改作と鑑賞10
今日も変わらず「改作と鑑賞」をしましょう。簡単に言えば、自分が作った句を改作するか、鑑賞するか、そのどちらかをするということです。まあ、ここでの鑑賞はほとんど感想なのですが。
寒雀宙に地面を腹這えり
うーん、なんだかごごごごしてますけど、言いたいことというか、表現したいことは雀が空と私のあいだに地面というか、地平というか、平面というか、そういうものを作り出しているように見える、ということだと思います。
ただ、平面を作る、みたいに言うには小さすぎますかね。単純な大きさとしても、動きとしても。難しいところですね。発想自体は覚えておきたいと思います。
雀の子ペンギンのように飛びにけり
これは一つ前の句の改作だと思います。ただ、「ペンギン」と「飛びにけり」がファンタジーっぽくて、そちらに気を取られてしまうかもしれません。ただ、なんというか、上のイメージを具体化するのは難しいですね。とりあえず置いておきたいと思います。
冬の空筆を弾いて均しけり
→春の空筆を弾いて均しけり
これ、たしか少し後に改作しているんですけど、そもそも「冬の空」はここで言われているような、均されたようなぼんやり感はないと思います。いや、ある日もあるんでしょうけれど、見たのは「春の空」ではないかと思います。なのでそれだけ直しました。発想自体は素晴らしいと思います。ただ、少し説明的かもしれませんね。
ゆるやかに殻割れにけり冬日差し
卵は茹でた後水に入れておくとツルンと殻が剥けるんですよね。ただ、それよりもゆったり、さらには割れている、そんな感じが「冬日差し」にあったんでしょうね。
→ゆるやかに殻剥けにけり冬日差し
「割れる」だと「ゆるやかに」がよくわからないのでこちらのほうがいいかもしれません。あと、「日差し」だとなんだか「割れる」に近いので
→ゆるやかに殻剥けにけり冬日向
のほうがいいかもしれません。
枯野あり大きい手なら撫でられる
なんというか、少し説明的すぎるかもしれませんが、発想は面白いですね。たぶん私たちより少し小さい人だと苔とかを撫でるのは少し痛いかもしれないじゃないですか。そんな感じで枯野を見たんでしょうね。相当大きい人ならこれを撫でても痛くないだろうという、そんな感じです。また、そういうおおらかな発想の飛躍は春の近さを感じる気がします。説明的すぎるところをどうにかすれば、名句になるかもしれません。
→雲の影枯葦撫でて流れけり
巨人という発想からは遠ざかりましたけど、イメージは近く、さらにはこちらのほうがいい気がします。「雲の影」の大きさによって撫でられ方が違う感じに見えるところも素敵です。今回はこれに満足しましょう。
春近し山は小さく膨らめり
なんというか、抽象度はかなり高いですけど、少なくとも私には質感が感じられます。「春近し」の。まあ、もちろん「小さく」と「近し」がそもそも響いているからこんなふうに抽象的でもわかるというのはあると思いますけど、それでもそのことをうまく使えるというのはそれはそれで素敵なことのように思います。
バイク行くトンネルはことに春めけり
うーん、「バイク行くトンネルことに春めけり」じゃだめなんですかね。そういうふうに改作した記憶があります。なのでそれで読んでみましょう。これはバイクに乗る人の実感がこもっていますね。なんというか、トンネルって、ある程度を超えると外が暑いと暑い、外が寒いと寒い、みたいな感じなんですけど、超えない限りは外が暑いと涼しい、外が寒いと温い、みたいな感じなんですよね。なんというか、トンネルが私たちの知覚を強調して、春めいていることに先んじて気づける、みたいなトンネルにも恩寵性を感じつつ、春があることへの嬉しさも感じつつ、みたい感じがします。
春めきてシール剥がしたあとみたい
これは凄い句です。特に説明するべきことはありませんけど、「あとみたい」とある意味そっけなく、放り投げるような言い方がいいですね。冬は「シール」だったのだと言わんばかりの春めき具合を感じます。
空白し街が突然現れる
うーん、これはたぶん、霞とか霧とか、そういうもので街が囲まれていて、仮に街の周りが砂漠だったら街が突然現れてびっくりするだろうなあ、みたいなことだと思います。なので、
→冬霞街が突然現れる
みたいな感じがいいと思いますけど、「空白し」という把握もいいですよね。季語ではないと思うので「冬霞」にしましたけど、別にわかるからいいと言ってもいいかもしれません。
手袋もせずにスロットルおらが春
これは少し後に改作したと思います。「手袋もせずスロットルおらが春」と。これもバイクに乗る人の実感が感じられます。
春を持つ大きな窓に天使あり
→春を待つ大きな窓に天使あり
まあ、よくわかんないですけど、記憶では、まあ、記憶なんてものは他人には使えないですけど、私の記憶なんで。記憶では、ショッピングモールの大きな窓が春を感じさせたみたいな感じだったと思います。別に「天使」がいたわけではないと思いますけど、まあ、よくわかんないです。ただ、フィーリングはわかります。他人がどう読むのか、この句は他人になりにくいですね。
春が来る街には白い砂漠あり
→春が来る街の向こうの空白し
これは上で言ったようなことをもう一度表現し直したんだと思います。改作後、結構好きです。
→春に行く街の向こうの空白し
なんか、街が動いている感じがしました。なのでこんな感じにもしてみました。
月雫もてりもてりと垂れにけり
これはたぶん、春の月ですね。だからそれを強調するとすれば、
→月の蜜もてりもてりと垂れにけり
これは類句として「蜜満ちてありと思へり今日の月」という句があるが、やはり私はこれが好きなので別にいい。し、この類句も私が作ったやつだ。まあ、それは関係ないか。
「月の雫」が「露」の別称だということをさっき知った。調べるなかで。
穴のある紡錘形で待ちにけり
まあ、これは句としては失敗ですね。「月の雫、蜜のような雫が垂れてくるのを穴のある陶器、しかも浮いている陶器で受ける。流れてゆく雫、ほんの少しだけ溜まる雫。」こんなイメージが私の中には結構昔からあるのです。またいつか、すごくうまくいけばそれは、他人にとって名句になるかは運次第ですが、私にとっては大いなる句作だと思います。
山霞む半透明の重なれり
これは凄い句です。説明するのも野暮なんで軽くにしますけど、「半透明」の板のようなものがたくさんあって、ほとんど見えない板の重なりが「霞む」ことの正体なのだと、そしてそれがわかるのは「山」が霞んでいるからなのだと、素晴らしい把握ではありませんか。
霞みけり山との距離感測りけり
だめですねえ。一つ前が名句過ぎましたし、これはダメすぎます。言いたいことはわかりますけど。
→霞みけり仙人住める山となる
いいんじゃないですか?霞むことで近い山なのに遠くなることを「仙人住める」に託すのはまあ、安直と言えばそうですけど、まあ、まあまあな句ではあると思います。
裸木の稜線少し撓ませり
うーん、微妙!遠近感がよくわかっていないと思う。
裸木や天の恵みに手を開く
これはねえ、初回の「改作と鑑賞」で改作前として出てきますけど、「裸木の空讃えたる形かな」のほうがいいです。明確に。
裸木を引き抜き雲を絡ませり
うーん、なんとなく好きですけど、めちゃくちゃ評価されるわけではないと思います。まあ、私は好きです。
冬の空スパッタリング均しけり
これはだめですねえ。まず「春の空」ですし、たぶんそうですし、「スパッタリング」がすでに「均す」ことを含むので二回も言う必要がないです。
→ほぼ終わるスパッタリング春の空
まだ雲っぽい雲がある。そんな感じがします。ただ、よい句ではないですね。私は好きではないです。それがなぜかは明確にできないのでこれ以上改作できそうにはありません。
ゆるやかに殻剥がれけり冬日差し
上のやつは最終的に「ゆるやかに殻剥けにけり冬日向」になりました。ここでは「剥がれる」になったんですね。これなら「冬日差し」でもいい気がします。「冬日差し」が切先になった感じがして。
春近し山の小さく膨らめり
うーん、「春近し山は小さく膨らめり」の「は」が「の」になったんですね。うーん、私は「は」のほうが好きです。このときの私はどうだったんでしょうね。とりあえず書いてみた、みたいなときも結構あるので、それかもしれません。まあ、それじゃない可能性があるからこわいんですけど。
バイクゆくトンネルのことに春めけり
バイクゆくトンネルはことに春めけり
いやあ、「の」も「は」もいらないでしょう。というか、「ことに」がトンネルをすでに異世界的にしているのでわざわざ音数を崩す意味がわかりません。
空白む街が突然現れた
うーん、「白む」ということは「どんどん白くなる」的な感じが「空白し」よりも強いというか、断言的じゃなくなりますけど、どちらかと言えば瞬間的な把握だと思うので「白し」のほうがいいと思います。
空白し街が突然現れた
うーん、上で説明した句の価値はおそらく、街から見れる白い砂漠のような霞を見ることだ街の外から霞を見ている人と共鳴しつつ、そちら側だけ「街じゃん!」となる、そんな二重性にあって、この句は外側が強すぎるのでその価値はないと思いますし、実際の砂漠はこんな感じの感慨とは違うと思うので嘘っぽいですね。この句は。
裸木のスナップショット眼で撮れり
裸木のスナップショット眼で溜めり
うーん、裸木の一つ一つも違うよ、的なことなんでしょうけど、
→裸木のスナップショット眼に溜めり
でしょうね。やるなら。まあ、正直そんなに魅力的ではないです。
→まばたきで撮るだけ撮れり裸の木
こっちのほうがいいです。まあ、まあまあくらいですけど。
手袋もせずスロットルおのが春
ああ、やっぱり改作してました。上で同じように改作しています。
春光や大きな窓に天使あり
なんというか、モザイク窓に天使がいるみたいですね。ただ、そのイメージだと散文的すぎます。ただ、それに抗う力がこの句にはありません。
→春隣窓の天使は歩きけり
天使は春に行こうと思って行けるんでしょうね。そんな自由さが感じられます。
春が来る奥には白い砂漠あり
手前じゃないっすか?まあ、「春が来る奥」じゃなくて「春が来る/奥には白い砂漠あり」か。でも、前者で取っちゃうなあ。なんとなく。
→遥かなる白い砂漠の奥の春
なんというか、奥感があるのはいいですね。「春」が最後の最後にあることと響き合っていて。まあただ、それだけと言えばそれだけですね。無駄に厳しいんですかね。いま。なんというか、グッと来ないんすよね。眠いんすかね。
春が来る白い砂漠に囲まれり
「白い砂漠」が四方から迫ってきて、中心部まで届いたら「春が来る」みたいな、そんなイメージをしました。そしてみんなそれを知っているような、そんな異世界感も感じました。異世界感には普通じゃないことが普通であることが必要なのかもしれませんね。
まあ、ここまでかなりファンタジー寄りで俳句ではないと言えばそうかもしれません。
もてりもてり月の雫の垂れにけり
これもファンタジーです。上の「月の蜜もてりもてりと垂れにけり」は垂れ始めみたいな感じでしたけど、こっちは蛇口から水が垂れているみたいな感じ、日常感がありますね。「余寒とはずらりと蛇口並ぶこと」(櫂未知子)を思い出しました。この句には関係がないと言えばありません。
ぼんやりと月の雫を待ちにけり
「ぼんやりと」しているから「月の雫」を待っちゃうのか、「月の雫」がぼおっとする時期、朧げな時期にあるからそうなっているのかわからなくて、それ自体がぼんやりとした感じがあって、それがいいですね。まあ、結構肩の力が抜けていて、それがいいと言う人もいれば、という感じですね。
髪まわす月の雫を待ちにけり
うーん、これはもう少し明瞭ですね。ただ、退屈さと「月の雫」の取り合わせが悪い気がします。
くるくると月の雫を待ちにけり
うーん、「月の雫を待ちにけり」に何が合うか試していたんでしょうね。少なくとも私はよく読めませんでした。この句は。
穴のある紡錘形に月垂れる
いやあ、ファンタジーが強すぎます。俳句的ではありません。陶器性もありませんし。もちろん全部は書けないですけど、それはそうですけどね。
山遠し霞の濃さをしるしとす
私→霞→近い山→遠い山、という位置関係に対する異議申し立てをしているんですね。この句は。霞の濃淡をそのまま山の遠近にしているわけです。「しるしとす」と言って。まあ、その心意気やよし、ですけど、つんのめっている感じもしますね。
稜線の揺らぎなくなる春が来る
この日、「稜線」がテーマだったんでしょうね。ただ、「揺らぎ」は春が来るとか来ないとかじゃなくて近くで見ているか遠くで見ているかで決まる気がする。私は。ただ、それだと句にはならない気がする。それもわかる。ただ、私は「稜線」のテーマ性をいまは失っているのでまた書ける時に書きたい。
裸木の稜線少し毛羽立たす
観照はたしかな気がしますけど、取り合わせは良くない気がしますね。
裸木や稜線少し毛羽立たす
同様です。眠たいです。もう。この日の分はやり終えて寝ましょう。あと少しです。たぶん。
裸木や恵みにまわる手を広げ
フィギュアスケートのくるくるみたいですね。
→一本の足で回れり裸の木
うーん、眠たくてもうよくわかりません。改作後もまた改作されることに開かれているのでそれに賭けましょう。
裸木の空より雲を巻き取れり
裸木や空より雲を巻き取れり
どっちも「裸木を引き抜き雲を絡ませり」には敵いません。これは別に眠たいからではないと思います。
最後は眠たくて雑になってしまったかもしれません。その判断すらままならないくらい眠いです。寝ます。楽しいですね。やっぱり。「改作と鑑賞」は。誤字ってたらいい感じにしておいてください。では。おやすみなさい。