「かぎかっこ」
現象学に不可欠な行為といえば、エポケー(判断停止)である。
エポケー(判断停止)とは、日常的に自明視している客観的世界の実存性を括弧にいれて、あえてそれについての判断を停止させること。
と、『現代思想の遭難者』(いしいひさいち著)では述べられている。
客観的世界の実存性というのは、どのようなことを言うのだろうか。この言葉を普通に受け取るとすると、自分という主観的世界の中、またはその近くに存在する客観的世界が、空想ではなく実際に存在することであると言い換えられるであろう。
けれども、この考えでは主観と客観の境があまりに曖昧である。
判断を停止するというのはどういうことを言うのだろうか、人間は感覚が受け取るものとは違う次元に思考の世界があると考えてしまいがちである。その考えに偏らないように判断を停止する。それは決して思考を停止することではなく、外界からの刺激を受け取るときに型に入れるのをやめるということなのだ。
つまり、先ほど曖昧になっていた境目は、判断が停止された現象と、判断を停止した主体というもので分かれると考えられるのだ。
私たちが机上の空論で考えているとき、そこでは主観と客観の区分は極めて曖昧であり、それは結局主観に取り込まれてしまっている。けれども、客観的世界の実存性が、主観的世界の接触に見出されるというのは、ひどく客観的世界を不安定なものにする。なぜなら、接触のないものは無いものとして認識されるからである。
そういった現象学の不安定な世界をある程度安定させたのが構造主義であると考えることができる。
構造主義は、それぞれ独立した世界として考えることがその不安定さを生んでいることを知ってか知らずか解決しようとしていた。
構造主義は、それぞれの関係のうちに世界を生み出した。それにより、それぞれの独立した世界は二項対立的にお互いを支え合う。そんな、不安定でありながらたしかに今までの偏見を取り去る現象学的視点と、その不安定さを二項対立的な安定によって支えていく構造主義により、世界の認識に対する主観性がいくらか客観性を持ち得るようになったのだ。
デリダは二項対立を解消するために脱構築という手法を用いたと思われているが、その二項対立的な安定が今までの偏見に塗れたものに逆戻りしそうであることを直感しそれに危機感を覚え破壊を計画したのだ。
デリダを単純な二項対立の破壊として捉えると、彼はただの破壊者になってしまうが、二項対立の固定化、つまり二項対立の無効化を防ぐためにそれを破壊したと捉えると、アリストテレスがしたように世界の腐敗を嘆き戦った者として捉えることができる。
デリダはテキストが何を意味しているのかを解き明かそうとしたのではない。テキストがどのようにして意味に到達するのかを示した。
ポール・ストラザーンはデリダを評してこのように言ったが、彼の洞察の深さは、テキストの意味の到達に意味を見出したというところまでだったが、それをもう一つ進めて、今の到達の破壊と再生のプロセスに対して鋭い視線を向けている点まで評価するのが良いと思う。
構造主義が背負っていた使命は、人間の偏見を取り除きながらも、安定した視点を確保することであったということができる。
デリダは、それをエポケーや構造主義的な関係意味論を用いて、そのシステマチックな破壊と再生とに見出したのだ。
話が少し長くなってしまっているが、ニーチェも同じようなことを言っていることを示して終わろうと思う。
芸術という価値定立作用と、それによって定立される美という価値こそが、生を刺激し高揚させるものだ
これは芸術に述べたものであるが、これは構造主義の母胎でありながら、それをさえも超越しているように思われる。
私は別にニーチェ信者では無いが、彼の洞察はまだまだ我々の先を言っているように証明されていってしまっているような感覚がいつでもする。