性があると思うが、とりあえず忘れそうなのでそのように思ったことだけ書いておく。ここだけメモみたいで申し訳ない。その二つとは「目借り」が元々「妻狩り」であったこと、言い換えれば「生物が相手を求めて鳴くこと」から派出して「眠たい」ことを指すようになっていることと「目借り」が人が目を借りるのではなく人が目を借りられることを指しているということである。前者は例えば、「睡眠/覚醒」「人間/動物」「要請-応答/刺激-反応」という独特の二項対立の連鎖を作ることを可能にするように思われる。後者は例えば、色々な生物、存在が私の身体を借りて受容と表現の連関をアクセントをつけつつ奏でていると思うことを可能にするように思われる。さらに言えば、この二つのことはレヴィナスや東浩紀、ドゥルーズの議論などに繋がるように思われる。が、止まらなくなってしまいそうなのでとりあえず終わっておこう。瑞々しいので。)ここでの「目借り」はその名の通り、「目を借りる」ということを指す。この「目」というのは例えば「若山牧水の目」「種田山頭火の目」などのように使う。ことが多い。別に一つの詩しか知らなくてもこのように名前付きで呼ぶことはできないが「この詩が使わせてくれる目」みたいに呼ぶことができる。このことがもっと強調されている例はおそらく、絵画である。例えば、モネの絵画を見ると、街路樹が今まで見ていたのとは異なる美しさを発揮する。元々美しいと思っていたとしても他の美しさをほとんど強制的に見ることになる。しかし、それはモネが見た街路樹ではない。が、「目」はモネでどこかがモネじゃないだけである。「良い詩」にもそのような効果がある。ただ、少しだけ違うところがある。ように思われる。
「良い詩」が与えてくれる「目」というのは「良い絵画」が与えてくれる「目」というのとは違う。ではどう違うのか。それは「良い詩」が「よく生きる」ことをより可能にしてくれるという点で違う。「良い」が「生活」により波及するという点で違う。これは別に「良い絵画」が「よく生きる」ことを可能にしないとか「良い」が「生活」に波及しないとか、そういうことではない。「良い絵画」は「良い詩」を書くことを助けるだろうし、別に私のように「書く」しかできないような人(であるとは正直思っていないが話をわかりやすくするためにこういう対比を使っておこう。)でなければ「良い絵画」を描くことに、「良い音楽」を作ることに繋げられるだろう。それぞれの「良い」はまた他の「良い」、同じ「良い」でもまた違う形でそれを表現するようになるだろう。しかし、「良い詩」は「生活」に波及し、「よく生きる」ことを可能にしてくれる。私にはどうしても「可能にしてくれる」という表現がしっくりこないので「勇気づける」ということにしよう。ここでの変更は「してくれる」ということをなくして「可能」という極めて哲学的な語彙をなくしたということである。(もちろん、この語彙の変更はそれでミスマッチ感があって良いのだが。)
「良い詩」は「生活」に波及し「よく生きる」を「勇気づける」ような詩である。つまり、ここでの「良い」は「生活」に波及し「よく生きる」を「勇気づける」ことである。
ところで、私の詩は記憶装置であると言われていた。そしてそこでの価値判断の基準は「強度」にあると言われていた。(「価値判断の基準」とまでは言っていなかったが実質的には言っていたと考えられる。もちろん、このように言う私に対して「それはあなたが言っているだけでその跳躍で見逃されていることはかなり重要なことである。」と言う私もいるが、とりあえずこれで進む。いつか反論の機会は与えられるだろう。)ここで「私(自身)の詩/他人の詩」という対比に戻ってみよう。すると、私はこの対比に「中心/周縁」という対比を重ねられるのではないか、と思う。もう少し強調すれば、「地元/観光地」という対比を重ねられるのではないか、と思う。「私の詩」は「地元」であり「中心」である。それに対して「他人の詩」は「観光地」であり「周縁」である。ここで注意してほしいのは「中心/周縁」という対比と「地元/観光地」という対比の違いである。前者にはある程度価値判断が含まれているが後者にはある程度価値判断が含まれていない。ここで強調したいのは後者の対比である。
と、書いてみてはいいものの、正直よくわからない。が、とりあえず無理やりまとめてみるとすれば、「私(自身)の『良い』詩」の「良い」は「記憶装置」としての「良い」である。それに対して「他人の『良い』詩」の「良い」は「体験装置」としての「良い」である。前者は「強度」の高さで、後者は「勇気」の深さで「良い」が判断される。この二つの「良い」の歩み寄りについては未だ不明である。これが大まかなまとめである。「勇気」が「深い」というのはどういうことかがよくわからないが。
やはり私の中心には「私(/私自身)/他人」という対比があって、それが曖昧だからよくわからなくなってしまうのだと思う。もちろん「強度」とか「地元/観光地」とか、そういうこともよくわかっていないのだろうけれど。よくわかっていないままに書き進めてしまった。書き進めるうちにまとまってくることもあるのだが、今回はそうはならなかった。たくさんのテーマを放置したまま、今日は終わってしまいそうである。
一つのテーマについて、思ったことがあるので書いておこう。と思ったが、アイデアが先走ってそれを目で追い、追いかけるので必死なので落ち着こう。そのテーマというのは「若山牧水の詩」という「他人の詩」と「この詩」という「他人の詩」というテーマである。「目」で言えば「若山牧水の目」と「この詩が使わせてくれる目」というテーマである。やはりこの二つの「目」は異なる。しかし、後者の「目」は前者の「目」によって支えられてやっと理解できるようになる。これが「勇気」の深さというか、そういうものの基本にはある。ように思われる。そして、その深さはあるところまで達すると逆に「強度」の高さに変わるというか、そういうことになると思われる。ずっと「思われる」しか言っていないが、この「思われる」をもっと明確にすることがこれからの一つの課題であろう。ただ、もしかするとあまり興味がないのかもしれない。私はこの課題に。課題があるのは間違いないが。なんだか、エクストララウンドというよりもボーナスラウンドみたいな気持ちである。この課題に取り組むということは。
まあ、ボーナスラウンドは楽しいし、享楽的であるから、とりあえずはこれでいい。