江國香織のマジックとマジカルバナナ
携帯の充電が少なくなった。7%くらいだった。私がいま、居候している家は、そしてその家の充電器とソファーの距離は、ちょうど私が持っているコードの長さよりも少し長く、だから充電しながら携帯を触るためには、そして文章をフリックで書くためには、その「少し」を私の体勢で埋めなくてはならない。しかし、その体勢は、少しなら問題にならないのだが少しでも長くなると少し不自由に思えてくる。だから私は思い切って江國香織の『とるにならないものもの』を読んでいた。最初から。
少し前、なぜかこの本を買おうと思って、買った。その理由は後に判明したと言えばしたのだが、その理由がこの本を買うことを直接導いているとは思えなかった。言うなれば理由をつけるならそれが最も妥当だと思ったくらいで、別にそこで起こっていることが必然的にこの本に帰結するわけではもちろんないと思う。しかしなんにせよ買って、居候している家に、なぜだか忘れたが持ってきた。この部屋にはもう、おそらく七十冊くらいは私の本が置いてあって、たまに同居人、そしてこの部屋の契約者である人に「持って帰ってよ!」と半分本気で言われている。ただ、彼女も耐えかねたのか、それともただ単に楽しそうだからか、くるくる回る本棚を買ってくれるのだという。
くるくる回る本棚に、見合うような本は正直あまりない。いまたまたま、近くに四冊の本がある。統一感はあまりないが、この四冊はくるくる回っていても良いかもしれない。江國香織『とるにたらないものもの』、最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』、幸田文『木』、カフカ『カフカ断片集』、皆さんはどう思うだろうか。
『とるにたらないものもの』はタイトル通り、とるにたらないものもの、例えば「緑いろの信号」とか、「輪ゴム」とか、「メンソレータムとオロナイン」とか、「トライアングル」とか、「お風呂」とか、そういうものたちを江國香織のマジックでとるにたるものものにしていく、ある意味豪胆な本である。私はいま、「黄色」というところの手前でこの文章を書いている。ちなみにここまで書いてきたとるにたらないものものは私が好きだったものたちである。そのほかもいつもマジックが使えている。それはとてもすごいことだ。私は江國香織のことを知らないのでどんな人なのかわからない(「恋愛小説の名手」みたいに言われているのはどこかで見た。)が、マジックをこう何度も見せられると、やはり文芸の人なのだ、と思わざるをえない。なんでもない感想だが。
私にはこのマジックは使えない。いや、したことがないからもしかしたら使えるのかもしれないが、おそらくは使えない。そんなふうに思った。では、私に使えるマジックとはなんなのか。
それはおそらく、曖昧なままに鮮烈にする、そんなマジックである。昨年の八月九日にこんな句を読んだ。「赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす」という句を。『とるにたらないものもの』の「ルラメイ」という文章では標本の話が出てくる。
ここを読んでいるとき私はすでに江國のマジックに魅せられていて、さらには魅せられていることもわかってきて、ここでやっと、私と江國は二人に分かれた。「たとふれば心は君に寄りながらわらはは西へでは左様なら」(紀野恵)である。ここでの細かい、特別細かいというわけではないが細かい描写でやっと、ああ、この魔法は使えない。私には。と当たり前のことを思ったのである。
そこからは(と言っても私が止まっているのは56頁なのでそれほど読んでいるわけではないが。というか、普通に読めなくなったのはちゃんと「左様なら」と挨拶しなければならないと思ったからなのかもしれない。)なんだかそっけなく読めた。「どうせタネがあるんでしょう?」と思うわけでもなく、「やっぱり本物の作家はすげえや」と思うわけでもなく、ただ単に江國香織という作家の練り出している空間に入ったり出たりしていた。
ところで、私がなぜ上の句を読んだ日にちまで覚えているかというと、私は詩を、いや、俳句を詠んだ日にちと共に書き残しているからである。同じ日に詠んだ句を読んで終わりとしよう。
この日はなんというか、季語を調べて俳句を詠む、みたいなことをしていたからある程度たくさん詠んでいる。そのなかでも特にマジカルな句を選んできた。この文章の最後にふさわしいと思って。
よくわからない人のために野暮かもしれないが解説をすると、木版画は彫ったところが白くなる。「ハリガネムシ」を木版画で表現するとしたら「ハリガネムシ」をぴゅっと彫るか、「ハリガネムシ」以外をザギンザギンと彫るしかない。現実に「ハリガネムシ」は黒いからザギンザギンと彫るほうが普通なのだが、なんというか「ハリガネムシ」自体のぴゅっとした感じが必要だと思えば、ぴゅっと彫るのもいいかもしれない。そうやって浮いたり沈んだりして、一つの線でしかない「ハリガネムシ」がありありと存在してくる。そんな様子を描こうとした、のかもしれない。わからないけれども。
まあ、これも実作についてあまり知らないからなんとも言えない。さっきも「木版画って彫ったほうが白くなるよね?」と同居人に確認した。そんな程度である。だからおそらくもっと曖昧な、しかし詩的なことを書いているのである。それはただ単に自分に甘いだけだとも言えるし、みんなが自分に厳しすぎるとも言えるだろう。その日は、二〇二四年の八月九日は一種の缶詰状態で、私だけ、私と数人だけが暇だった。そんな日だった。そういう日はぐつぐつ煮込まれて、煮凝りみたいな日になる。ような気がする。
ちなみに私が『とるにたらないものもの』をあのときに買ったのはゆる言語学ラジオで堀元さんが『とるにたらないものもの』の「フレンチトースト」のくだりを引用していたからである。まだ私はそこまで読んでいない、今回の流れでは。買ったときにすでに面白そうなタイトルのものは読んだ。が、どれを読んだか忘れてしまった。何度読んでも楽しい。これは普通の読書の楽しみ、だと私が思っている楽しみ方とは別の楽しみ方である。私は通常、同じ詩を何度も読む。ことあるごとに引用したり、引用しなくても思い出したりして、何度も何度も愛する。しかし、この本は「フレンチトースト」は堀元さんの件があるから覚えているが、それ以外は「なんか読んだことがあるような………」みたいな感じでしか読めない。しかしマジカルで、それが心地良いのだ。ちなみに「煮凝り」というのは堀元さんがなんか『とるにたらないものもの』について、フレンチトーストについて、触れていたよなあ、とTwitterで検索したときに出てきた次のツイートに由来する。
私はなんと調べてこのツイートに行き着いたんだろうか。私の頭の中には「堀元(見)」とか「とるにたらないものもの」という音の並びとか、そんなものしかなかったはずなのに。おかしいなあ。いや、「江國香織」もあったにはあったのか。まあ、それはいいや。
私は何と何の煮凝りなのだろうか。そんなよくわからない問いでとりあえずこの文章を閉じよう。こんなことをしているうちに同居人は私に「コーヒー飲む?」と訊いてくれて、淹れてくれて、お菓子まで用意してくれている。それを無碍にするわけにはいかない。では。