適当に本を読む──ある日の読書

適当に本を読む。ここでの「適当」というのは「いい加減」ということである。「良い加減」ではなく「いい加減」ということである。具体的に言えば、いつもはメモをしながら本を読んでいるが、気に入った箇所や重要な箇所、それらを余すことなく記録することを目指して本を読んでいるが、今回はそれをしないということである。そのためにカフェに来た。なぜなら、カフェであればいつものように文字スキャンアプリを使うのが憚られるからである。シャッター音が私を制するのである。さて、前置きが長くなってしまったが本を読もう。

カフェの待ち時間で『哲学トレーニングブック』(光文社)の「まえがき」と「あとがき」を読んだ。まだ待っているが、感想を書いておこう。引用する気はないが、私がかねがね言っている、「私とあなたは違う!」とニコニコできることは哲学の価値である、みたいな精神を感じた。この本の著者である山口尚はそれを「哲学書を読む」なかで成就しようとしているらしい。私はわざわざそんなことをしなくてもそれは成就すると思うのだが、それはこの本を読んでみないとわからないと思う。ちなみに私はこの本に所収されている文章のなかで特に「哲学の退屈さについて」「<後悔を有意味化するもの>としての自由意志」「千葉雅也の『勉強の哲学』へのコメント」「心の哲学へのひとつのアプローチ」「思考とは何か」「無意味の恐怖」「賤吏に甘んずるを」「性的興奮の孤独」「他者理解の四つの道」に興味がある。今日は。とりあえず「哲学の退屈さについて」を読もうと思う。そろそろ呼ばれる気がするが、気がするだけかもしれない。なので次のやつも決めておこう。違う本を読むかもしれないが、「性的興奮の孤独」や「無意味の恐怖」、「

案内された。とりあえず「哲学の退屈さについて」を読もう。コメントはしたかったらする。

内容についてはとりあえず保留しておこう。それよりもタイミングが良かった"せいで"パンケーキがはやく来てしまったことが問題である。いや、別に問題ではないが、少し困ったと思った。ちなみに私はこのカフェに会釈をするぐらいの関係の店員がいる。その人はずっと店員で居てくれる。ただ、役割を微かに超える瞬間がある。だからこそわざわざこのカフェに来ているところがある。のかもしれない。

内容についてコメントしておこう。と思ったが、特別言うことはない。別に言うことが欲しいわけではないが、欲しいということにして「性的興奮の孤独」を読むことにしよう。パンケーキはまだ来ていないことにして。そう言えば「哲学の退屈さについて」でゴドーの話が出ていた。「(私のゴドーのひとりはストローソンだが、あなたのゴドーは誰か?)」という問いを投げかけあうことは面白いことなのだろうか。私にはよくわからない。

「性的興奮の孤独」を読んだ。内容について言えば「トマス・ネーゲル「性的倒錯」より」という副題が示しているようにネーゲルの論文についての読解、そしてその読解が「外在的/内在的」に分けられ、その分割を支える山口自身の「ロマン主義的な」性質についての自己分析が展開されている。それ自体は別に珍しいことではない。ただ、この文章の最後「ついつい私は考えてしまう」という表現がこの文章自体を肯定するかのようでその身振りは素敵なものであると思った。身振りが関係ない次元についてはまだよくわからない。実感が湧かない。これから生活によって反復されてわかるようになるだろう。ちなみにこのことを「哲学の退屈さについて」の話に絡めることもできるが、それはそれでメシア的すぎる気がする。ゴドーはメシアではない。うまく言えないがそういう感じである。

上で私は「無意味の恐怖」を読もうと言っていたが、なんとなく「千葉雅也の『勉強の哲学』へのコメント」を読むことにしよう。「なんとなく」のところを無理やり開くとすれば、それはおそらく山口と私の違いがそこで強く感じられそうだという、そういう予感があるからである。「無意味の恐怖」よりも。パンケーキを一口食べた。甘い。レモンティーを飲む。美味しい。甘いのが肯定された。口に生クリームがついた。拭いた。

「君の人生一小節目 ジェラスで終われば一生切ねえ」(5lack)。頭を振ってしまった。イヤホンをしながら本を読んでいる。私は意外と(意外と?)周りの音を聞いてしまう。声として。だから遮断として音楽を聴く。ただ、急に休息に入ることができるように微妙に聞こえる、HIPHOPを聴く。聴こえてしまった。あまり面白くないのかもしれない。まだ途中だから戻る。

読み終わった。なんというか、ヘーゲルと千葉雅也を対比されることで『勉強の哲学』から『センスの哲学』に至る千葉の展開の理解が深まった気がするが、それ以外は特に何も得られなかった。少なくともいまの私には。ただ「ヘーゲルがヘーゲル的で「ヘーゲル的な」学問論を提示するのにたいして、千葉は「ヘーゲル的で「反ヘーゲル的な」勉強論を彫琢している」という言い方は例えばヘーゲルやレヴィナスに関する本の名前、『ヘーゲルを超えるヘーゲル』や『レヴィナスからレヴィナスへ』みたいで好みだと思った。また、

と書こうと思ったが、準備がないし今やりたいことではないので置いておこう。「無意味の恐怖」を読もう。その前にパンケーキを二口。レモンティーを一口。いただこう。

二口飲んでしまった。レモンティー。まあ、いい。読もう。

途中なのだが、そう言えば私は「欲望」について考えたいと思っていたのだった。特に「性欲」について。それはTwitter(現X)で次のような投稿を見たからである。

と書いたのはいいが探すのは面倒くさいので考えたさの中心だけ抽出しておこう。目の前のレモンティーは輝いていない。静かだ。中心はおそらく、ある行動(行動Aと呼ぼう)の説明原理として「性欲」が用いられているだけで「性欲があるから行動Aが起こった」と考えるのは間違っているのではないか、ということ、そして間違っているとしても私たちはそれによってコミュニケーションを取っているのではないか、ということにある。もしかしたらここから関係があるかもしれない。ないかもしれない。ないと言い切るほうが難しい。

ああ、「無意味の恐怖」を読んでいてやっと、私が読むべき論稿がわかった。いまの私が読むべき論稿が。それはおそらく「心の哲学へのひとつのアプローチ」である。ただ、私は食傷とまではいかないまでも少し飽きてきた。山口の語り口に。この本の語り口に。だから、元気があれば読みたいと思う。まあ、パンケーキが大きすぎたというのもあるかもしれない。

上の気づき、「いまの私が読むべき論稿」に関する気づきは「一般に、あるひとの行為の理由と意図が他者にとって納得のいくものとなるのは、その理由と意図がそのひとの自己利益を明らかにする仕方で結びついている場合である(さもなければ他者はそのひとの行為を理解できない)。」を読んだことによって決定的になった。私は「心の哲学へのひとつのアプローチ」でなされるであろう古田徹也への批評に興味がある。ただ、とりあえずこれを読む。もしかするとここですでに発展する可能性がある。イヤホンの充電が少なくなってきているらしい。少し充電しよう。雑音をそれとする練習をしよう。いま、私は微妙に高揚しているので機を捉えることさえできればできると思う。雑音をそれに。

めちゃくちゃ面白かった。周りは雑音にすらなっていなかった。もはや「心の哲学へのひとつのアプローチ」は読まなくても構わないが、ついでとして読むことにしよう。パンケーキは半分くらいあるが、全部食べてしまおう。レモンティーは口を濯ぐくらいには残しておこう。このカフェの会話を聞いてみよう。食べながら。

ここからに関係がありそうなこと、(おそらく)関係のないこと、それらがバラバラ現れてくる。イヤホンを外したところで他人同士の話は聞こえない。特別な事情がない限り。あと、上の食傷はもしかすると単純に胸焼けゆえのものかもしれない。

さて、パンケーキを食べた。多少胸焼けがするが、まあいい。外はやたらと晴れていて、部屋のなかは涼しいのに不思議な気持ちである。エアコンはそろそろ必要なくなるだろう。トイレに行って、帰ってきて、本を読もう。

本を読み始めると、私の目の前のテーブルに座っている、カップル(かな?たぶん)の会話が気になってきた。その内容というよりはむしろそのバイブスが気になってきた。エネルギーのあり方が気になってきた。一方が一方に惚れていて、それが惚れられている方にも分かられているようなエネルギーを感じる。そんなことはいいから本を読もう。そのエネルギーが少し収まった。別に悪くはないし勝手にしてくれたいいのだが。

読んだ。「心の哲学へのひとつのアプローチ」を。期待したようなことは得られなかった。「私とあなた[=山口尚]は違う」とニコニコすることはできなかった。ただ、触発は得られた。欲望は煥発された。ただ、疲れもしたので、「思考とは何か」を読んで今日は終わろう。とりあえず。私としてはもっとたくさんの本を軽やかに飛び回るつもりだったのだが、まあ仕方がない。今日は許そう。

突然「性欲」について上に書いていたようなことが気になっていたことを思い出した。ちなみにこれを読んでいる人は強く実感することはないと思うが、私は読みながら、時折本を閉じながらこれを書いているのでそれぞれの文章のあいだにはかなりの空白がある。なので私にとっては相当前のことなのだ。「性欲」について書いていたのは。だから「思い出した」と言っているのである。演技で言っているわけではない。で、なぜ思い出したかと言えば、「性欲」についての語り、私が探しもしなかった投稿の語りは実は「仕方なさ」とか「どうしようもなさ」とか、そういうことについて語っていたことを思い出したからである。それが上に書いたような姿になった。いまの私の関心によって脚色されたり脱色されたりして上のようになったのである。ただ、まったく関係ないわけではなく、「仕方なさ」や「どうしようもなさ」が語りの次元を逸するものであるから生物の次元に頼るというのはよくあることなのかもしれない。これは特別学ぶことはなかった「心の哲学へのひとつのアプローチ」によって再認識させられたことなのかもしれない。

最後に読むにしてはこれほど極上のものはないほど極上だった。「思考とは何か」は。いつでもそうではないと思うが、今回は極上だった。なんて気持ちの良い最後だろうか。店内BGMのリズム、ジャズピアノのリズムがやけに気持ちいい。

私はおそらく確信しているのだ。そのときごとのテーマ(今日ならなんだろう、例えば「欲望」と「意図」の関係、とかだろうか)は考え事を駆動し、引力として働きつづける、と。そしてそれは良いも悪いもなく、そのようにしか私は考えられない、と。もちろん、それから離れて引力だけでなく斥力が見えたとしても、私はまた別の引力によって駆動しているのだ。

さて、家へ帰ろう。夜ご飯を作る。私の役割だ。レモンティーは余っている。トイレに行こう。本と充電器二つを片付けて。イヤホンをつける。

さて、余ったレモンティーを飲みつつ、作ったプレイリストを聴きつつ、サービスの茶菓子(片付けていたときに机の上にあることに気がついた)を食べつつ、今日の読書を振り返ろう。

まあ、投稿を探しに行きますか。ちょうどそれくらい暇なので。

すぐに見つかった。Twitterを貼る仕方を知らないので投稿者を明らかにしつつ引用しようと思う。

@memo_machi
彼氏より性欲少なくなりたい。こんなブスのくせに抱いてほしいって思うなんておこがましいよ。キスだけでその気になってごめんなさい。ただのスキンシップで体が反応してごめんなさい。本当に恥ずかしい。こんな体もう嫌。二度としたいって言わないから性欲強いって言わないで。欲がなくなればいいのに

思ったより面白くない投稿だった。「面白くない」というのは「つまらない」ということではなくて「私が面白くできない」ということである。「Nice guyに限ってかなりルーズ」(RAU DEF)という歌詞しか聴こえていなかった。興味がないのであるこの投稿に。

ただ、上のように、勘違いしていたとしてもこの投稿から、いや、この投稿に触発されたところから考えは広がりそうである。ただ、私は人を救うのは趣味じゃない。

こういうのは、こういう可哀想な、可哀想に見える投稿には慰めが集まってくるからである。そうか。救いまではいかないか。なんか、乗れない。一通り見てこようか。メシアたちを。ニコニコ。

つまらなさすぎた。ニコニコ。いや、いくつか、二つくらいは面白くなりそうな予感がすんごく微かにしたけれど、そうはならなかった。レモンティーがいっこうに減らない。

自分ではないものが自分を動かしている、けれども、その「自分ではないもの」も「自分」と認識される次元がある。私たちは「AだからBだ」と思いがちだが、それは後付けである。その後付けが明確にそうなるところと明確にそうならないところ、そしてどちらにもなりうるところがある。上の投稿の面白そうなところはそこくらいである。あと、すごく元も子もないことだが、薬でなんとかなるという経験はなんだか面白そうである。ただ、それは救いにはならない。私の「救い」観はそういう感じである。なぜなら、「救い」は「自分」になる「自分ではないもの」に働きかけないことを条件としているから。

エネルギーがないのかもしれない。やる気が出ない。面白そうではあるんだけど。「あぁもしもし もし明日夢が叶ったらって話だけど 叶ってから考えるわ じゃあね!」(PSG)。

急にパンチラインを吐かれる。HIPHOPの経験。さて、帰ろう。

適度に適当な接客。カフェを出た。外、適度に暖かい。

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