承認欲求について考えはじめる
承認欲求について考えてみよう。普段の私は「承認要求なんて枠組みで物事を理解しちゃあつまらないでしょう。」みたいに言っているが、その「つまらない」こそつまらないのではないか、とお風呂で思ったので考えはじめてみたい。
まず、「承認欲求じゃん。」と言われそうな物事を集めてこよう。インスタ映えでしょう?嘘松でしょう?、あとはなんでしょう。思いつかないのでとりあえずこの二つについて考えましょう。
うーん、なにからはじめればいいのでしょうか。「インスタ映え」について私はあまり詳しくないのでわかりません。ただ、素敵な写真において「素敵でしょう」という態度が透けて見える場合、それは「承認要求じゃん」と言われる気がします。ただ、写真家も別に「素敵でしょう」の種類は違うとしても、そういう態度が透けて見えなさすぎると、もちろんそれも魅力にはなりますが、ある程度「この人はこういう写真を撮るよね。」というふうになるためには「透けて見える」ということが必要だと思うので、それと「承認欲求じゃん。」とはなにが違うのでしょうか。
規範とその規範との付き合い方は違う次元にあるとしましょう。Xという規範にはAという付き合い方とBという付き合い方があるとしましょう。「素敵な写真を撮る」という規範が「写真を撮る」ことにあるとして、その規範との付き合い方によって「承認欲求じゃん。」と「写真家」は区別されるのかもしれません。しかし誰が?何が?
仮に美術というシステムや大衆というマジックワードを保留するとすれば、なにが二つを区別するのでしょうか。私にはよくわかりません。
「写真家」に「承認要求」があろうとなかろうと、そこには「素敵な写真」があるかないかだけがあって、もちろん「写真」そのものを見るなんてことは叶わない願いだと思うが、それは完全に叶わないわけではなく「叶った」と言いうる領域も残されているような願いだと思う。
嘘松というのは簡単に言えば「嘘つき」のことである。ただ、わざわざ「嘘松」と言うときはそこに「見え透いた嘘つき」とか、「見栄を張った嘘つき」とか、そういうニュアンスが含まれていることが多い。そしてここで重要なのはそのニュアンスである。
「承認欲求」が「見え透いた嘘つき」と「見栄を張った」ことが「承認欲求」によるものである「嘘つき」は同じだと思うが、「見栄を張った嘘つき」がすべて「承認欲求」によるかどうかはわからない。ただの愉快犯であった可能性があるからである。ただ、「嘘松」はこれらを同じものであると考えているように思われる。いや、仮に同じものであると考えていないとすれば、「承認欲求」によるものであるような「見栄を張った嘘つき」が「見え透いた嘘つき」として「嘘松」と呼ばれていることになる。ただ、それは「ような」というふうに曖昧さを含んでいて、その曖昧さが愉快犯などの享楽勢を無視できなくさせている。
「○○が好きなんじゃなくて○○が好きな自分が好きなんじゃん。」という言説がある。不思議なのは○○に「写真」を入れると成り立つのに「嘘をつく」を入れると成り立たないことである。「嘘をつく」には非常に複雑な構造があると思うので「嘘をつく」を「人殺し」に変えてみよう。それでもおそらく成り立たない。この言説は。この「成り立たない」と「承認欲求」にはどのような関係があるのだろうか。
誰も「承認欲求」のために「人殺し」をしない。もちろん、「承認されなかった」から「人殺し」をする人は特殊なケースとしてあり得るとして、「人殺し」をすることで「承認」されることを目指す人はいない。それはなぜか。単純に「人殺し」によって誰かを「承認」することがないからである。それに対して「写真」であれば、「写真」を撮ることで、そしてそれを投稿することで「承認」されることを目指す人はいる。それはなぜか。単純に「写真」によって誰かを「承認」することがあるからである。しかし、この二つの単純さはなにによって作られているのだろうか。別に「人殺し」で「承認」を得たっていいじゃないか。そんなふうに思っているわけではなく、ここがヒントだと思うのである。
ここまで重要な点をいくつもスルーしてきた。今日はスルーできる限度が来たような気がするのでこれくらいにしておこう。考えはじめにしてはセンスのある感じではあったと思う。ここからはだらだら思うことを書いていこう。
そもそも私は「承認欲求」を理由にすることによって理由を作るという実践が楽しくなくなるのが嫌だから「承認欲求」を嫌っている。これは明言しておきたい。というのも、「承認要求」というのはある程度安定した生活をしている人の行動すべてに適用できるような原理であり、そこでは「この行動はなぜ起こったのだろうか。」という問いに「承認欲求から。」と答えることで事足りてしまう。しかし、理由を作ることはそれ自体楽しいことであり、それを「承認欲求から。」というつまらない答えによって放棄することに私は耐えられないのである。
というかそもそも、全部の行動を、もちろんある程度安定しているという条件はあるが、それを満たしている行動をすべて説明できる原理にはもはや説明性がないとも言えるだろう。いや、説明がありえるとすれば「ある程度安定している」とはどういうことなのか、というところでありえるだけで、それ以外のところでは「承認欲求」によって引き起こされる行動が多すぎて説明として意味をなさない。それゆえに「承認欲求」という説明原理はそもそも使えすらしないのである。
ていうかそもそも、「承認」って大きすぎると思うのだ。概念として。もちろん膨れ上がったと考えることもできる。原義としてはそんなに大きすぎることもなかったのかもしれない。それが膨れ上がった現代の現代性を考えることもそこからはできるだろう。しかし私は「承認」でなにを指しているのかがよくわからないのである。「承認」に仮に「承認されたい人に承認される」だとすれば、そもそも「承認されたい人」とはなんなのかを考える、という楽しみがある。しかし、私は「承認されたい人」というイメージで具体的な人が思い浮かばない。最近も入不二基義について書いて本人から面白い文章だと言われたり、千葉雅也について書いて本人から素敵な批評だと言われたりしたが、それはそれで嬉しかったが、別に「承認されたい人」であるかと言われるとそうでもない。もちろんそこらへんの人よりも「承認されたい人」であるかもしれないが、それはおそらく「承認」と何かを取り違えている。なんと言えばいいのだろうか。それはよくわからないが。
上で入不二や千葉の名前を出したのも「承認要求」からなのだろうか。「あの入不二基義から認められているなんて!」と、「あの千葉雅也から認められているなんて!」と思われるために名前を出したと言われるかもしれない。もしかするとこの文章全体がそれを書くための前フリだったのではないか、と言う人もいるかもしれない。別にあなたがそうしたいならそうしたらいいが、私は自分の勘違い(いまとなっては(といっても書いてからほとんど時間が経っていないが)「勘違い」というよりも「ないまぜ」と言ったほうが良かったと後悔というか、自分の反骨精神が強すぎたというか、そういうふうに思っている。)にヒントがあると思って書いただけであり、それが見つからなかったのは私の力不足で、それを指摘し、さらにはよりよい発展のさせ方があればぜひ教えてもらったり、ご自身で展開してもらったりしたいが、その落胆、もしくはそれに似たものを私にぶつけてもなににもならないし、その口実に「承認欲求」を使うならそれほどつまらないことはない。が、別にこれは「承認欲求」に限ったことではなく、かなり人口に膾炙している説明原理全体に対してこのように言える。ここで言ったようなことが「つまらない」の一言に凝縮されている。
マイナスをゼロに戻すための仕方はたくさんではないにしてもいくつかある。いや、「マイナス」という解釈も必要ないかもしれない。「ゼロに戻す」、ただのホメオスタシスとして。その仕方はたくさんではないにしてもいくつかある。それが愚痴の人もいれば、運動の人もいれば、物語の人もいれば、説明の人もいる。それはそれでいいのだが、どうせならその仕方を洗練させていく方向性を持ったほうがいいのではないか、と思う。ただ、たしかにこの領域を気にする人はそんなに多くないと思うから無理にとは言わない。が、これはお誘いでもある。そうしたほうが楽しいと私は思うからこの領域を私はお知らせしたい。
私たちがしている行動は謎の行動ばかりである。「なぜわざわざ『写真を撮る』のか」「なぜわざわざ『嘘をつく』のか」「なぜわざわざ『人を殺す』のか」等々、謎の行動ばかりしている。私たちの行動で「なぜわざわざ○○のか」に入らない行動はそもそももう謎ではなくなっている、まだ謎かもしれないが「謎だ」とは思われていない行動である。「なぜわざわざ寝るのか」なども謎と言えば謎だが「謎と言えば謎」くらいである。それは相当特殊な人ではない限り「謎」ではない。しかし、少なくとも「人を殺す」は入りにくいとしても「嘘をつく」とか「写真を撮る」とかは「謎の行動」である。その「謎」をそれとして残しておくのが「衝動がその行動になっただけ」みたいな説明である。しかし、私たちはこの説明に満足できない。安心できない。私は結構その説明がなにも説明していないとしても好きである。それは通常されている説明が「つまらない」と思っているからである。一旦通常されている説明を吹き飛ばしてくれるからである。なにも不安にさせたいわけでも、不満足にさせたいわけでもない。ただ単にそれが「つまらない」からそうしているだけである。だからそれが「つまらない」と思わない人は別に「承認欲求」という説明原理を使い続ければいいと思う。
別にこれはここでの議論に限った話ではないが、そもそも議論に入れる人と入れない人がいて、そこに優劣はない。まったくない。議論に参加できたところでなににもならない。もちろん参加できる人にとってはなにかにはなるだろうが、これは別になにも言っていない。私にも「入れないなあ」と思える議論は山ほどあり、おそらく「承認欲求」もその一つである。哲学で言えば決定論などは「入れないなあ」と思うし、文学で言えば短歌などは「入れないなあ」と思うし、他にもたくさんある。別にそれはそれでいい。たまに、ふいに、なぜか入って、「ああ、なるほど。」とわかったような口を聞いて、また「入れないなあ」となる。そんな感じでいい。というか、私はそんな感じがいい。みなさんがどんな感じがいいと思うかは知らないが、別にあなたが決めればいい。当たり前かもしれないが、これを守るのは相当に勇気と才能と鍛錬とが必要なことである。
「じゃあお前はどういう説明原理を採用してるんだよ!」と言う人がいるかもしれない。簡単に言えば、「気持ちがいいからしている」という説明原理を採用している、と言っても別にいいと思う。ここでの「気持ちがいい」というのはとても広いことを指していて、それこそ全部の行動原理を説明できるくらい広い。エクスタシー的なそれも、カタルシス的なそれも、友情的なそれも、恋愛的なそれも、とにかく「気持ちがいい」ことならすべてを指している。もちろんそこから分化していくからこれを採用していて、それこそ「気持ちがいい」のであるが、とりあえずそういうことにして、すべてを肯定している。そして包摂している。私たちを私たちにするために。「私とあなたは違う」とにこにこし続けるために。もちろんこの原理では説明できないことがたまにある。それは「承認欲求」では説明できないことがたまにあるのと構造としては同じだろう。そうではないとそもそも説明ができないからである。しかし、その形はおそらく違う。それについて考えることはしない。いや、まだできない。いや、いつかできるかもわからない。ただ違うとは思う。
ああ、そういえば書いている途中に「ぶりっ子」について言及しようかと思った。結果的にはしなかった。が、「透けて見える」ことにおいて「承認欲求」という説明原理の適切さに関する議論と「ぶりっ子」という属性付与の適切さに関する議論は似ているのかもしれない、と思った。ただ、そこが「承認欲求」の本質かと言われると、説明原理としての汎用性が高すぎるということによって本質的ではないことになっているからおそらく言及されなかったのだと思う。ただ、私のなかにはおそらく「ぶりっ子」を擁護しつつも援護はしないような曖昧な態度があって、それについてまだよくわかっていないから言及を避けているのかもしれない。以下の文章は一応スタイリッシュに書けているのだが、そういう記憶があるのだが、クリティカルにはなっていないような気がする。また時間があったら読みたい文章である。今日は読まない。もう眠たいから。
同居人も寝るらしいので私も寝ます。ワンルームで一緒に暮らすのも悪くないものだ。このリズム、そしてこの心情はこの生活以外のどこでも得難い。
と書いていたが、漫画を読むらしい。まあ、そんなに長くないだろうから、私は寝る準備をしよう。
推敲後記
読んでみて思ったことだが、「写真を撮る」と「写真を投稿する」では「承認欲求じゃん」と言われる可能性に大きな違いがあることは結構重要な気がする。が、ここでは飛ばされている。スキップされている。それについて考えてみる必要があるように思われる。まあ、「ここまで重要な点をいくつもスルーしてきた。」とは言っているが、書き残しておかないとスルーしたことさえ忘れてしまう。
ここからは「だらだら思うことを書いていこう」以降の感想というか、補足というか、そんなものである。
仮に「刺激-反応」と「要請-応答」がカップリングであることで本質的なところを共有している場合、「刺激」は「要請」となり、「反応」は「応答」となり、「刺激-反応」は「要請-応答」となる。これらの「なる」は同時である。それが「カップリングである」ことが「本質的」であるということである。この「なる」を仮に「無限化」というふうに呼ぶことができるとすれば、もっと抽象的でも良いのなら「可能化」でもいい、そう呼べるとすれば、そこで起こっているのは一つの事柄を回る無限のかき集めと複数の事柄を巡る無限の跳躍である。私たちはそれらを「有限化」もしくは「現実化」することによって普段私たちがするような「理由を作るという実践」をなしている。そうみなすことができる。私がしたいのはおそらく同時性によって見逃されている「無限化-有限化」もしくは「可能化-現実化」の均衡を保つこと、サイドステップするかのように、いや、サイドステップに見えるような流れを作るかのようになされる実践、私はそれをそれとして保っておきたいのである。
説明原理がそれとして使えるというのは他の説明を補足するからである。これは私の信念であり、人間に関わるところではそうとしか言えないようなことであると私は思う。理解の基本単位は類比であり対比ではない。同じことだが仮に対比がそれとして理解できるのであればそれはそこに対比を噛ませている=類比にしているからである。その二つの対比は極限的なことを言えば無関係であり、私たちはそれらをうまくシンクロナイズさせることでその無関係性を一つの関係性にしているのである。
「承認」について言えば「上からの承認」「横からの承認」「下からの承認」があると思う。「上からの承認」と「下からの承認」は「縦からの承認」と「横からの承認」と対比させることができる。インスタ映えなどは「横からの承認」を「縦からの承認」に変える、変えてしまう力があるのかもしれない。それゆえにそのことに諦めて、悟って、初めから「横からの承認」を断つような人もいるかもしれない。
感情は基本的に「ないまぜ」であろう。それをいくら純化しようとしてもそのことは変わらないだろう。だから私も一種の潔癖症なのである。皆そうであると私は思うが。別にこれは免罪符ではなくそこから考えはじめるしかないということである。
衝動を整えなくてはならない。形にして放出しなくてはならない。それは私たちの原初の道徳、そしておそらく倫理のようなものである。それに気がつかないから「身近な人に暴言を吐いてしまった」と事実を誤認する、少なくともそういうことがあるのである。
私はおそらく「説明」は前フリに過ぎないと思っているのである。それだけするなら「つまらない」と思っているのである。それは「説明」だけでは生きていく力が湧いてこないからそうなのではなく、「説明できる」ことに拘泥することが生きていく力を弱めてしまうと思っているからそうなのである。このことについては『非美学』という本を読んでもらえればなんとなくわかる。おそらく。
「謎」というのはいい用語だ。私の感覚としては不思議が人間に対して向かったときに「謎」という感じは現れやすいように思われる。もちろん「謎解き」の「謎」は違うかもしれないが、あれは「謎」にしては吸引力が変わりすぎる。逆ダイソン。「謎」は本当はダイソンのように、少なくとも宣伝文句としては「吸引力が変わらない」ものなのである。
私はこの文章で一旦解除しようとしている。なんでもかんでも「承認欲求」で「説明」しようとすることを。本題は「承認欲求」だが、副題はおそらく「説明しようとする」ことそれ自体である。そういうものとしてみればある程度スッキリするだろうと思った。