「読みたい」本から読みたい本を選ぶ

さて、今日は企画的にものを書こう。その企画というのは「「読みたい本」から読みたい本を見つけよう!」という企画である。ここでの「読みたい本」というのはブクログというアプリの機能の一つで、その名の通り「読みたい本」を登録できる機能である。他の登録の機能として「積読」「いま読んでいる」「読み終わった」があることから推察されるように「所有しておらず読んだこともない」かつ「読みたい本」がブクログの「読みたい本」には登録されている。その登録されている本のなかからいまの私が「読みたい本」を探してみようというのが今回の企画である。

さて、企画の内容を説明したということで、企画の趣旨についても考えてみよう。今回の企画の趣旨は本の選択から自分の欲望を発見することにある。この趣旨の背景には次のような困難がある。その困難というのは私は本の選択ということを始点もしくは支点にしないと自分の欲望を発見できないという困難である。他人がどうなのか私は知らないが、とにかく私はそのような困難を抱えているのである。もちろん、自分の欲望を発見するための手法は「本の選択」を用いることだけに留まらないが今回はそれをしたいと思うのである。

さて、今日やることの概要については確認したところで実際に「読みたい本」から読みたい本を見つけてみようと思う。ここからは次のようなフォーマットで文章を書く。まず「著者の名前『本の名前』(出版社、出版年)」という形で本を示し、それを読みたいと思った理由をその下に書く。例えば次のように。

千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋、2024年)
センスが良いと言われたいし、千葉雅也の書くものは肌に合うから。

実際はもう少し理由を書くと思う。なぜなら、理由というのは欲望を知るための手がかり、そして一般的にも承認されやすい手がかりだからである。ちなみに『センスの哲学』は「読み終わった」に入っている。

「読みたい本」には現時点で846冊登録されているのですべてを確認し読みたい本を選ぶことはしない。このような宣言をするのはこのように言っておかないと私が苦労するからである。では始めよう。

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋、2004年)
最近Twitter(現X)で村上春樹が盛り上がっている。なぜ盛り上がっているか私はよく知らないのだが、盛り上がっている。そのなかで誰か(忘れてしまった。)が「村上春樹を読むなら『若い読者のための短編小説案内』から読むといいよ。」みたいなことを言っていたので登録した。私は長編小説が苦手なので、いや、それを読む術をあまりに身につけていないので短編を読み漁ることが多い。この偏りもなんとかしたいが、私はそもそも小説が苦手であり、それをなんとか克服しようと思って、そしてほとんど読んだことのない村上春樹(ブクログで調べてみると私は村上春樹を『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』(新潮社、2002年)でしか読んだことがなかった。)を読んでみようと思ってこれを選んだ。まあ、別に小説なんて読まなくてもいいのだが、やはり文学は生きる力、生き延びる力に繋がるという実感があり、それに最近は真剣にではないがコミットしているのでこれを選んだのだと思う。

小津夜景『ロゴスと巻貝』(アノニマ・スタジオ、2024年)
私は小津のものを句集以外すべて読んでいる。と思っていたが、一つだけ読んでいなかったらしい。この本については『哲学の劇場』というラジオのどこかの回で聴いた。そして調べて、小津さんの生活、そしてその生活形式(ウィトゲンシュタイン)について知ることができそうだと思って読みたいと思った。生活形式にまで話が及ぶかはわからないが、この本もエッセイが40篇くらいあるらしいので短編小説よりも短編のものが読める気がする。最近は読書の体力、そして環境ともに弱っていっている気がする。徐々に変容していきたい。楽しく生命を燃やすために。にこにこ。

浅沼光樹『人間ならざるものと反政治の哲学』(青土社、2024年)
この本についてはよく知らない。著者についても『現代思想』の連載を持っていた。気がする。それくらいしか知らない。なんの連載かは忘れた。たしか私が見たのは田邊元に関する論稿だった。気がする。ただ、「人間ならざるもの」という仕方で「人間」を考えるのは楽しそうだし興味がある。青土社のホームページを見ると「人間ならざるものとは、「いまだ」人間でないもの=自然であり、「もはや」人間でないもの=神々である。それらに浸透され、みずからが人間ならざるものとなった人間は、ただちに政治的動物としてではなく、非政治的なものへと開かれた存在として捉えることができる。新しい政治的関与の在り方は人間ならざるものの実存主義によって、本書においてはじめて哲学的に根拠づけられ、その真意が明らかにされるだろう。」と書かれている。この「いまだ」と「もはや」の時間性については正直考えたことがなかったが、面白そうである。「政治」についても少しだけ興味がある。党派性には興味がない、いや、興味はあるがそれはもっぱら嫌悪である。何を嫌悪しているのかを見つめることも極めて重要である気がしてきた。

鴻巣麻里香『わたしはわたし。あなたじゃない。 10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方」(リトル・モア、2024年)
これもおそらくTwitter(現X)で見たものだと思う。忘れたが、私は本の情報をほとんどTwitterから得ているのでおそらくそうだと思う。他の方法としては上で挙げたようなラジオや参考文献などがある。が、今回はおそらくTwitterである。私は私の快楽として「「私とあなたは違う。」とにこにこする。」ことを発見していて、発見したことにしていて、それに関係がありそうだったので読んでみたいと思った。ちなみに私は10代ではないので想定読者ではないかもしれない。それでもいい。絵本は大人にも響くのだから。

中島義道『働くことがイヤな人のための本』(新潮社、2004年)
働くことがイヤである。そして中島義道が好きである。なので読みたい。どこで見たかは忘れてしまった。ただ、読みたい。

藤谷治『小説にできること』(筑摩書房、2024年)
上でも書いたように私は小説が苦手である。ただ、苦手であるが、ちゃんと苦手であるのは小説に何かできることがあると信じているからである。ただ単に知識人や文学者に憧れているだけなのかもしれない。しかも現実逃避のために。しかし、それでもいいから小説によって生に弾みをもたらしたいのである。私は。先に効能を知りたいと思っているのである。ある程度は読んできたが、それをリズムよく、ホップステップジャンプすることに仕向けていきたいのである。

中島義道『ひとを<嫌う>ということ』(KADOKAWA、2003年)
私はあまりひとを嫌わない。ただ、最近私はこのことを「嫌えないだけじゃないの?」とか「嫌えないから辛いんじゃないの?」と思うことがある。だから読んでみたい。中島義道推しだったのかもしれない。ここら辺の時期は。

豊﨑由美・広瀬大志『カッコよくなきゃ、ポエムじゃない! 萌える現代詩入門』(思潮社、2024年)
これもTwitter(現X)で見つけた。なんというか、内容はあまり知らないのだが、テンションの高いタイトルで、そして好きなテンションの高さだったので登録した覚えがある。「カッコいい」と「萌える」がどう共存するのかも気になるが、やはり私は文学を楽しむ身体を作りたいのかもしれない。「カッコいい」というのはいい言葉だ。その眼を持ってみたいというのもあるかもしれない。

伊藤計劃『虐殺器官』(早川書房、2014年)
有名な本である。なので、前から知っていた。が、「読またい本」に登録したのは比較的最近である。私が文学を読まない、もしくは読めないのが原因でもあるが、SFに興味が出てきたというのも登録の理由の一つではあるだろう。登録したときに読んでいたのは東浩紀の『ゆるく考える』(河出書房新社、2021年)だったと記憶している。私には文学的な想像力がない。哲学をしているとそう思うことがある。その方面にも期待があるのかもしれない。東浩紀、千葉雅也、福尾匠ルートがなんとなく見えるようになる気がせんでもない。

渡邉雅子『論理的思考とは何か』(岩波書店、2024年)
この本は前からブックファーストの本棚では見ていた『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』(岩波書店、2023年)という本のダイジェスト版のようなものであると『ゆる言語学ラジオ』で言っていたので登録した。記憶がある。これが面白かったら『「論理的思考」の文化的基盤』も読んでみたいと思う。ちなみにこの本についても語られている『のらじお』の「論理が難しい」はとても面白かった。他にも「『君たちはどう生きるか』と受け止め」もとても面白かった。関係ないことを書いてしまった。

菅野盾樹『人間学とは何か』(産業図書、1999年)
私は「人間」に愛憎入り混じる気持ちがある。上で浅沼光樹『人間ならざるものと反政治の哲学』を取り上げたが、それもその気持ちの一つの表れだろう。ただ、こちらはおそらく浅沼のものとは違ってメルロ=ポンティなどの視点から捉える、極めてまっすぐなものだと思う。思うだけだが。(証拠がないわけではない。私は私のメルロ=ポンティ知識と菅野がメルロ=ポンティの『知覚の哲学』(筑摩書房、2011年)を訳していることからこのように推測した。)その対比を感じるのも楽しいかもしれない。し、普通に「人間学」は聞いたことがあるが勉強したことはないので勉強してみたいというのもある。この本は吉川博満の『理不尽な進化 増補新版──遺伝子と運のあいだ』(筑摩書房、2021年)の注で見かけて登録した。

渡辺一夫『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社、2019年)
この本も『人間学とは何か』と同じ経緯、そしてほぼ同時に登録したと思う。正直なことを言うと私は渡辺一夫についても知らない(どこかで、ああ、中島義道がどこか、たしか『哲学者とは何か』(筑摩書房、2000年)で批判していたことをぼんやりと覚えているくらいである。)し、登録したときの昂りも忘れてしまったが、なんとなく読みたいと思った。

今村仁司『近代性の構造 「企て」から「試み」へ』(講談社、1994年)
私には「近代」がわからない。哲学書や他の書物を読んでいても「近代」が来るとよくわからなくなってしまう。「近代」を理解したい。サブタイトルが面白そう。

多田富雄『生命の意味論』(講談社、2024年)
私はやたらと「本能」やら「生命」やらを持ち出す人が嫌いである。話をそこで(一旦)打ち止めにしようという提案ならまだいいが、そのことすらしない人が嫌いである。そのことについて考えてみたいのだと思う。あとは『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年)の編訳者である合田正人がレヴィナスには「免疫」がないみたいなことを言っていて、レヴィナスについて知る端緒になれば、とも思っている。おそらく。少し調べてみると多田には『免疫の意味論』(青土社、1993年)という著作もあるらしく、『生命の意味論』は『免疫の意味論』の続編らしいので『免疫の意味論』から読んでもいいかもしれない。「読みたい本」に登録しておこう。

綿野恵太『「逆張り」の研究』(筑摩書房、2023年)
この本はTwitter(現X)で誰かが引用していて、その箇所が面白そうだったので登録した、気がする。「逆張り」というのは一つの手法であり、それを豊かに活用することは重要なことだと思われるので読みたい。また、もう少し踏み込むとすれば、永井均が哲学の方法として弁証法がもはや成立しない地点を保つことを挙げていた(たしか『哲学的洞察』(青土社、2022年)で挙げていた)ことや山口尚が『哲学トレーニングブック──考えることが自由に至るために』(平凡社、2020年)のなかで千葉雅也の『勉強の哲学』(文藝春秋)をヘーゲル的弁証法の反ヘーゲル的実践の手引きとして読んでいたことがこの本を読みたいと思わせたのだと思われる。

松本卓也・山本圭編著『<つながり>の現代思想』(明石書店、2018年)
私は最近私の中にコミュ欲(コミュニケーションの欲望とコミュニティの欲望を合わせたもの)があることを実感している。それは言うなれば「つながり」を希求することであり、その点でこの本を読んでみたいと思った。調べてみるとまえがきが明石書店のホームページで公開されているらしい。この方面に行く気になったら読もう。もはや欲望の拡散が目的になってきている感さえある。この企画は。ただ、楽しい。

山本貴光・吉川博満『問題がモンダイなのだ』(筑摩書房、2006年)
私は(特に書くときに)「問題を仕立てる」ことを問題にしがちである。そのことについてはさまざまな哲学書(最近の例で言えば、檜垣立哉『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(講談社、2022年)で檜垣は記述の問題を挙げていて、私もそこである程度は考えた。)において考えてきた。が、そのこと自体を解きほぐしてみたことはなかったように思われる。それをしてみたいと思った。

斎藤環『イルカと否定神学──対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院、2024年)
まずタイトルが面白そう。斎藤環も好きっちゃ好き。ラカン、ベイトソン、バフチン、レイコフ、中井久夫が出てくるらしい。大半は読んだことがあるので乗りやすそう。対話や回復というテーマも面白そうだし、「ケアをひらく」シリーズも面白そう。色々言ったが、タイトルが面白そう。いや、私は「否定神学」が気になるのかもしれない。東浩紀、千葉雅也、福尾匠ルートで。

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか──現代のヨブ記』(斎藤武訳)(岩波書店、2008年)
昔、古川雄嗣という研究者の論文を読んでいるときにこの本の引用が出てきた。それ以来たまに「クシュナー」と名前を呟いている。頭の中で。日記に書いたことがあるかはわからないが、とにかく呟いてきた。内容についてはよく知らない。九鬼周造が哲学でもって示した問題を宗教でもって示したのだと、なんとなく思っている。こんな適当な感じだが、だからこそ大いなるものが読める気もする。気もする。

さて、今日は寝ましょう。明日の私は変わっているかもしれません。が、846冊から読みたい本を選ぶことを寝ないでするのは難しいでしょう。そういう意味でこの企画は完璧主義的にするとすれば成功し得ないのです。もちろん、読みたい本があちらこちらになければできるかもしれませんが………

明日もします。今日は寝ます。寝ようと言われたので。

佐々木正人『最終講義 アフォーダンス 地球の心理学』(学芸みらい社、2024年)
生きているとたまに、たまにだがアフォーダンスということが気になることがある。例えば、レジと扉の位置関係諸々によっていつも扉からずれてしまう人間たちを見ていて、アフォーダンスが気になることがある。アフォーダンスについては同じく佐々木の『アフォーダンス入門──知性はどこに生まれるか』(講談社、2008年)を読んだくらいで、あとはたまに見かけるくらいなのでちゃんと勉強してみたい。調和。

松沢裕作『歴史学はこう考える』(筑摩書房、2024年)
歴史というものが私にはよくわからない。特に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ということがよくわからない。「歴史は繰り返す」もよくわからない。繰り返しを見るのが私たちで、経験が何であるかすらわからないのが私たちなのだからそう思うのだが、歴史学がよくわからない状態で考え始めても暖簾に腕押しなところがあると思うので実体感を持ちたいというのが理由だろうと思う。おそらく。話題作らしい。

仲谷正史・筧康明・三原聡一郎・南澤孝太『触楽入門──はじめて世界に触れるときのように』(朝日出版社、2016年)
伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社、2020年)の参考文献になっていて、面白そうだったので登録した。私は「手を見る」というエクササイズが好きで、ただ最近はそのエクササイズがなぜかできなくなった、精確に言えば、そこに昂り、喜びのようなものを感じなくなってきたのであの喜びを取り戻したいという欲望があるように思われる。この本を選ぶことには。

岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』(文藝春秋、2014年)
この本も多分、『手の倫理』で紹介されていた、気がする。もしかしたら違うかもしれない。私は「経験」について気になっている。おそらく。そして、この本が美術、特に絵画?について書かれたものであることも知っている。私は絵を、前でじーっと、絵の具が垂れてくるのを待つように見るのだが、いつも。そのことへの助けになって欲しいと思っているようにも思われる。「ルネサンス」については正直よくわからない。自分の欲望の外側。無関心。

原田裕規編著『ラッセンとは何だったのか? 増補改訂版』(フィルムアート社、2024年)
色々な人がラッセンについて書いた論集である。ラッセンについてちゃんと知っているわけではないが、どういう感じの絵を書くのかは知っている。また、ラッセンがよく揶揄の対象として挙げられることも知っている。一人の芸術家に対する評論集を読んでみたいというのが一番大きいと思う。

森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない──精神科医「自殺希少地域」を行く』(青土社、2016年)
タイトルが面白い。ひとの話を聞かない人からひとの話を聞くとはどういうことなのかを知りたい。

白井聖子『<自己>と<他者>の心理療法──自閉スペクトラム症と統合失調症スペクトラム障害の精神病理』(金剛出版、2023年)
私は自分に「自閉スペクトラム症」的なところや「統合失調症スペクトラム障害」的なところを感じることがある。偶然それらにはなっていないが、それらになっていたことを想像することは難しくないと感じている。もちろん、診断してもらったことはないので万人にこういうことは感じられるかもしれない。ただ、そんなことはどうでもよくて、私は「自己」なり「他者」なり、そういうことがわからずいつも躓いているのであるから読む価値はあると思う。私にとって。ちなみにこの本は木村敏の議論をベースとしているらしく、かつていくつか木村のものを読んだ(最も真剣に(?)読んだのは『偶然性の精神病理』(岩波書店、2000年)である)ので有難い。

田嶋陽子・アルテイシア『田嶋先生に人生を救われた私がフェミニズムを語っていいですか!?』(KADOKAWA、2023年)
最近、少しだけフェミニズムに興味がある。関連書籍もいくつかは読んだ。が、なんというか、人生ごと変容する、みたいな物語はまだ読んでいなかった。ので、読んでみたいと思った。数多くある(だろう)そういう物語の中からこれを選んだことに理由はない(し、そもそも全体像がよくわかっていない)が、テンションが高いことが決め手になったと思われる。口が滑ったり筆が滑ったり、そういうところに真実味を感じるタチなのである。私は。

井上俊『自己と他者の社会学』(有斐閣、2005年)
私は社会学に独特の印象を持っている。それは、切れ味は鋭いがつまらない、という印象である。なんというか、哲学や文学が持つ、ある意味でのねちっこさのようなものを感じられなくて、それが苦手なのである。しかし、私もある程度は「自己と他者」について考えてきたのでおおらかになれるのではないか、みたいに思っている。おそらく。

西平直『稽古の思想』(春秋社、2019年)
最近、『なしのたわむれ──古典と古楽をめぐる手紙』(素粒社、2024年)という本のなかで須藤岳史が稽古によって移ろう日々の移ろいをより感じられるようになるみたいなことを書いていたのを読んで、「稽古」が一つのテーマになっていたので読んでみたい。ちなみに『なしのたわむれ』は小津夜景と須藤岳史の手紙のやり取りを収録した本である。

さて、正直なことを言うと、少し飽きてきたので西平直『無心のダイナミズム──「しなやかさ」の系譜』(岩波書店、2014年)を読みます。

読みました。そろそろお仕事なのですが、このように読みたい本を選んでみると、関心というのは異なる強度、異なる速度で変化、そして同じであり、続けるですね。単純なことですが希望になります。帰ったらするかもしれません。し、しないかもしれません。

西山雄二・柿並良佑編著『ジャン=リュック・ナンシーの哲学 共同性、意味、世界』(読書人、2023年)
この本は本屋さん(たしかブックファーストだった)で見かけて登録した本である。正直言うとナンシーについてはよく知らない。名前を聞いたことがあるくらいである。(『嘘の真理(ほんと)』(講談社、2024年)は読んだことがあるが、あれだけではナンシーの哲学はわからない。)ただ、新しい哲学者を知ることは楽しいことだし、読書人の本は『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)や『25年後の東浩紀 『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学へ』(読書人、2024年)が丁寧かつ面白かったので読んでみたいと思った。

山本浩貴『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』(フィルムアート社、2024年)
山本浩貴については福尾匠の『眼がスクリーンになるとき』(河出書房新社、2024年)の座談会で知った人である。そこで発言、感覚が面白かったので読んでみたいと思っていた。し、いまもなおそうである。ただ、何を面白いと思ったかについては忘れてしまったところもある。ただ、読みたい。

末木新『「死にたい」と言われたら──自殺の心理学』(筑摩書房、2023年)
別に死にたいわけではないが死んでもおかしくない、気がする。私はこの頃そういう感じである。ので、それについて考えてみたいのかもしれない。ただ、私の死なないは「他人に解釈されるのが癪に触る」ということにかなり大きな比重があるので参考にならないかもしれない。もちろん、そのように思い込んでいるだけだと諭されるのかもしれないが。

眠たい。一旦寝ようか。というか、そろそろ飽きてきた。感じもする。楽しいのは楽しいのだが、楽しむのにも体力は必要なのである。

ということで、もっと適当に書きたいと思います。まあ、ここまでも適当だったのですが。

染谷昌義『知覚経験の生態学 哲学へのエコロジカル・アプローチ』(勁草書房、2017年)
これも「アフォーダンス」関連の本である。おそらく。ただ、哲学との関わりが強そうだという意味で『地球の心理学』とは少し趣が違う。おそらく。結構読みたい。ダイナミックな交流。世界と私、環境と私たち。

高橋源一郎『「書く」って、どんなこと?』(NHK出版、2024年)
普通に気になる。「書く」のがどんなことなのか。本屋さんで手触りを確認したことがある。この本については。なんというか、細かい凹凸、みたいな感じだった。喩えがなさすぎた。自分の中に。

小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社、2011年)
そうだよなあと思いつつ、タイトルにそう思いつつ、私が思ったのは、河合隼雄の対談本は鷲田清一と河合隼雄の対談本である『臨床とことば』(朝日出版社、2010年)が面白かったなあ、ということである。適当なことを言えば、「自分の物語」は「自分≒物語」というズレを作り出すことに他ならないと思う。哲学と文学の違いはそこにあるのかもしれない。

松葉祥一・本郷均・廣瀬浩司編著『メルロ=ポンティ読本』(法政大学出版局、2018年)
上にも書いたようにメルロ=ポンティについては又聞き程度に知っているが、メルロ=ポンティ自体の広がりをちゃんと感じたことはない。感じたい。ここからメルロ=ポンティの研究書も読んでいきたい。私はなぜか川崎唯史の『メルロ=ポンティの倫理学──誕生・自由・責任』(ナカニシヤ出版、2022年)を読んだことがある。いま思うとなぜかわからないが、なんとなくピンときたのだろう。そのときは。

永井均『遺稿焼却問題』(ぷねうま舎、2022年)
私は永井均が好きである。本書はTweet(現Post)を編んだもので、同じようなものに『独自成類的人間』(ぷねうま舎、2022年)があり、正直どちらを読めばいいのかわからない。わからない。本屋でパラパラしてみるしかないか。

立岩真也『私的所有論 第2版』(生活書院、2013年)
なんというか、別に立岩については知らないのだが、私的所有論については興味がある。なぜ興味があるかはわからないが、それが貧富の差等を生み出すから、でもあるが、そもそも私的所有が成り立つための条件に私は違和感があるからである。おそらく。この問題については永井均の(特に)『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』(春秋社、2022年)を参照するとよいと思う。私も読み直してみたい。

山本哲士『性的資本論──欲望/剰余享楽/ジェンダー』(読書人、2024年)
著者についてはまったく知らない。タイトルが面白そうだった。これくらいしか感想がないが、ここまで選んできたなかでもかなり読みたい。なぜなのだろうか。あんまり読んでいる人がいなさそうである。なぜなのだろうか。

山内志朗『ドゥルーズ 内在性の形而上学』(講談社、2021年)
なんというか、少し前まで読めたら読むくらいの気持ちだったのだが、山内志郎の『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』(NHK出版、2003年)が面白かったので俄然読む気になってきた。また、そのような科学反応には千葉雅也の『動きすぎてはいけない』(河出書房新社、2017年)の最後の章のライプニッツの読み直しも関係があるように思われる。そうなると俄然読みたくなってくるものなのである。

濱田秀伯『第三の精神医学 人間学が癒す身体・魂・霊』(講談社、2021年)
私も自然科学的な精神医学や精神分析的な精神医学に疑問を感じる。ときがあるので読んでみたいと思った。「人間学」か。ちゃんと見ていなかったが、医学と人間学の関係性もわかってくるかもしれない。

西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学』(中央公論新社、2013年)
野矢が生徒役となって対話するらしいが、それが面白そうである。言語学については正直興味があるかすらわからない。認知言語学と聞けば今や今井むつみが検索結果として上がってくる。

眠すぎる。もう無理だ。明日はここまでの読みたい本を見渡すことで私の欲望を見つけてみることにしよう。あと380冊くらいある。おそらく。眠たすぎて数え間違っていなければ。さて、寝よう。結構選んだな。

一通り読んでみたのだが、よくわからなかった。自分の欲望は。というよりも、示されている欲望がバラバラである感じがして、しかもそのことが微かに喜ばしく、それをまとめあげることはなんだか気乗りしなかった。ただ、欲望を極めて抽象的に取り出すとするならば、「「私とあなたは違う」とにこにこする」ことの「にこにこ」は「こういう話があの本でなされていましたよね」みたいな取り留めのなさが関係しているのだ、という信念が見えた。その信念を保ちたい、そういう欲望が私には見えた。

まとめはこれくらいなのだが、一つ元も子もないことを言えば、私はお金がないので読みたい本と読む本は違う。走り抜けるようにして五冊くらい読む本を選んでこよう。見落とすことを悲しまず。

宮﨑裕助『読むことのエチカ ジャック・デリダとポール・ド・マン』(青土社、2024年)

荒川洋治『文学は実学である』(みすず書房、2020年)

将基面貴己『従順さのどこがいけないのか』(筑摩書房、2021年)

新村聡・田上孝一『平等の哲学入門』(社会評論社、2021年)

三木那由多『言葉の展望台』(講談社、2022年)

ジャン=ルイ・ド・ランビュール『作家の仕事部屋』(中央公論新社、2023年)

綾屋紗月・熊谷晋一郎『つながりの作法 同じでも違うでもなく』(NHK出版、2010年)

石原真衣編著『記号化される先住民/女性/子ども』(青土社、2020年)

渡邊二郎『増補 自己を見つめる』(左右社、2021年)

齋藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)

中村達『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023年)

松本卓也『享楽社会論──現代ラカン派の展開』(人文書院、2018年)

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う──「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社、2013年)

竹村和子『愛について──アイデンティティと欲望の政治学』(岩波書店、2021年)

檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる 増補新版』(筑摩書房、2019年)

阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社、2024年)

永守伸年『信頼と裏切りの哲学』(慶應義塾大学出版会、2024年)

横田裕美子『脱ぎ去りの思考 バタイユにおける思考のエロティシズム』(人文書院、2020年)

三中信宏『分類思考の世界』(講談社、2009年)

青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』(光文社、2024年)

見田宗介『自我の起源──愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店、2008年)

千葉雅也『ツイッター哲学──別のしかたで』(河出書房新社、2020年)

藤野寛『キルケゴール──美と倫理のはざまに立つ哲学』(岩波書店、2014年)

青山拓央『哲学の問い』(筑摩書房、2024年)

岡野八代『ケアの倫理──フェミニズムの政治思想』(岩波書店、2024年)

丘沢静也『恋愛の授業 恋は傷つくチャンス。めざせ10連敗!』(講談社、2023年)

城戸淳『ニーチェ 道徳批判の哲学』(講談社、2021年)

町田康『入門 山頭火』(春陽堂書店、2023年)

小泉義之『あたらしい狂気の歴史──精神病理の哲学』(青土社、2018年)

木村敏『関係としての自己 新装版』(みすず書房、2018年)

中島隆博『哲学』(岩波書店、2009年)

冨田恭彦『カント入門講義──超越論的観念論のロジック』(筑摩書房、2017年)

東山魁夷『風景との対話』(新潮社、1967年)

中島隆博『中国哲学史──諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中央公論新社、2022年)

石原孝二編著『当事者研究の研究』(医学書院、2013年)

橋本多佳子『橋本多佳子全句集』(KADOKAWA、2018年)

森本浩一『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(NHK出版、2004年)

熊野純彦『サルトル 全世界を獲得するために』(講談社、2022年)

鈴木祐丞『<実存哲学>の系譜 キェルケゴールをつなぐ者たち』(講談社、2022年)

檜垣立哉『瞬間と永遠──ジル・ドゥルーズの時間論』(岩波書店、2010年)

上枝美典『神さまと神はどう違うのか?』(筑摩書房、2023年)

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年)

松本俊彦『誰がために医師はいる──クスリとヒトの現代論』(みすず書房、2021年)

村上春樹『村上さんのところ』(新潮社、2018年)

日高優『日本写真論 近代と格闘した三巨人』(講談社、2024年)

小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか──ダークサイドの心理学』(筑摩書房、2024年)

山極寿一『暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る』(NHK出版、2007年)

平尾昌宏『日本語からの哲学──なぜ<です・ます>で論文を書いてはならないのか?』(晶文社、2022年)

もう時間がない。お昼ご飯を食べなくてはならない。し、時間があっても終わるものではない。読んでくださった方には唐突で申し訳ないが、これでこの文章は終わろうと思う。一旦。私は次、何を読むのでしょうかね。そんなことは極めて偶然に決まるのです。ここに書かれていない本を読む可能性だってあります。じゃあなんのために書いたのでしょうか。さあ?

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