福尾匠の「言葉と物」という連載が読めなかった
事情があって「言葉と物」が読めなくなった。悲しい。
仕方ないので切り替えて『現実性の問題』(筑摩書房)、『意味がない無意味』(河出書房新社)、『ひとごと』(河出書房新社)、『非美学』(河出書房新社)、『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)という五冊をいい感じに読もう。いい感じに生きよう。
偶然見つけた、光のたまり場みたいなところで本を読む。それ自体が幸せである。
この光のたまり場はやたらと聴かせる。ヒップホップでさえ。体が揺れてしまう音楽、そしてそこに紡錘形が溜まりを作る音楽でさえ。
今日はやけに離人がうまい。ただ単に両手で頬杖をつくだけで世界はここに緩やかに吸い込まれていくかのようである。そして大して危険な気もしない。
とりあえず『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)に収録されている座談会をゆっくり、そして直接的なことは何も書かずに読んだ。まだ待とう。そのために散歩に出かけることにする。ヒップホップを聴いている。
歩いてきた。歩いてばかりでも仕方がないので帰ってきた。ただまだ書かない。食べ物を買ってきたので食べる。ココアも飲む。ゆっくりゆっくり読み書きする。
そろそろ書き始めよう。遠くから書き始めよう。私は詳しくないのだが、世界のすべては神が作ったものらしい。ある宗教によると。私は「誰かが作ったらしいものが目の前にあって、そこにあるものからわれわれはその誰かの主観性みたいなものに遡行する。」(『眼がスクリーンになるとき』350頁)という箇所について考えている。この「誰か」を「神」であると考えてみようとしている。
カタコトで話す。カタコトであることを恥じることなく、そして相手を辱めることもなく。
私は思っている。福尾の「観客論」や「読者論」、「受容論」がよくわからないと。それは私が「神」のごとき存在として自らを見ているからなのかもしれない。ただ、私は別に「神」ではないので「世界のすべて」を作ることはできない。しかし、私の目の前には「神」が作った自然と私が作った詩歌とがあり、その詩歌はたしかに「遡行する」ことはできるけれども、それは後付けとしてなされるだけであり、他人がするなら私はそれについて正直興味が最初からあるわけではない。いや、最小限の興味はある。自分のものについて書かれているのだから。しかしそこからは普通に読むことに戻って、もちろん私は主体として現れはする、現れさせられることはあるけれども、それだけの話である。
私はたまに「書くことも読むことの一部である」と言うことがある。それは簡単に言えば「書く」ことによって「読む」ことがより上手になるということである。「上手になる」というのはより享楽できるようになるということである。簡単に言えば楽しめるようになるということである。これは「制作論」なのだろうか。それとも「受容論」なのだろうか。もちろんこの座談会の最後らへんで黒嵜想が「受容・制作論」とナカグロで繋いでいるが、そのナカグロが重要なのだ。別に黒嵜が適当ということではない。
もちろん福尾は福尾が考えたいこと、考えるしかなくなったことを考えればいい。それはその通りである。しかし、私はうまくそれを受け止められないのだ。モチベーションがわからなかったりして。
別に福尾の議論を間違いなしに理解したいわけではない。し、福尾はそんなことができないこととできなくてもやってみている人をできている人と見なすことで引き継がれるものについて考えている。私はそう思っている。そのモチベーションはよくわかるのだが、わざわざその引き継ぎのポテンシャルを言祝ぐ理由が、いや、理由はまだわかるにしてもそこでなにをしているのかがよくわからないのである。
これはもしかすると私に友人がいないことに由来することなのかもしれない。この座談会の前半は簡単に言えば「批評」と「共同体」と「コミュニケーション」の話をしている。私は正直哲学や文学について話をする友人がいない。いや、ごく少なく居るには居るが、彼女らとは別にその話ばかりしているわけではなく、むしろ私が勝手に「コミュニケーション」を哲学や文学にしているだけである場合がほとんどである。だが、別にそういう友人が欲しいと思ったことはない。これが強がりだと言われようと思ったことはないと私が言っているのだからそうなのである。「そんな話をするということは無意識のうちに欲しいと思っているのだ!」とまるで言い当てたかのように話してくる人がいるかもしれないが、それを否定できる構造がここにはないので勝手にしてくれたらいい。だから福尾が「僕にとって批評というのは<中略>友達とずっと一緒にいるための理由みたいなものです。」(337頁)と言っていることがよくわからないのである。別にそれは勝手にしてくれたらいいが、仮に福尾の議論がそこにしかアクセスしないものだとするならば、私は正直なにも得られるものがない。ただ、福尾はそんなことはありえないのだという話をしている。それはわかっている。
少しもんだりとした。「「「存在論的忘却」は、「存在論的未知」以上に他者性を帯びている。「存在論的未知」が、異なる概念枠がありうることを示すのに対して、「存在論的忘却」は、(異なる概念枠どころか)自らの概念枠の縮退・縮小そして消失がありうることを示す。前者は異質な他者との新たな出会いであるが、後者はむしろ(出会いを可能にする)自己さえ失ってしまう「痴呆化」に相当する。それは、自己の内なる他者性に他ならない。そのような「存在論的忘却」は、絶対的な絶対主義や固有名なき動物の場合と同様に、その内側の視点に実際に立つことはできないし、そこへは原理的に言語(概念)の力が及ばない。つまり、「存在論的忘却」もまた、「拡張された他者」であり「黙らせる力」である。」(『現実性の問題』321-322頁)もんだりしたあと、このあたり(『現実性の問題』320-322頁)を読んで、どこを引用しようかと迷っていた。結果ここにすることにした。
ただ、もんだりもんだりしているうちになぜ引用しようと思っていたのかを忘れてしまった。「存在論的未知」に対する「存在論的忘却」の関係を。
私は成長が嫌いである。変化もあまり好きではない。享楽のために必要なら仕方なく使うくらいである。この好き嫌いを「存在論的未知/存在論的忘却」は明らかにしてくれたのである。
私も「二枚舌」に見えるかもしれない。一方では自己の同一性に問いを付しつつ、一方では自己の同一性に寄りかかっている。これを最も露悪的に解釈するとすれば、哲学ぶってるだけだということになるだろう。それでも別にいい。どうでもいい。私はそうやって生きてきたしおそらくこれからもそうやって生きていく。言行一致というのは私たちに許された最後のテーブルなのかもしれない。
買ってきたアポロに歯が刺さる。差し込める。意外とこの部屋は暖かいのだ。私はアポロは硬いものとばかり、歯が刺さらないとばかり思っていた。私とアポロは当たり前のことだが違うのである。アポロは柔らかくなり、私は、わからない。
髪の毛は、目にかかるくらい長くなった髪の毛は、光らざるをえない。網戸の糸の一部もそうだし、波のざわめきの一部もそうである。
私はラディカルな変化、例えば「変容」を考えるよりもすでにラディカルでなくなった変化をそれとして見たいという気持ちが強い。たぶん。
私はよくわからないまま「永井均-入不二基義」と「千葉雅也-福尾匠」を類比的に理解している。さらに言えば、「永井均-千葉雅也」と「入不二基義-福尾匠」を類比的に理解している。なぜかはよくわからないが。
用語として「A-B」をペアと呼び、「ペアXとペアYを類比的に理解している」をカップリングと呼ぶことにしておこう。守るかは知らないが。
もうダラダラ書くようになっちゃったので文章を閉じようと思うことにする。閉じはしない。このダラダラでもいいことが書けそうだからである。ただ、ここで読み終わる人がいてもいい。まあ、別にどこで読み終わる人がいてもいいとは思うけれど。
『意味がない無意味』に収録されている「エチカですらなく──中島隆博『『荘子』──鶏となって時を告げよ』」(268-280頁)を読むことにする。ここでは「変容」の話をしていると思うから。
ちなみにこの文章は千葉雅也が中島隆博の『『荘子』──鶏となって時を告げよ』を書評したものである。ちなみに千葉は中島に指導を受けている。ちなみに私は『『荘子』──鶏となって時を告げよ』を講談社学術文庫版で読んだ。ちなみに私は指導を受けたと思う人がいない。実際に受けたと言える人は何人かいるが。
今はまだ、福尾は優れた整理家に過ぎない。私のなかで。私が活かしきれていないとも言えるし、福尾が私を活かしきれていないとも言えるだろう。読んでいる途中にすんません。
正しく四面楚歌を提示すること。それが哲学に独特の実践性なのではないか。
大学の空き教室、小さな空き教室で沈んでゆく太陽を寒さで感じつつ聴く、J-POP。そうか。J-POPはここで聴かれるべき音楽なのか。
「どのように変身しようとも、新たな力能を発揮し、改めて自己充足する。日常の生であっても、潜在的には諸々の物化によって乱調されており、つねにすでに他なる自己充足へのスイッチを続けているはずだ。」(『意味がない無意味』275頁)ここを読んでいるとき、いや、ここを読んだとき、ここまでの流れも含めてそれを読んだとき、私はあの、必殺技とともに現れる力能について感じる物語的必然性とそれを必然性にまで仕立て上げるのにかかった時間、どちらかと言えば必殺技を放つ者の修練、習慣、洗練とが同時に押し寄せてきて、にやにやしてしまうことをそういうこととして思い出した。
「スピノザ=ニーチェ=ドゥルーズは、超越的であると僭称する善悪など、結局のところ特定の政治経済的利害にもとづく歴史的構成でしかないと見切り、そんな束縛から自由になって──『荘子』で言うところの「縣解」である──、ひたすら自己充足をクライテリアとするように勧めている。これは、一見したところエゴイズムにも見えるが、そうではない。自己は、つねに諸々の他者たちと「触発」しあって共同体をなしている。自己そのものもまた、諸部分から、突きつめれば微粒子からなる共同体である。それゆえ、求められるべき自己充足とは、孤立したエゴイズムではないのであって、諸々の他者たちと互いに喜ばしく触発しあう共同体を織り成すことなのである。」(『意味がない無意味』276頁)ここはいい、し、すごい。千葉の要約というか凝縮というか、そのセンスがすごいし、「共同体」について考える仕方としていい、というか、しっくりくる。
いい文章だったぁ。「ぁ」!「息を吐く小さく小さく「あぁ」と言う」これは私のかつての詩。
なんとなく、流れを辿るとそれだけですごく時間が取られそうなので「なんとなく」と言っておくがなんとなく、『非美学』第6章第5節「家具としての二元論、あるいは「非意味的切断」再考」を読む。もっともどうでもいい理由としては持ってきた本のなかで『非美学』と『ひとごと』を読んでいなかったからである。
めちゃくちゃ良かった。どう「良かった」かと言えば、塊になりそうでよかった。「どうしてもそうならざるをえない問題的なものが芸術と生活にまたがって反復され、変形されていく。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。」(『センスの哲学』216頁)ただ、福尾という塊ではない。名前は、わからない。
言えることはたくさんあるが置いておこう。少し休憩させてくれ。
休憩できないので『ひとごと』を読んで心を落ち着かせる。落ち着きそうなものを選ぼう。ある程度の長さがあってある程度文学的なもの。いま考えていることから適度に離れていること。「日記を書くことについて考えたときに読んだ本──滝口悠生『長い一日』について」(155-159頁)を読もう。本当は、というかさっきは「見て、書くことの読点について」(143-147頁)か「<たんに見る>ことがなぜ難しいのか──『眼がスクリーンになるとき』について」(241-364頁)を読む予定だったのだが。まあ、余裕があれば読もう。
ああ、ダメだ。モードがもう、過剰だ。まあ、がんばろう。
なんとか踏ん張った。余韻を綺麗に空に撒いた。いつのまにかまっくろだ。
今日はもう終わりにしよう。疲れた。