僕の興味のあること等々 3

僕の興味があることについて考えよう。この考え事は僕が昨日したある会話の続きでもあるから少し読みにくいかもしれないがそれはご勘弁いただきたい。

まず、一つ整理を行おう。「興味がある」というのはどういうことだろうか。「好きの反対は嫌いではなく無関心」というよくある言説に従えば、「興味がある」というのは「無関心」の反対であると考えられるから「好き」な物事と「嫌い」な物事が「興味がある」物事であることのなるだろう。つまり、ここで私は自分の「興味があること」について考えるのだから「好き」なことと「嫌い」なことの両方について考える必要があり、もっと踏み込んで言えば「好き」なことと「嫌い」なこととに共通するテーマや構造を明らかにすることがここでなされるべきことだろう。

<私は結構前にこの言説について次の文章を投稿した。微かに頭にあったのだがあらためて読んでみると極めて理知的で、スタイリッシュだった。(これは褒めているわけでも貶しているわけでもない。)それが以下である。

ただ、この文章でのテーマはこの言説を恋愛的なものとして、そして大きくは人間的なものとして解釈することで先に進もうとしていた。ただ、ここでのテーマはむしろ私の「関心/無関心」であり、「関心」は「好き/嫌い」を対比させている点から抽出されようとしている。この文章はそれをしていないがゆえに極めて理知的でスタイリッシュなのである。この文章を引き継ぐとすれば、私がこの文章の始めに「昨日したある会話の続き」であると断っていることは極めて重要なことであるように思われる。ただ、それがどういうふうに重要なのかについてはまだよくわからない。>

ただ、ここでの記述の順番は「好き」なり「嫌い」なりに触れてそこから共通性を取り出すというよりもむしろ先に「興味がある」の候補になりそうなことを描きだしてから「好き」なり「嫌い」なりについて考えるという順番を取る。いまのところ特に理由が思いつかないが、とりあえず混乱を防ぐために宣言しておく。

<上で言及した文章のなかで私は「好き/嫌い」と「関心(好き/嫌い)/無関心」の往復について考えている。前者から後者への移行は「階層化」と呼ばれ、後者から前者への移行は「平板化」と呼ばれている。そして、「階層化」は大きく言えば人間化として、「平板化」は大きく言えば非人間化として考えられている。それを踏まえれば、ここでは非人間的なスタートを目指していると言うことができる。これを上の<>と繋げるとすれば、私はすでに「昨日したある会話」でもはや人間的な機微の存在しない、言うなればどうしようもないところにある程度は行き着いていると思ったからこのように始めたのかもしれない。>

僕が「興味がある」のは「一から多」もしくは「多から一」の「から」の部分である。これはすでに昨日話したことによって明らかに、いや、主題にあがっていることである。このことを典型的にあらわすのは「ネモフィラの小さく青い地球かな」という僕が詠んだ俳句、いまのところの最高傑作の一つである。この句は僕の読みからすると、もしくは記憶からすると「ネモフィラ畑が地球に見えた」ことを素朴に詠んだ句である。「ネモフィラ畑」というのは「ネモフィラ」が群生していることを示している。そして私はその群生、"もしくは"その群生のうちの一つに「地球」という一つの惑星を感じたのである。ここには「一から多」と「多から一」を感じることができる。「ネモフィラ畑からネモフィラ」と「ネモフィラからネモフィラ畑」のいずれの「から」も「地球」によって、そしてその「小さく青い」という性質によって接続されている。もちろん別の楽しみ方もできるからこれは紛れもない名句なのだが、とりあえずここではそのように読むことが可能であることを確認しておきたい。

<このあとにある程度素晴らしい解釈をした記憶があるが、とりあえず指摘しておきたいのは「昨日のある会話」においてはこの句を例に挙げてはいないということである。つまり、この句の解釈は「昨日のある会話」から離れようとしてなされたものであると考えられるのである。ちなみに「昨日のある会話」の相手はこの句について「二枚の紙芝居みたい。」と言っていた。その意味を私はまだよく理解できていないのだが、極めて象徴的というか、求心的な批評であるように思われる。>

[一つ、極めて流れというか、そういうものを重視した補足、いや、解釈をしよう。「ネモフィラの小さく青い地球かな」という句は「ネモフィラ畑」から「地球」への飛躍と「地球」と「ネモフィラ」の共立によって成り立っている。極めてややこしいことを無視するとすれば、私と作品の関係は私から作品への「ネモフィラ畑」から「地球」への読み込みと作品から私への「地球」と「ネモフィラ」の跳ね返りとによって生まれている。そしてこの関係の生成を「小さく青い」が支えている、私にはそのようにこの句を解釈できるように思われる。この一連の文の連なり、一つ前の段落はそのことをおそらく意図せずに構築している。そして態度としては構築し終わったところから語っているような振る舞いをしている。しかし、「もしくは」の強調はその振る舞いの揺らぎを湛えているように見える。少なくとも私には。また、極めて微かなしるしとしては「小さく青い」が「接続」のためのものとして考えられているというのも、すでに「地球」が「ネモフィラ畑」と「ネモフィラ」とを往復するためのものになったからこそ可能になることであると私は思う。それも揺らぎの湛えである。とにかくここでの主題すなわち「僕の興味のあること」を結構無視するとすればそういう解釈も可能であるし、いまの私にはそういう解釈のほうが楽しい。正しいのではなく楽しい。]

<この句を解釈するとき、私はすでに「ネモフィラ畑」と「ネモフィラ」を「小さく青い」「地球」が繋いでいるような感じがする。それを解きほぐしてプロセスにしてみたということを強調することもできるように思われる。これは後に出てくる表現で言えば「閉じられた」の作為性を明確にすることであり、「力」という曖昧な表現を用いなくてもそれを遂行している例であるとも言えるかもしれない。ちなみに「跳ね返り」という表現は福尾匠由来の表現だが、いまのところそれをうまく示すことができない。ただ、そういう由来があることはわかる。また、遠くで伊藤亜紗の『ヴァレリー』が響いているのも聞こえる。いずれこのことについてはちゃんと考えたい。>

いや、折角なので別の読みも、楽しみ方も考えてみよう。その読みというのはなぜ「ネモフィラ畑」なり「ネモフィラ」なりが「地球」に見えたのかという問いによって駆動される読みである。ちょっとせこいかもしれないが、僕の記憶から言えばこの句は友人が「ネモフィラ畑」の写真を送ってきたときに詠んだものである。しかし、「ネモフィラ畑」の写真から「地球」を引っ張ってくるのは結構ダイナミックなことだろう。ここにはもう一つくらい、少なくとももう一つくらいロジックをかませる必要があるだろう。そのロジックというのは「揺れている花畑は惑星(たち)を思わせる」というロジックである。正直なことを言うと、僕はこのロジック自体が作動しているのはわかる、身体的にわかるのだが、このロジック自体がなにに由来するのかはまったくわからない。ただ気づいた頃にはこのロジックはあたかも当然であるかのように作動していた。しかもおそらく、このように、「作動」とか「ロジック」とか言われるくらいには対象化されているのは私がすでにこのことについて何回も考えているからであって、最初はごく自然にこの「ロジック」は「作動」していた。

<もっと神秘的というか、謎多い感じで言えば、この「揺れている花畑は惑星(たち)を思わせる」という「ロジック」は「ネモフィラの小さく青い地球かな」によって作られたものであるとも言える。この句があって、詠んで読んで、それがある回路を作ってしまって、私はどうしても「揺れている花畑」を「惑星(たち)」として見るようになったのかもしれない。ただ、これでは「ネモフィラの小さく青い地球かな」が詠まれた理由がわからなさすぎる。インスピレーションとか天才とか言ったところで、それはかりそめの安心にすぎない。ただ、その神秘性はもしかするとどれが最初に起こったことなのかを特定しようとしているから生じるものなのかもしれない。>

[もちろん、ここで言われている「自然さ」が本物かはわからない。少なくとも私は嘘をついているわけではないと思っているし、もともと思っていたことがそういう表現、例えば「ネモフィラの小さく青い地球かな」や「揺れている花畑は惑星(たち)を思わせる」という表現になったと思ってはいるが、それが本当にそうなのかは私にすらわからない。もちろん私にはわかる権利がある。しかし、それだけだと言えばそれだけなのである。また、話は変わるが、「ロジック」が「小さく青い」の「接続」から「揺れている花畑は惑星(たち)を思わせる」という私のよくわからない癖というか偏りというか、そこに移ったのはなぜなのかが私は気になった。まあ、ここでの主題が「僕の興味のあること」だからだと言えばそれはそうだと思うが。]

<この注釈というか、補足は複雑なので一つだけ。私は「自然さ」をそれとして見てしまう癖が、くせが、へきが、ある。それとどう付き合うかは私の言うなれば生存的な課題である。狂ってしまわないようにしなくてはならない。曖昧でファジーで、遊びの空白、それを守らなくてはならない。>

なんだか不思議さに化かされて、結局別の読みを考えていなかった。いま気がついた。別の読みというのは「ネモフィラ(畑)は揺れていたから地球に見えたのではないか」という読みである。しかしこれは僕の不思議な「ロジック」の「作動」によって可能な読みで、全然本筋ではない。それならまだ「一から多」と「多から一」の読みのほうが真っ当である。

<「ロジック」の「作動」というのは「自然さ」と向き合う私の一つの工夫なのだと思う。「作動」には他律的なところがあるし、「ロジック」には自律的なところがある。そのバランスを保とうとする一つの工夫が私には見える。「自然さ」があるかないかを考えるのではなく、「自然さ」がどのようにあるかを考えること、それは一つの工夫であるように思われる。ただ、このように言い過ぎると私は自分に欺瞞を感じてしまうところがあるからこれくらいにしておこう。>

[本筋ではないことが問題であるというよりはむしろ、本筋ではないものにすらなりえなさそうなことが問題なのではないだろうか。まあ、私はおそらくこのような問題をあまり問題として信じていないというか、嫌悪しているというか、そういうところがあるからわざと話をずらしているのかもしれないが。]

<なんというか、少し分かりにくいが、簡単に言えば、私は「どうしてもこう読んでしまう」みたいなことが好きで、それを研ぎ澄ましていくことこそが重要だと思っているから「本筋」か否かなんてことを気にするのは欺瞞だと言っているのである。おそらく。極端にならないように一つだけ言うとすれば、他人と解釈を突き合わせることは自分の快楽を多形的にすることに役立つと思うから他人の解釈も聞いたほうがいいと思う。君の快楽のために。>

まあ、ここでするべきことは読みをたくさんあげることではなく、さらにはそれぞれの読みの正当性を高めることではなく、僕の「興味がある」ことについて明らかにすることである。僕が「好き」なのは「一から多」と「多から一」の関係のように閉じられた関係である。

<これは上の転換をより決定的にしようとしているのである。ただ、ここでのテーマが「僕の「興味がある」ことについて明らかにすることである」からというのは一種の譲歩である。重要な譲歩である。>

[「閉じられた関係」でイメージしやすいのはむしろAが起こるとBが起こるみたいなことであると思うからAはB、C、Dと繋がっているということとX、Y、ZはWと繋がっているということに順序は逆転しているものの同じ構造があるということを「閉じられた関係」と言うのは変なことであると思う。]

<もう少し丁寧に言うとすれば、A→Bを批判する際にA→B、A→C、A→Dも(可能性としてであるとしても)成り立つと言うのではなくX→B、Y→B、Z→Bも成り立つと言う必要があるのではないか、とここで言っているのである。いや、対話というか議論としてはそうであるが、そういうものを無視するなら私はA→Bの批判は上の二つの仕方を同時に行い、もはや外側がない状態を(強い言葉で言えば)突きつける必要がある、というか、それが楽しいのだと言っているのだと思う。>

話をずらして展開してしまっているがなおるかどうかはわからない。とりあえず進む。僕は、極めて比喩的な言い方をすれば「外側がない」ということが「好き」である。もう少し実践的というか卑近というか、そういう言い方をすれば、「説明し尽くせる」ということが「好き」である。「閉じられた」というのはおそらく「外側がない」ことと「説明し尽くせる」ということを合わせた表現である。

<この「外側がない」ということについて私は入不二基義の影響を受けている、と自覚している。例えば、「したがって、「私たち」に外がないのは、堅固に閉じて閉鎖的であるからではない。どこまでも閉じることと開くことを繰り返すから、その外がないのである。また、「私たち」に外がないのは、一つの全体集合だからではない。むしろ、閉じた集合になりえないことを反復するからこそ、外がないのである。「私たち」というあり方は、「落差」の反復的な産出なのである。」(『足の裏に影はあるか?ないか?』27-28頁)によって私は「外側がない」と言っている。ただ、改めて確認してみると、私はもっとメリハリのある「産出」を考えようとしている気がしてきた。「閉じられた」の「た」を考えることによって。>

[一つ前の注釈と合わせて考えれば、私の「閉じられた」と一般(と私が想定しているだけではあるが)の「閉じられた」の違いは(広い意味での)因果が構築される仕方に関する次元か、因果が伝達もしくは共有される仕方に関する次元か、の違いがあると言えるかもしれない。ちゃんと言えている感じはしない。正直。]

<よくわからない。ただ、どうよくわからないのかもよくわからない。ここが肝心どころなのだろう。おそらく。勘所。>

僕が「嫌い」なのは具体的な話である。象徴的に言い換えれば、その話に出てくる事物をAとかBとかに置き換えられない話である。具体的な物事には「閉じられた」ことを困惑させたり破壊したりする力があり、私はそれが「嫌い」なのである。しかし、「ネモフィラ畑」が揺れないと「地球」にならないように、この力によって生まれる揺らぎなしに「閉じられた」ことは実感されない。

<別に私は具体的な物事自体が嫌いなわけではない。それははっきりさせておかなくてはならない。「話」にするなら具体性を犠牲にし、それを弔う必要があると思っているのである。おそらく。なにか勘違いしている気がするが、それがなんなのか、よくわからない。>

[ここは極めて重要なところである。というか、こここそが私の、僕の「興味がある」ことがなんなのかを示しているところであると私は思う。色々と思うところはあるが、とりあえず重要なのは「閉じられている」のではなく「閉じられた」ものとしてしか私たち人間は物事を理解できない、いや、少なくとも私はそういうふうに理解しようとしてしまうということである。簡潔に言えば、私はどうしても作為性を感じてしまうし、作為性を「閉じる」ことに向かったものであると考えてしまうのである。ただ、その嗜癖とも言えるものが発動するかしないかはまた別の問題であり、私はいつもそれを感じたり考えたりするわけではないことが「興味がある」ことをそれとして考えられるものにしているのである。]

<極めて重要な指摘がなされている。嗜癖とその発動が別なのだとすれば、発動の場面と嗜癖の在り方の場面は別であるということである。ただ、そんなにはっきり分けられる気もしない。この分けられなさと便宜的に分けることを分ける必要がある。考え進めていくためには。>

[「閉じる」を「開く」に変えたい、仮に殊勝な目的を設定するとするならばそんなところになるだろう。「最も普遍的なことは最も個人的なことから生まれる」とポン・ジュノも言っていた、気がする。永井均も「哲学に必要なのは最も情緒的なことを最も理知的なことに変換することである」みたいなことを言っていた。そういう感じのことが、仮に殊勝な目的を私自身に見るとすればあるのだと思う。]

揺らぎ、揺れていることが「ネモフィラ(畑)とか「惑星(たち)」とか、曖昧な表現を呼び込むのは、そこでの「から」、そしてそれを具体的に担う「小さく青い」に象徴される極めて抽象的でそれゆえに人間的な表現が「一から多」と「多から一」をもはや区別できない仕方で接続しているからではないだろうか。よくわからないかもしれないが、私もよくわからない。それでもそのまま繋げていくとすれば、その「区別できない」が上で言う「力」なのであり、その次元にまで連れて行かれることに私は「興味がある」のである。

[正直なことを言うとここでの「よくわからない」はパフォーマンスではなく本当によくわかっていない。私が好きなのは「極めて抽象的でそれゆえに人間的な表現」という箇所である。ただ、そこに感じていたエネルギーがうまく変換されているとは到底思えない。この文章は「よくわからない」。ちなみにこの「区別できない」と「力」の接続は「識別不可能性」と「偽なるものの力能」を繋げたドゥルーズを引き受けようとする福尾匠の振る舞いに触発されたものであると思う。だからパンチラインみたいに言っているがここはわからなさすぎるから他人に頼ったところでもあるのだ。まあ、頼ることは良いことでもあるが。]

<難しいなあ。しかも別に必要不可欠な難しさであるようには思えない。ただ、はっきり書ける気もしない。いまのところは。ややこしいことを言えば、私と作品の関係が私と言葉の関係においても反復されている、みたいなことが「極めて抽象的でそれゆえに人間的な表現」という箇所で言われていることであると思う。ただ、その反復される関係がうまくイメージできない、というか、うまくイメージできるフィギュールを作れないというか、そういう感じがする。>

ここまで「僕」で話していたが、特に意味はない。と私は思う。というか、ぎこちなかった。私は本質的に「僕」という表現を用いられない、用いにくいことに「興味がある」のかもしれない。

[別に由来を明かしたいわけではないが、ここの由来は平尾昌宏の『日本語からの哲学』である。ただ、平尾の本は(読んでいないので確かなことは言えないが)「です・ます」と「だ・である」の対比を基調としていると思うので表現自体を強調して対比するという方法の由来は平尾にあると思うが「僕/私」の対比自体がどこから来ているのかはわからない。また、別に「僕」を使ってもここまで書いてきたことを書けることには書けると思うが、なんだか浮いている感じがしたのである。私は。]

僕が興味を持てないのは「決定論と自由」の問題である。それがなぜなのかを考えることはとても重要なことであると思われるが、いまのところ私は「決定されているとしてもそれがわかるということがどういうことかがわからない」というつまらない理由しか思いついていない。興味を持てないのだから仕方がないのだが、ここがおそらく極めて重要な場所であることはわかる。ここが「無関心」なのだから。

[これは「宿命論と自由」に拡張しても大して変わらない。ただ、「決定論」が「宿命論」になることには興味がある。この興味はおそらく「人間」に向けられたものであり、その範囲を確定できていない、いや、それは酷なので、少なくともある程度は囲えていないから私は私がよくわからないのだと思う。限定が少なすぎるのである。おそらく。ちなみに「決定論」を強く取りすぎると刑法が刑法の根拠を判断能力に求める場合機能しない場合があることとかは「決定論(や宿命論)と自由」の問題のなかでは興味がある。ちなみに判断とか能力とかは極めて抽象的な可能性や偶然性、現実性の観点から興味がある。]

そう言えば、これは別の話というか、話していた人や話していた日は同じなのだが別の話のときに話していたが、私は「人生」というものがよくわからない。もう少し精確に言うとすれば、「人生」が想定できない。いろいろあって、その時々に私はいて、いたことになっていて、僕はそれをまとめきれないのである。「この人はこういう人生を歩んだ」の「この人」に自分が入れられる気がしないのである。頑張れば入れられるとすら思わないのである。だから私は宗教に「無関心」というか、そんな感じがするのである。

[この文章は正直ややこしいが、二つ論点を挙げておくとすれば、ここでの「僕」はしっくりくることという論点と宗教と「人生」の関係に関することという論点が挙げられる。前者はおそらく「不能」ということに関係があり、後者はおそらく「悟り」ということに関係がある。もう少しだけ踏み込むとすれば、前者は「私」は「できない」が似合わないということであり、後者は悟った人がわざわざ「悟った」と言う意味がわからないということである。もう少し踏み込むこともできそうだがこれくらいにしておこう。前者は「判断」やら「能力」やらに関わることであり、後者は代弁することに関わることである。その次元までいけば、二つは繋がっているような気がする。ああ、踏み込んでしまった。]

<後者が「代弁」に関わるのは本当か?前者はまだわかるが。物語がポイントである。おそらく。ここら辺は。自分で自分を物語る、その際に使われるもの、それがここでの問題である。手に馴染まない道具やら違和感のある状況やらがあるのである。おそらく。>

私はもしかすると「お話」に「無関心」なのかもしれない。いや、「お話」自体は「好き」なのかもしれないが、なんというか、主人公がいるような、個人がいるような、そういう「お話」に「無関心」なのかもしれない。なんというか、そもそも「主人公」も「個人」も「お話」によって存在しているだけ、みたいな意識が強いのかもしれない。いや、意識が強いというか当然そうであると思っているのかもしれない。そうじゃないと私の「無関心」はよくわからない。いや、よくわからなさすぎる。

[私は「お話」(「話」をわざわざ「お話」と表現するのは一種の眉を顰める振る舞いであり、遊戯の振る舞いである)に対して両義的な態度を取りがちである。自分のことについては「お話」を作られるのを嫌ったり、そもそもそれが作れないと思ったり言ったりするにも関わらず、他人のことについては「お話」を作るのを楽しんでいる。もちろんそれは自分と他人が違うからでもあるが………]

<自分と他人の違いをどのように理解するかを考えたいのである。おそらく、私は。しかし、その話はなんというか飽和していて、それは横断のための証明書みたいなものになっているのである。いまは。それがなんだか気に食わないのである。私は。なんか、もうちょっと頑張れば、なんとかなりそうな気もするのだが、エネルギーかスキルか、それはわからないが何かが足りない。>

話にとりとめがなさすぎる。これを一つの「お話」にできる才能に溢れた方はぜひ、これをまとめてくれると嬉しい。

[ちなみにここまで私が[]のなかでしてきたのは「お話」にすることへの一つの挑戦である。結果は失敗であると私は思うが、もう少し本気を出せばできそうだとも思った。[]を書くことでやっと。もう一回くらいすればできるかもしれない。今回はとりあえずこれで終わり。やりそう。]

<<>のなかはその挑戦からは離れていた気がする。どちらかと言えば「僕」的だった、というか、どんどん「僕」的になっていった気がする。「不能」の「僕」。>

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