哲学の二つの流派
哲学には二つの流派がある。そう考えてみよう。その二つの流派というのは人間学派と非人間学派である。このネーミングは冴えないネーミングかもしれない。なぜなら、一方が「人間学派」と呼ばれ、もう一方が「人間学派ではない=非人間学派」と呼ばれているからである。しかし、これはある意味仕方のないことである。もちろん、私のセンスがないというのはそうかもしれないが、私は大してこのネーミングに不満を感じていない。この訳はじきに明らかになるだろう。
二つの流派があると言ってもそれぞれの流派は相手の流派と分離しているわけではない。比重が違うだけである。では、比重について考える前に哲学とは何であるかを考えよう。
哲学と聞いてどのようなことをイメージするだろうか。通常このように問うときには大抵答えは決まっているように思われる。このように問うた人には答えがある程度あるように思われる。しかし、私は本当に問うている。言い換えれば、答えを想定していない。というよりも、私以外の人にこのように問うたときにどのような答えがあるのかがわからない。
私は別に哲学とは何かを考えたいわけではないので私の考えを言おう。私は「哲学とは『問いを仕立てる』ことである」と考えている。私はこの「仕立てる」という表現が好みなので言い換えるのは望ましくないのだが、もう少しわかりやすく言えば「問い」と「答え」を接続することが哲学であると私は考えている。言い換えれば、私は「問い」を出すだけでも「答え」を出すだけでもなく「問い」と「答え」のペアを出すことを哲学として考えているのである。
このように考えているとすれば、ある種前フリとして私以外の人の答えを想定することができるだろう。それは「哲学とは『問い』を出すことである」とか「哲学とは『答え』を出すことである」とか、そういう答えである。私はそういう答えではない答えを言っているのである。しかし、私の答えはこれらと全く違うわけでもない。私の答えは「哲学とは『問い』と『答え』のペアを出すことである」という答えであるから実際「問い」も「答え」も出されているのである。しかし、私はペアリングを重視している。このことを強調するとすれば、私は「問い」と「答え」の独立性を否定しているのである。「問い」を出すには「答え」が独立している必要がある。また、「答え」を出すには「問い」が独立している必要がある。言い換えれば、あらかじめ「答え」や「問い」が前提されている必要がある。しかし、私はそれを問うのである。しかし、私はそれを問うだけでなくその問うことから問いを仕立てる。この「仕立てる」について少しだけ詳しく見ておこう。
問うことから問いを仕立てるためには問うエネルギーをうまく操る必要がある。なぜそんな必要があるのだろうか。それは私たちはどこまでも問うことができてしまうからである。また、私たちはどこまでも答えることができてしまうからである。このことは哲学がテーゼを組み立てることによって成り立っていることを思い出すことで理解できることであると思われる。あるテーゼは二つの可能性に晒される。一つは根拠を問われる可能性である。もう一つは解釈を問われる可能性である。この二つの可能性はどこまでも可能であるという意味で無限の可能性であると考えることができる。(もちろんこの言いぶりは精確ではないだろう。精確に言うとするならば、根拠の方は無限であり解釈の方は無際限であると言えるだろう。そう言うとすれば、可能性はむしろ無際限に見られる様態で無限に見られる様態は現実性であると考えられる。が、この話はややこしく、さらには私もまだよくわかっていないのでとりあえず置いておきたい。)しかし、私たちはその可能性を放棄するしかない。なぜなら、私たちは結局有限の存在であるからである。また、仮にそうではないとしてもその可能性を放棄しないというのはどこまでも停止しないことであるからそもそも「考える」ことができない。哲学とは「考える」ことであろう。その具体的な形については上で「問い」を出す、「答え」を出す、「問い」と「答え」のペアを出す、という三つの形を確認した。この三つの形は言うなれば「考える」ことの三つの形であると考えられるだろう。しかし、「考える」ことはそもそも「思考停止」を伴う必要がある。どこまでも可能性を追いかける、いや、追いかけてしまう「思考」を操る必要があるのである。
このような課題を引き受けることが私にとっての「哲学」の課題である。「思考」するために「思考停止」しなければならないという課題が「哲学」の課題なのである。私が「問い」を出すとか「答え」を出すとか、そういうものを哲学であるとは思っていないのはどちらも「思考停止」を課題としていないからである。既に「問い」もしくは「答え」が前提とされているから「思考停止」は既に起こっている。もちろん、私たちの「哲学」も「思考停止」しなければ始まらないと思っているから結局そこには行く。が、この「行く」を見ることができるかが二つの流派が存在すると考えられるか否かに関わってくるのである。
ここで思い出してほしいのは「考える」ということを可能にする「思考停止」に二つの形態が示されていたことである。その二つの形態とは「私たちは結局有限の存在である」という形態と「可能性を放棄しないというのはどこまでも停止しないことであるからそもそも『考える』ことができない」という形態である。前者は言うなれば「人間」を前提にすることで「思考停止」していると考えられる。後者は言うなれば「論理」を前提にすることで「思考停止」していると考えられる。もうおわかりだと思うが、前者が「人間学派」であり後者が「非人間学派」である。それぞれの学派は「哲学」するために、言い換えれば「考える」ために「私たちは結局有限の存在である」ことを前提にし、「可能性を放棄しないというのはどこまでも停止しないことであるからそもそも『考える』ことができない」ことを前提にしている。
基本的には話はこれで終わりなのだが、この文章の本題はここからである。これは別に私の「哲学」の定義、「哲学とは『問いを仕立てる』ことである」ということがなぜ「問いを仕立てる」であって「答えを仕立てる」とか「問いと答えのペアを仕立てる」とかではないのかを語っていないということではない。このことは私の「哲学」観に踏み込めばすぐわかることだからである。しかし、私は私の「哲学」観がどういうものか、よくわかっていない。これについてはまたいつか語ろうと思う。今回は「答え」を出すとか「問い」を出すとかと対比して「問い」と「答え」のペアを出すということを提示したことで許してほしい。
本題というのはそれぞれに特徴的な表現は何かということである。というよりもむしろ、私は先にこれを洞察してここまで書いてきた。早く言いたいのでもう言ってしまおう。「人間学派」の問いに特徴的なのは「わざわざ」という表現である。それに対して「非人間学派」の問いに特徴的なのは「そもそも」という表現である。このことをもう少し詳しく言えば、「答え」を出すにしろ「問い」を出すにしろ「問い」と「答え」のペアを出すにしろ、それぞれの「出す」に「わざわざそれを出したのはなぜ?」と「人間学派」は問うし「そもそもそれを出したのはなぜ?」と「非人間学派」は問うのである。この二つの問い方はそれぞれ「有限性」に至ろうと「現実性」に至ろうとしていると考えられる。「有限性」は例えば「欲望」とやらに変換され、「現実性」は例えば「生活」とやらに変換されるだろう。(前者は例えばラカンの精神分析を、後者は例えばウィトゲンシュタインの美学をイメージしている。もちろん、どちらもこの二つの形態が混じり合う場所を探り当てようとしているとも言えるだろう。)しかし、変換されて答えられたところで別にそれは気休めでしかない。それは連鎖を求め、不安を呼び込むだろう。それは仕方のないことである。この仕方なさはおそらく「言語」ゆえのものであるだろう。しかし、私にはそれがまだ明瞭にはわかっていない。
哲学とはある種、元も子もないことを言うことである。どうやってその元も子もないことに到達するか、それがここでの二つの形態を分けている。しかし、結局元も子もないところには到達するのである。そこに到達したところで別に、何が得られるわけでもない。ただ悟ったふりがうまくなったり、煩悶することになったりするだけである。哲学とはそういう営みなのである。しかし、私は上手に仕立てられた「問い」は私たちに「考える」ことを教えてくれると思っている。もちろんその「問い」は結局「人間」か「論理」かに到達するだろう。しかし、そこに到達してもなお、どこからか溢れてくるエネルギー、それによってしか私たちは生きてゆけない。そういう、仕方なさを引き受けようという、そういう気になるのは「答えを仕立てる」ことではなく「問いを仕立てる」ことだと、私は思う。これは説明にも説得にもなっていない。ただそう思うと長々言っているだけである。いつか、ちゃんと言えるかもしれない。し、実はいつまでも言えないのかもしれない。ただの比重の問題なのかもしれない。しかし、これは冒頭で言っていた比重の問題ではない。これはどちらの学派にも存在する比重の問題である。しかし、どちらも比重の問題であるからにはどちらかを0にすることはできないだろう。どちらかが0であるならそれは比重の問題ではないからである。それはなんでもない。
最後に一つだけ、私はこの文章を書いてみて、書けなかったとか、力不足だとか、そういうことを強く思うことになった。私はこの文章を書いているとき、合田正人のレヴィナスに対する指摘を想っていた。いや、精確には「思考停止」のあたりからこの指摘を想っていた。その指摘とは次のような指摘である。(ちなみに「思考停止」という概念自体は千葉雅也『意味のない無意味』からの借用である。さらに言えば千葉は『思弁的実在論と現代について』(の154頁)でレヴィナスを含むユダヤ系の思想に対する一種のオルタナティブとして「思考停止」を考えたと理解できるような指摘をしている。)
外部を外部として認知しながら、それを迎え入れる「歓待性」(ホスピタリティー)を可能ならしめる奇跡、それこそが「思考」であるというレヴィナスの認識には、深く考えさせられるものがある。
『レヴィナス・コレクション』532頁
「思考」というのは「外部」に「内部」が制されることと「内部」に「外部」が制されることの間に留まること、そしてそれは「『歓待性』(ホスピタリティー)を可能ならしめる奇跡」と言われるほどに困難なことであると言われている。ここまで考えていたことはおそらく、レヴィナスが主に考えていただろう「内部」に「外部」が制されることにも「外部」に「内部」が制されることにも吸い込まれていかないような「奇跡」としての「思考」であるだろう。では、その「奇跡」はどのような「奇跡」なのだろうか。私はとりあえず「賦活性」(バイタリティー)であるとしておきたい。これから変わるかもしれないが。