『ツイッター哲学 別のしかたで』の抜き書き
ここからの文章というか抜き書きは『ツイッター哲学 別のしかたで』(河出文庫)からのものである。この本は千葉雅也という哲学者のツイートを編集して本にしたものである。だからたまに日付と時間が付いているものがある。本のなかではすべてに付いているのだが私が抜き書きするときになぜか区別していた。最後らへんはその区別を認識しているが、最初はなぜか区別していただけであった。ここからは抜き書きのみ引用する。この抜き書きのあいだに何が挟まっているかは私の「日記」を読んでもらうほかない。何も挟まっていないときもある。
ヒントがなさすぎるとかわいそうかもしれないので最初の二つが出てくる「日記」が入っているnoteを下に挙げておく。
では、スタート。
「微弱な何かをスピーディーに堪能してすぐその場を離れる」(21頁)
「議論を膨らませるのではなく、減算的に仕上げること。ここはもうちょい補いが必要かな、という弱いパッセージがあったらむしろ、そこを全カットすることも考えてみること。」(24頁)
「部屋に観葉植物があると認知能力が上がるというのは本当な気がする。それは「無限」に触れることなんじゃないかな。無限に複雑なもの。板の木目とかもそ(/)う。「その先がある」感じ。それが欲望を牽引する。だがまた、それは「区切られている」必要がある。無限と有限の必要性をペアで考える。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』43-44頁)
「蚊取り線香を焚きながら、蚊帳も吊る。その煙·匂いと半透明の壁に囲まれた領域が、テリトリーになる。夏のただでさえ特別な時間のなかに、さらに特別な閉域をつくる。夏休み、従兄弟たちと泊まって、布団にもぐって遊んだのを思い出す。閉域である夏の、そのなかの閉域で遊ぶ。」(同上、49頁)
「赤信号、みんなで渡れば怖くない、というのがあるが、青信号を見てみんなで渡るということもまた、赤信号をみんなで渡るときの非合理性と同じ非合理性で支えられている。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』(河出文庫)63頁)
「ネットワークから降りて自然派を気取れと言っているわけでもなく、降りてもいいのだよと癒しを与えているのでもない。ユーザーも管理者も、常時接続のために努力する。しかし努力したとしても、それでも有限性において情報が断片化されてしまうことは不可避であり、それを認めるのがリアリズムである。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』76頁)
「他者がたんに他者であるだけで、その言うことが私に、私が自分で内的に思うよりも強い規定力をもつというのは、「神」概念に関わっているということがわかった。思弁だけど。ここで、他者とは物体でもよい。なぜ紙に書き出すと考えが進むのか、それは、「紙が神だから、いや、神が紙だから」である。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』102頁)
「葬式では、目の前の人物の死に対する気持ちと、「人が死んでいなくなること一般」の悲しい気持ちが混じる。儀礼が、特殊性と一般性とを圧着させる。人が死ぬ、という抽象的な悲しさがある。個々の人は、そういう抽象性の中へと死んでいくのだ、という感じもする。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』116頁)
「この議論d1には背景知識Pが欠けている、と指摘するだけのことは、その知識を持っている人には容易い。が、d1はPを欠くことでむしろ、Pをふまえた場合に想定される立論d2と違った独自性をそなえることになっており、その独自性はqという論点に要約される、と指摘することは難しいことです。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』121頁)
「足場は、組み始めはグラグラしていて、鳶はそこに乗りながら、部品をはめていってだんだん構造を強くしていく。ある対象をめぐる言説、メタ言説というよりむしろ、その対象の側方にある「パラ言説」をつくるときの感覚だ。足場を組むように書く。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』129頁)
「僕は、一貫性のある人が好きだったり、一貫性のない人が好きだったりする。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』153頁)
「世界には複数の秘密がある。この考えは神秘「主義」ではないし、宗教的でもない(宗教はおそらく複数の秘密に依拠しており、後者の方が第一次的である)。秘密は、人間的な事情というわけでもない。非人間的な「存在の事情」としての複数の秘密。それらに関わる人間文化の領域がある。[2012-07-03 15:43]」(『ツイッター哲学 別のしかたで』159頁)
「ある意味で、現地調査をしたり資料を見たりして事象の「動かしがたさ」を調達し、それにもとづいて何かを書くことと、サイコロを振って5の目が出たという「動かしがたい」結果の下で、詩を五つの連で書こうとすることは、根底的には、同じではないだろうか。[2018-04-13 10:02]」(『ツイッター哲学 別のしかたで』160-161頁)
「考えたこともない生の様態に出会う。生の、あるいは性の。闇のようにしか見えなかったところにいくつかの線が引かれる。それを辿っていくつかの、既知の喜びに似た情動に出会う。その先に行くには、変身の勇気が要る。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』166頁)
「トゥオンブリに関して、平倉くんは「あれは手癖で描いているだけ」と切り捨てていました。僕の記憶では。[2014-03-05 21:08]
むしろ手癖しか褒めどころがないってのを徹底するというのが好きなんだけどな僕は。[2014-03-05 22:58]
キース・ジャレットの即興の、CとGを反復してるだけで恍惚状態で偉そうにゲージュツしてる感じとか、手癖しかなくてすばらしいと思う。[2014-03-05 23:03]」(『ツイッター哲学 別のしかたで』166頁)
「ある種の下品さを批判するからといって、自分は上品だと思っているかというとそうとは限らない。それは、<異なる下品さ><別のしかたでの下品さ>を指し示しているかもしれないからだ。複数の下品さ。ある下品さから別の下品さへ。[2013-09-07 01:38]」(『ツイッター哲学 別のしかたで』179頁)
「脱構築的な論理回しを得意としつつもメタ批判にメタ批判を重ねるばかりでなくメタ批判の綾のただなかからある具体的なテーマを積極的にユーモラスに提示しそれを核とするひとつのアーギュメントを建てながら結論に複数性を帯びさせることも忘れないガッチリ色黒のラグビー部員はどこにいるのだ?」(『ツイッター哲学 別のしかたで』176頁)
「「先延ばし」にしない技術、という自己啓発本を読んでみてるけど、きちんと生きなければ! 成功するぞ! っていう強いタイプの本で、いまいちである。役立つところもあるけど、気合いの「抜き」方をうまく織り込んでいない自己啓発はクリエイティブにならない。多少適当じゃないと人生は芸術にならない。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』178頁)
「漠然とした自分探しではダメだ、自分の脳を分析的に批評せよ。」(『ツイッター哲学 別のしかたで』178頁)
「修士までは中島隆博に読み書きの術を教わり、博士に入ってからは小林康夫にしゃべりの術を教わった。小林ゼミはまるで大喜利だった。いきなり作品やテクストを見せて、ハイ、何かおもしろいことを言ってみなさい。で、座布団がもらえ(/)るかどうか。その瞬発力を毎回鍛えていく。[2009-12-10 02:01]」(『ツイッター哲学 別のしかたで』198-199頁)
あれ、意外にすぐ終わりました。とりあえず一読しました。炊飯器の釜を洗って元気があればコメントを付けたバージョンも投稿しましょうか。