ゆる言語学ラジオ#388のコメント欄と一緒に考え事をする
ゆる言語学ラジオの#388「「モテ」と「おもしろ」、どっちを優先する?」のコメント欄を見てもう少し考えたい。
「もう少し」というのは以下の文章にも書いたようにもうすでに一聴はして感想も書いているからである。
ただ、論点をまとめたりはしていないのでここで少しまとめておこう。私の論点は三つである。一応。一応番号を振っておこう。
1.「個別族/構造族」と「モテ族/面白族」で用いられる「族」という造語法の意味するところはなんなのだろうか。
2.「構造族」が少ないとして、どうしたらそれが「少ない」と言えるのだろうか。
3.「モテ族」は「モテたい」を第一欲望(こんな言い方はしていなかった。はず。)としていて、「面白族」は「面白いと思われたい」を第一欲望としている、のだとして、「モテたい」と「思われたい」はどう違うのだろうか。
とりあえずこんな感じである。では、コメントを読みにいこう。ここからは、というかここまでもだが、このエピソードを聞かないと話がわからないと思う。少し長いけれど別に前提知識みたいなものは特に必要ではないと思うので聞きたいと思う人がいれば聞いてもいいと思う。
では。
「個別族/構造族」という対比はツイッターでの水野さん(ゆる言語学ラジオのパーソナリティの一人。もう一人は堀本さん。)の表現を借りれば「個別事象に関心を持つ/個別事象から導き出される構造や法則に関心を持つ」という対比によって定義されている。そして、その具体例として「体験好き/データ好き」、「寄り添える/寄り添えない」みたいな対比が紹介されている。「個別族/構造族」の大枠はそんな感じ。
私の元来(珍しく聞く前から内容がなんとなくわかっていたので聞く前に予想みたいなことをしていた)の疑問としては「個別」は「普遍」と関わりがあって初めてそれになるのだから、みんな「普遍族」で、それと「構造族」はどう違うんだろう?みたいなことを思っていた。
これはコメントを読んで触発されたことだが、特にどのコメントに触発されたかと言われると難しい。あと、水野さんも堀元さんも「構造族」だと言えると思うけれど、水野さんは「個別事象から導き出される構造や法則に関心を持つ」の「導き出される」が好きで堀元さんは「構造や法則」自体が好きなイメージがある。上の「個別」と「普遍」の関係で言えば、水野さんは「個別」をまとめて「普遍」化するのが好きで、堀元さんは「普遍」を決めて「個別」化するのが好きなイメージがある。なんとなくだが。
まあ、こんなことはまだ誰も書いていない。私が読んでいるところだと。
ああ、近いコメントがあった。「一般通過黒猫」さんのコメント。簡潔に言えば、「一般通過黒猫」さんは「構造族」に「構造を教えてほしい派」と「構造を自分で見抜きたい派」とがあり、前者に「人の話を聞いたり体験したりしたい派」があるのではないかと言っている。そして自身は、「構造族」であり、その「構造」をブラッシュアップすることを楽しむ派閥であると言っている。他の要素もあると思うが、そこはよくわからなかったのでとりあえずこんな感じ。
「一般通過黒猫」さんのエピソードへの反論性を強調するとすれば、「寄り添える」、いや、精確に言えば、「寄り添うのが好き/寄り添うのが嫌い」が「個別族/構造族」と境界線を共有するわけではなく、「構造族」の「構造を教えてほしい派/構造を自分で見抜きたい派」が「寄り添うのが好き/寄り添うのが嫌い」と境界線を共有するのではないか、と言っているのである。
まあ、用語法は雑だと言えばそうだけど、なんというか、少し進んだ気がする。ただ、「一般通過黒猫」さんはたぶん「人の話を聞いたり体験したりしたい派」と「「構造」をブラッシュアップすることを楽しむ派閥」が同じようなものだと考えていると思うのだが、それは違うと思う。というか、「人の話を聞いたり体験したりしたい派」が「構造を教えてほしい派」に入っているのがよくわからない。「人の話を聞いたり体験したりしたい派」と「「構造」をブラッシュアップすることを楽しむ派閥」が重なっても「構造を教えてほしい派」でも「構造を自分で見抜きたい派」でもあり得るように思える。なんというか、私は教えられるのと自分で見抜くのとがあんまり違わないように思っている。こと「人の話を聞いたり体験したり」することにおいては。
なんというか、私の発想に近いのはこの「一般通過黒猫」さんのコメントにコメントしている「yamyamcabbage」さんの「構造や法則を自分で発見することに幸せを感じるので、そのために個別具体を集めている」という発想である。これが上で言った「堀元さんは「普遍」を決めて「個別」化するのが好きなイメージがある」ということの意味であり、「普遍」が先行しているのが好きなタイプと「普遍」が出来してくるのが好きなタイプとの違いこそがここでの問題だと私は思っている。
まあ、「ブラッシュアップ」の気持ちよさはわかるけれども、それが「構造族」かどうかに関係があるかどうかはよくわからない。というか、「ブラッシュアップ」は「構造Aから構造Bへ」という移行があって、「構造A」よりも「構造B」のほうが複雑で、おそらく付加的だ(もちろんラカンみたいに構造自体が何もかも一変させるイメージを持ってもいいが、それだと「ブラッシュアップ」にならない)が、それはまた別の話のような気がするのだ。というか、私のイメージする「ブラッシュアップ」はより削除的で、より単純な「構造」を抉り出すことであり、ここで言われているような「ブラッシュアップ」はそれには当たらないように思われる。だから正直よくわからない。
大抵の人は「自分は構造族です!」みたいにコメントを始めるのだが、どうやったらわかるの?私もたまに「構造マンやからなあ」と言っているけれど、あれは別に反対を決めずに言っているだけだから、そんな感じ?それとも、上に挙げたみたいな定義がなんとなくわかってそう言ってる感じ?「関心がある」ってなに?
これはやめよう。どつぼだ。
「sanagirace」さんのコメントは3に関係していて面白い。その核心は「モテ動機(他人から評価されたい)とオモロ動機って本質的に同じだと思う」ということであり、代替案みたいなものとして「モテたい相手が所属しているコミュニティが違うだけ」であるということが言われている。そのあとのこのコメントに対するコメントでは、話し始めは「モテ/オモロ」が「自分起点/他者起点」だったけどだんだんズレていったみたいなことも書いている。
私は「モテたい相手」とその相手が「所属しているコミュニティ」を分けるところによくわからなさというか、もう少しそこを綿密に分けてほしいと思ったけれど、「sanagirace」さんには同意できる。そしてその後の「ズレていった」というのも同じようなことを思った。ただ、それらを指摘するだけではつまらないので、「モテたいと思われたい」というのはよくわからないが「面白いと思われたい」というのはよくわかるという、その不思議を考えると面白いかもしれないと思った。あと、「モテる」こと自体がすでにコミュニティ的であるのに対して「面白い」こと自体にそういうニュアンスは薄いことを手がかりにするのもいいのではないかと思った。これらは「sanagirace」さん及びそのコメントへのコメントによって分かったことである。ありがたい。
というか、これはなんというか、別にこのエピソードもそれに対するコメントも大して関係ないんですけど、いや、関係ないことはないんですけど私としてはいつも考えていることなんですけど、「同じことを繰り返してしまう」みたいなものが「オモロ」に入るとして、それは例えば「オタク」とか「自閉傾向」とか言われるわけだが、それもある人の傾向であり、ある人の在り方であるから、その「ある人」が成立しない「オモロ」が究極的な「オモロ」なのではないだろうか。いや、そんなことはないか。ただ、「オモロ」の究極にただの「ある人の傾向」に過ぎないことを挙げるのはなんだか、「そんなんでいいのか?」と思った。
「山田です」さんがあるコメントに「どっちも[「おもしろ」も「モテ」も:引用者]大雑把にまとめれば、「他者からよく思われたい」で、言い換えられるのではないかと思いました。」と言っているがそれはそうだと思う。ただ、「他者からよく思われたい」んでしょ?的なことはどんなことにでも言えるし、言えないことは一種の病性によってそれを弾いているだけだとも言えるから、それを言って終わりにするのはつまらないと思う。別に「山田です」さんがつまらないと言っているわけではなく、私はつまらないと思うというだけ。
ここまでで3は大体議論できたかな。議論というか、触れられたかな。1と2が難しいのかな。とりあえず再掲します。
1.「個別族/構造族」と「モテ族/面白族」で用いられる「族」という造語法の意味するところはなんなのだろうか。
2.「構造族」が少ないとして、どうしたらそれが「少ない」と言えるのだろうか。
ここまで読んできたもののなかでも「個別族/構造族」や「モテ族/面白族」がそもそも対比として成り立っていないみたいな反応が多い(特に「モテ族/面白族」はそういう反応が多かった)ので、「少ない」とか言われても、みたいな感じなのだろう。2に関しては。それなら1は?わざわざ「族」と言っている(最後のあたりで「類型」ではなく「特性」と言い換えているにしても)のは、なぜ?その勇気をたたえてみようじゃないか!と、こんな熱くはない、というか、別に熱くなっているわけではなくて、熱くなれるところを探している。いまは。もう少し読もう。そろそろ寝るかもしれない。
「geruzo_gerugeru」さんのコメント。「人間という大きな括りではなくその人個人の具体的反応を元データに個人そのものを構造化するのが好きなので悩み相談とかはめっちゃ好きです。」というコメント。一部省略した。なんというか、議論をすっ飛ばしますけど、私たちはあいだにあるものしか理解できなくて、それゆえに端を何にするかは大切です。そしてスケールの問題もあって、端は一方が決まればスケール感でもう一方も決まります。「geruzo_gerugeru」さんは「人間-X-個人」みたいなスケールではなくて「個人-Y-個人的反応」みたいなスケールで考えるのが好きみたいなことを言っていると私は思いました。私もたぶん「geruzo_gerugeru」さんくらいのスケールのほうが好きなんですが、私は全然「悩み相談」が好きじゃありません。なんというか、ケアが苦手なんです。この話が「個別族/構造族」の話に入っているのは、「寄り添える/寄り添えない」とか「寄り添うのが好き/寄り添うのが嫌い」とか、そういう話が「個別族/構造族」の話に入っているのは、なんというか、わからないわけではないですが何かが足りない感じがします。かなり。
そのあともなんとなく示唆的です。「その人が抽象化出来ていると、どう言えばどんな反応をしそうかわかるので悩み相談は好評です。しかし相手が喜んでいるのを見て、「よしよし、この人の抽象化には成功しているぞ」という達成感を得ているだけなのでめちゃくちゃ性格が悪いと思います。」と言っています。「geruzo_gerugeru」さんは。ほとんど引用しました。「geruzo_gerugeru」さんのコメントは。この際なんで全部引用しますか。
私はどちらかと言われれば絶対に構造族なんですが、人間という大きな括りではなくその人個人の具体的反応を元データに個人そのものを構造化するのが好きなので悩み相談とかはめっちゃ好きです。
その人が抽象化出来ていると、どう言えばどんな反応をしそうかわかるので悩み相談は好評です。しかし相手が喜んでいるのを見て、「よしよし、この人の抽象化には成功しているぞ」という達成感を得ているだけなのでめちゃくちゃ性格が悪いと思います。
ていうか、引用してなかったとこも示唆的かもしれない。別に誰も「あなたはどちらかと言えば『個別族』?それとも『構造族』?」と聞いていないのにみんな訊かれている感じがしているのか。別に馬鹿にしているわけではない。私も「俺は構造マンだから。」と言うことがあると言っていただろう?上で。
というか、引用した箇所は放っておいて思ったことを書くが、本当に「構造族」のほうが少ないんだろうか?ここまで「私は個別族です。」みたいな人を見ていない。まあもちろん、ゆる言語学ラジオのこのエピソードのコメント欄、という制限はついているが………。
引用に戻ろう。
私は上で「ブラッシュアップ」の気持ちよさはまた別じゃないか?みたいなことを言ったが、ここでの気持ちよさもまた別であると思う。「達成感」というのが正しいのか私にはわからないというか、私はそうではない、いや、それだけではないと思うのでとりあえず置いておくが、「その人が抽象化出来ていると、どう言えばどんな反応をしそうかわかる」というのはある「反応」を「その人」らしいかどうかで物語ることを毎回しているだけで、その物語ることの幅自体が狭い可能性もあると思う。簡単に言えば、陰謀論的な問題がここにはあると思うのだ。大抵の人は「ブラッシュアップ」してもその「ブラッシュアップ」された構造を人間の一般的傾向として発表しないだろうから、別になんとでも言おうと思えば言える。思おうと思えば思える。それが気持ちよくなっているだけなんじゃないだろうか。それを「達成感」と呼ぶのは、なんというかまあ、別にいいけどさ。
別に「geruzo_gerugeru」さんを揶揄しているわけではない。ただ、「geruzo_gerugeru」さんが気持ちいいと、快感だと思っていることはいろんなことが組み合わさってそうなっているのだし、それを支えているところに陰謀論的なところがあるとは思う。別にそれ自体が悪いというよりも、それがある、と思うだけである。「geruzo_gerugeru」さん個人についてはなにも思わないし、別に「達成感を得ているだけなので」と卑下しなくてもいいと思う。もちろんそれが陰謀論的な思考、もう少し広く言えば決めつけ的な思考を抑制していて、それが必要だと思うのであれば卑下したらいいと思うが。
2について言えば、「構造族」が少数の「わかっている人」、「あなたたちはまだ真実に気がついていないだけ」と言っている人にならないことを願うことくらいしかすることがないような気がしてきた。あとは1について、か。
水野さんはこういう類型論的な話をしたあと必ずと言っていいほど「他者理解につながる。」と言っていますけど、まあ、クリシェでもあるんでしょうけどそれは、1の気概にも関わることなのではないかと思います。ただ、個別族の人があまりにもいないのでよくわかりません。「モテ/面白」に関してはそもそも対比が充分に練られていないのでよくわからないところが多いです。
まとめみたいなことをしました。全然まとまりませんでしたが。なのでここから自由です。
「__annn」さんのコメント。「もう少しだけ細かく6つに分類するとこんなかんじかなあ
・自分自身がおもしろいと思うことをやりたい
・多数の他者がおもしろいと思うことをやりたい
・特定の他者がおもしろいと思うことをやりたい
・自分自身がかっこいいと思うことをやりたい
・多数の他者がかっこいいと思うことをやりたい
・特定の他者がかっこいいと思うことをやりたい」というコメント。参考になる。ただ、私はどうしても「自分自身」と「特定の他者」が近いような感じがする。このコメントに「sachihori」さんが「このうち一番上が本来のasdなのでしょうが、中途半端なasdは普通にならないといけないという意識から、面白くもなければかっこ良くもなく、さりとて自分の面白いも追求できない人になりがちなんだろうなと。」とコメントしているが、asdも別に「自分自身がおもしろいと思うことをやりたい」から何かをやっているわけではなくて、やらなければそもそも「自分自身」が構築できないからそうしているだけだと、も、言えると思う。あまり詳しくないので軽口ばかり叩いてはいられないが。なんというか、「衝動」みたいなものは「特定の他者」なんじゃないかと思う。それをどれだけ自分の生き様に組み込んだとしても。
お、なんか喧嘩みたいになってるが、それは無視して、「uruueto」さんのコメント面白い。というかはじめて「構造族」しかいない問題に切り込もうとしているコメントを見つけた。内容がいいというよりもはじめて見つけたから面白い。引用してみよう。「↑この一連の人たち、自分が構造族であるという謎の自分語りから共感コミュニケーションとってるから個別族傾向が相当強く見受けられる。本質的には個別であるが、育ったコミュニティが一定アカデミックな環境だと構造的に振る舞うひとがいるという仮説ができる。」
眠たい。「自分語りから共感コミュニケーションとってるから個別族傾向が相当強く見受けられる。」というのはどういうことなんだろう。それを教えてほしいけれど、このコメントについているコメントは「安定のアニメアイコン。私は悲しい」というよくわからないコメントなのでそれは望めそうにない。し、コメント欄で対話する気も起きないので自分で考えよう。
その前に歯磨きをしよう。
しました。いくつか考えかけましたが、とりあえずメモして寝ます。眠いので。
なんか、元も子もないことだが、個別族の人が「私は個別族なんですけど。」と言ったら「族」がすでに「構造」的だから、「ほんまかいな」となるというのがあると思う。だから、「私は構造族です」みたいなのは変ではないと私は思う。だから、そこらへんが喧嘩腰に見えたのかもしれない。「uruueto」さんにコメントを返した人には。
なんというか、「ほんまかいな」によって「少ない」はずの「構造族」がいっぱいいるという不思議は解決された、と言い切ることはできないけれど、このコメント欄がそうなっていることの理由はなんとなくわかった気がする。『ビジュアル・シンカーの脳』を紹介していた回のコメント欄がどんな感じか知らない(し、見に行く気もない)が、おそらく今回よりは偏りが少なかったのではないかと思う。なぜなら、「ビジュアル」と対比されていたこと、なんて言ってたか忘れたけどそれ、それだと言っていても別に「ほんまかいな」とはならないからである。
「本質的には個別であるが、育ったコミュニティが一定アカデミックな環境だと構造的に振る舞うひとがいるという仮説ができる。」というところはまず、「本質的には個別である」というのは人間皆初めはそうだとも言えるし、そもそも誰も「個別である」ことなんてできないとも言える。あと、ある程度は「アカデミックな環境」で育ったかどうかは「構造的に振る舞う」かどうかに関係があると思うが、環境-教育-振る舞いはそもそも「関係がない」と言うほうが困難であるから、なんというか、何も言えていないと言えばそうである。そもそも「関係がない」と言うのは「関係がある」と言うことよりも断然難しいことである。ここでの「アカデミックな環境」とはおそらく高校までの義務教育ではなく大学からの環境のことを指すと思うが、そのなかにも「アカデミック」度合いには違いがあるのでその辺も難しいと思う。
喧嘩腰性がやっとわかってきた。「本質的には個別なのに構造ぶってんじゃねえよ。インテリかぶれがよお。」という感じに見えたんだろう。たぶん。喧嘩をしようとしていた人は。まあ、そう解釈されても文句は言えないかもしれない。ただ、それよりも、もっとお互いを高めて、もはや喧嘩とかではなく、ただ単にわからない、みたいな次元までいくのが大事だと思う。まあ、コメント欄でそんなことをしていたらそれは奇跡だと思うが。
「体験にも意味がある」と言っている人や「寄り添うのが好き」と言っている人はいるが「個別族です!」と言っている人はいない。
眠たい!ただ、もう少しいけばいい感じになりそうなのであと少し粘る。明日推敲する。ここまでとここから少し。
自分軸と他人軸って対比できるんすか?みんな「自分軸と他人軸だと思っていたら違った。」みたいなこと書いてるけど。
あ、また「一般通過黒猫」さんだ。一つに二つ以上コメントする人もいるんだ。「一般通過黒猫」さんはこんなことを書いている。「「誰の評価も上がらないけどしたいか」とか「死ぬまで誰にも言わなくてもしたいか」とかみたいな問いをリトマス紙にして分類すると綺麗にいきそうな気がしました。」私はそんな問いを向けられたら、「わかんないです。」と言いそう。わかんないから。それはさすがにサービス精神がなさすぎると思ったら「誰かの評価が上がるからしたいとか、そんなことは関係ないとか、そういうことには興味がないとか、全部言いたくない。言ったらそれに従わないといけなくならような感じがするから。」みたいに言うかな。「死ぬまで誰にも言わなくてもしたいか」に関しては、「その「誰」がインターネットじゃないところで親しい人ならすでに誰にも言っていないし、インターネットで親しい人なら別に言わないほうがいいと思うなら言わない。」みたいに言うかな。
ねんむ!
面白いものもあるが、いまの俺ではなんともならない。最後に。なんの迷いもなく「たしかにい。」と思ったものを引用して終わろう。「sion3697」さん。「この二人は「構造が好きな人」というよりは「『構造化する』という体験が好きな人」な気がする。」そうなんですよね。たぶん。これをもう少しだけ踏み込んで書いたのが「水野さんは「個別」をまとめて「普遍」化するのが好きで、堀元さんは「普遍」を決めて「個別」化するのが好きなイメージがある。」だと思う。
1について「これだ!」みたいに思うところがなかったなあ。それは残念だけど、割と頑張ったほうではないかと思う。では。おやすみなさい。
推敲後記
推敲しました。おはようございます。二つあります。一つは「他者理解につながる」という水野さんが類型論を話したときに必ずと言っていいほど言うクリシェと「geruzo_gerugeru」さんのコメントに触れて言った「私たちはあいだにあるものしか理解できなくて、それゆえに端を何にするかは大切です。そしてスケールの問題もあって、端は一方が決まればスケール感でもう一方も決まります。」ということは繋がりがあると思ったということです。簡単に言えば、「人間-X-個人」における「人間」や「個人-Y-個人的反応」における「個人」に「族」的な発想を加えることで、それ自体が「人間-族-個人」的な関係性を考えるきっかけになったり、「族」のなかにおける細かい差異を見出すことを可能にしたり、それらが「他者理解につながる」というのはなんとなくわかりました。めちゃくちゃ昔に私は何にも分からないけれどなんとなく分かることとして「カテゴリーはカテゴライズを促進する」みたいなことを書きましたけど、書きつけましたけど、あれは包摂の問題提起でもあるし、更新の課題提示でもあるのかもしれないと思いました。だから実は「類型」を「特性」に変換するのはその二重性を毀損する可能性があるという意味で悪手だったかもしれないと思いました。まあ、一聴しかしていないので的外れというか、含意がよく汲めてないのかも知れませんが。もう一つは本文で「陰謀論的な問題」と関わると言っていることとかつて自分が書いたレポートの関係について、です。「かつて自分が書いたレポート」というのは簡単に言えば、「自然科学は反応はいつも返ってくるけれどその反応がどういうシステムで動いているか分からないという謎を抱えている。それに対して人文科学は反応がいつも返ってくるとは限らずなぜ返ってこないとき(もしくは返ってくるとき)があるのか分からないという謎を抱えている。謎の形態がそもそも違うのだから解決の形態も違っていて………」みたいなことをこれを言うと特定されるかもしれないので細かくは言えないが大学院で受けた理科教育に関する講義のレポートで書いた。なんというか、まだよくわからないのだが、「ブラッシュアップ」の気持ちよさはこのレポートの表現を借りて言えば「人文科学」を「自然科学」的に遂行することの気持ちよさに似ているのかもしれない、が、かなりの唯物論者以外は人(間)に謎を想定しないことはないと思うから、そのスライド自体が罪悪感を抱かせているのかもしれない。私は、罪悪感を抱く暇があるんだったらそのスライドを徹底的に遂行して、その遂行自体の、それこそ「構造や法則」を抉り出すことに「関心がある」なあ、と思った。
書きたいことはまだあるっちゃあるが、そろそろ仕事の準備をしなくてはならないので準備をしようと思う。では!