どうして「読みたい本」は増えていくのか

昨日こんな文章を書いた。

「どうして読みたい本は増えていくのだろうか」、これはとても魅力的な問いではないだろうか。少なくとも私にはそういう問いであるように思われる。私はこの問いをより洗練された形で引き継ぎたい。この文章のタイトルは「どうして「読みたい本」は増えていくのか」である。変わったところは二つだ。読みたい本が「読みたい本」に変わった。そして、これは気がつきにくいと思うが、「増えていくのだろうか」が「増えていくのか」に変わった。いまのところはとりあえずこの二つの変化がこの文章と上に挙げた文章のあいだにあることだけ覚えていてくれたらいい。

上に挙げた文章を極めてすぱっとまとめてみよう。スピットするために。説明はするのでとりあえずまとめられたものを提示する。

0.どうして読みたい本は増えていくのだろうか。
1.リアリスティックに考えると私が生きているあいだに面白そうな本が出過ぎである。
2.読みたい本には二つある。それはブクログ的な「読みたい本」とそうではない読みたい本である。
2-0.ブクログは本を登録するアプリである。
2-0-0.ブクログには「読みたい本」「いま読んでいる本」「読み終わった本」「積読本」というファイルがあり、それぞれの本はそのどこかに登録される。言い換えれば、複数のファイルに一つの本が登録されることはない。
2-1.ブクログ的な「読みたい本」というのは「読みたい」かつ「読んだことがない」かつ「持っていない」本である。
2-1-1.なぜなら、「読みたくない」ならばそもそも登録しないし、「読んだことがある」なら「いま読んでいる」か「読み終わった」に入るだろうし、「持っている」なら「積読」に入るだろうからである。
3.「どうして読みたい本は増えていくのだろうか。」という問いは「読みたい本」をブクログ的な「読みたい本」であると考えるか、それともそうではない読みたい本であると考えるかによって別の問いになる。
3-1.ブクログ的な「読みたい本」ではない読みたい本が増えていくのはそれが「汲めど尽きせぬ泉」だからである。
3-1-1. ブクログ的な「読みたい本」ではない読みたい本が「汲めど尽きせぬ泉」であるのは「自分」が変化するからである。
3-1-1-1.ここで「自分」が変化すると言い切れるのは「本」は「相当特殊な想定をしない限り」変わらないからである。
3-1-2.「変化」には「成長的なもの」とそうではないものとがある。
3-1-2-0.筆者は後者のほうを強く取る。
3-1-3.「変化」が「成長的なもの」であるとしてもそうではないとしてもブクログ的な「読みたい本」ではない読みたい本が増えていくのは理解できる。
4.「どうして「読みたい本」は増えていくのだろうか」のほうが面白い問いである。
4-1.この問いにはある分野を勉強中である場合には理由がつけられるだろう。
4-1-1.その理由というのは「ある程度習熟するまでは予測すら立てられなかったり、立てられたとしても曖昧であったりするから」という理由である。
4-1-2.しかしそういう理由がもはや付けられなくなるような局面においてもブクログ的な「読みたい本」は増えていく。
4-2.「勉強中」ではないのにブクログ的な「読みたい本」が増えていくのはなぜなのだろうか。
4-2-1.それには二つの理由が考えられる。一つは「総覧への欲望」や「見落としの不安」という理由、もう一つは「私たちは一つのことにしか興味がないわけではない」という理由である。
5.面白そうだが同居人に呼びかけられたので今日のところはおしまいにしよう。

整理の仕方を考え始めそうになってしまったので整理が甘いというか、曖昧であるというか、それはとりあえず許してほしい。ただ、これからの課題としてしたの()に課題となりそうなことを書いておく。みなさんは飛ばしてもらっても構わない。し、それを反映しているとこの文章をとりあえずでも書き切ることができないのでとりあえず何も変えないことにする。

(課題なのは1→2→3→4→5……という流れと、1→1-1→1-1-1→1-1-1-1→1-1-1-1-1……という流れと、0の位置づけと、それらの関係を考えることである。0には文章を駆動する上でのスタートの役割と私がどうしてもそう考えてしまうという意味でのゼロの役割とが重なっている。というか、重なっているように見える。もちろん、上のものであればそんなに複雑じゃないからある程度は大丈夫なんだけど、もう少し複雑になればそれはややこしくなると思う。二つの流れの関係に関しては、基本的には1→2→3……の流れは主張の流れであり、1→1-1→1-1-1……の流れは根拠の流れである。ただ、そこに突然ゼロの意味での0が出てきたり、主張と根拠が混雑していたり、そんなことが起こると一気によくわからなくなる。そもそも、どちらの意味でも0は一種の主張である。そんなことを思った。)

ここからの話では、ややこしいのでブクログ的な意味での読みたい本を「」付きの「読みたい本」で表記し、そうではない読みたい本を<>付きの<読みたい本>と表記する。そして、「読みたい本」+<読みたい本>、すなわち読みたい本と書いたときの全体を"読みたい本"と表記する。そうすると、上のまとめは次のようになる。

0.どうして"読みたい本"は増えていくのだろうか。
1.リアリスティックに考えると私が生きているあいだに面白そうな本が出過ぎである。
2."読みたい本"には二つある。それは「読みたい本」と<読みたい本>である。
2-0.ブクログは本を登録するアプリである。
2-0-0.ブクログには「読みたい本」「いま読んでいる本」「読み終わった本」「積読本」というファイルがあり、それぞれの本はそのどこかに登録される。言い換えれば、複数のファイルに一つの本が登録されることはない。
2-1.「読みたい本」というのは「読みたい」かつ「読んだことがない」かつ「持っていない」本である。
2-1-1.なぜなら、「読みたくない」ならばそもそも登録しないし、「読んだことがある」なら「いま読んでいる」か「読み終わった」に入るだろうし、「持っている」なら「積読」に入るだろうからである。
3.「どうして"読みたい本"は増えていくのだろうか。」という問いは"読みたい本"を「読みたい本」であると考えるか、それとも<読みたい本>であると考えるかによって別の問いになる。
3-1.<読みたい本>が増えていくのはそれが「汲めど尽きせぬ泉」だからである。
3-1-1. <読みたい本>が「汲めど尽きせぬ泉」であるのは「自分」が変化するからである。
3-1-1-1.ここで「自分」が変化すると言い切れるのは「本」は「相当特殊な想定をしない限り」変わらないからである。
3-1-2.「変化」には「成長的なもの」とそうではないものとがある。
3-1-2-0.筆者は後者のほうを強く取る。
3-1-3.「変化」が「成長的なもの」であるとしてもそうではないとしてもブクログ的な「読みたい本」ではない読みたい本が増えていくのは理解できる。
4.「どうして「読みたい本」は増えていくのだろうか」のほうが面白い問いである。
4-1.この問いにはある分野を勉強中である場合には理由がつけられるだろう。
4-1-1.その理由というのは「ある程度習熟するまでは予測すら立てられなかったり、立てられたとしても曖昧であったりするから」という理由である。
4-1-2.しかしそういう理由がもはや付けられなくなるような局面においても「読みたい本」は増えていく。
4-2.「勉強中」ではないのに「読みたい本」が増えていくのはなぜなのだろうか。
4-2-1.それには二つの理由が考えられる。一つは「総覧への欲望」や「見落としの不安」という理由、もう一つは「私たちは一つのことにしか興味がないわけではない」という理由である。
5.面白そうだが同居人に呼びかけられたので今日のところはおしまいにしよう。

ところで、"読みたい本"は「読みたい本」と<読みたい本>が出てきてやっと"読みたい本"的なものとして考えられるようになったのだから最初のあたりの、0や2の読みたい本は"読みたい本"であるとは厳密には言えないと思うかもしれない。私も思う。が、それを表記に反映させることはできない。なぜなら、その表記が必要なのは3で"読みたい本"という表記が必要であることになってからだからである。だから今回は0も2も"読みたい本"で統一させてもらう。

さて、準備に手間取った。私が思っていることはいくつかあるが、端的に言うとそれは一つにできる。いや、まあ、とりあえずしてみる。それは「<読みたい本>の定義が曖昧だから「読みたい本」の定義も曖昧になって、4-1以降が、さらにはそこに至るまでも充分な展開になっていないのではないか。」ということである。

もちろん「読みたい本」は明確に定義されてはいる。「読みたい本」というのは「読みたい」かつ「読んだことがない」かつ「持っていない」本であると定義されてはいる。しかし、<読みたい本>というのはなんなのだろうか。それをちゃんと考えてみたい。

このときポイントになるのは2-1-1である。2-1-1では「読みたい本」の定義について以下のように根拠づけている。「[「読みたい本」が「読みたい」かつ「読んだことがない」かつ「持っていない」本であると定義できるのは:引用者]「読みたくない」ならばそもそも登録しないし、「読んだことがある」なら「いま読んでいる」か「読み終わった」に入るだろうし、「持っている」なら「積読」に入るだろうからである。」と。

まず分けなくてはならないのは「そもそも」の次元とそうではない次元である。「読みたい/読みたくない」というのは「そもそも」の次元である。ここでも言われているように「読みたくない」なら「登録」されないし、そもそもそのことすら考えられないはずである。だから、この次元はそもそも考えなくてもいい次元である。もちろん、0からひっくり返すなら考えてもいいが、とりあえずそんなことはしないから考えなくてもいい。問題は「読んだことがある/読んだことがない」と「持っている/持っていない」である。

「読んだことがある」というのは曖昧な表現である。なぜなら、そこには「読み終わった」も「いま読んでいる」も含まれるからである。さらに言えば、仮に「読み終わった」ということを意味しているのだとしても、「読み終わった」というのはどういうことなのかはわからない。一読でも「読み終わった」とは言えるだろうし、精読でも「読み終わった」とは言えるだろう。というか、精読したほうがむしろ「読み終わった」とは言えなくなっていき、一読になればなるほど「読み終わった」と言えるようになっていくのではないだろうか。これは「言う」を「言うことができる」と「言い切ることができる」に分けることであると言えるかもしれない。「言うことができる」なら一読も精読も含まれるが、「言い切ることができる」なら一読は含まれ精読は含まれないのではないか。これは別に精読が偉いという話でも一読が偉いという話でもない。ただ単にそうなっていくのではないかと言っているのである。

(ちなみにこれはまとめている段階で捨てたところなので深掘りできないが、「まともな本」という大事なテーマも「どうして読みたい本は増えていくのだろうか」には存在する。)

もちろん「持っている/持っていない」も「アクセスできる/アクセスできない」に関わってくると言えるには言えるが、登録はそこまで深く分かれていないので今回は不問としよう。問題は「読んだことがある/読んだことがない」である。いや、「読んだことがある」の複雑さである。

そもそも「読む」とはなんだろうか。実家にある私の部屋のベットの横には本の山がある。横向きに寝転べばその本の山が見える。そこにはいろいろなジャンルの本が置かれている。そしてほとんどの本は読まれずにずっと積まれている。それは「読みたい」「いま読んでいる」「読み終わった」「積読」で言えば「積読」である。しかし、それは「いま読んでいる」でもあるし、もしかすると「読み終わった」ですらある。そして、「読みたい」でもある。もちろん、買っただけ、「持っている」だけだから「読んだことがある」とは言いにくいだろうけれど、それは言えないことはないし、その領域をなしにするのはあまりにも話が単純すぎる。

別に話を複雑にしたいわけではないが、「読みたい本」にはただ「読みたい」本もあれば、「いま読んでいる」と言えるような本も、「読み終わった」と言えるような本もある。このように考える場合、「読みたい本」は「積読本」と対比され、「持っている/持っていない」が強調されることになる。話が存在論に飛びそうである。が、とりあえず抑えよう。

(ここで私はまとめのときに捨てた最近の私の習慣、「読みたい」と思ったらとりあえず「読みたい本」に登録するという習慣を思い出した。しまった。あれはこのように「読んだことがある/読んだことがない」とか「持っている/持っていない」とか、二つの対比の曖昧な絡み合いとか、そんなことよりもただ「読みたい」かどうかの、刺激された、触発された記憶としての「読みたい(本)」の話だったのだ。)

話の真ん中を全部すっ飛ばして言えば、次の問いは「どうして本を買いたくなるのか」である。そしてこの問いが4-1以降を面白くするだろう。特に「総覧への欲望」や「見落としの不安」という理由と「私たちは一つのことにしか興味がないわけではない」という理由の関係はこの問いによってやっと強くリアリティを持ってくるように思われる。

話の真ん中にいきなり飛び込むとすれば、こんなテーゼが助けになるだろう。「本をマテリアルとして持っているということは本を呪具として用いることによって意味を持つ」というテーゼが。「めちゃくちゃ大きい本屋さん」と実家ではない家、私が居候している家との往復二時間半くらいのバイクで私はこんなことを考えていた。

思ったよりも大きなところに関係があってびっくりした。広がりすぎちゃった。宇宙が縮むまで少し待とう。みんなで待とう。私たちで。バラバラであると言えたり言えなかったりする私たち、待とう。にこにこ。にやにや。

いいなと思ったら応援しよう!