「誰かが書いた」ということ
「私が書いた」とは何か。「Aさんが書いた」とは何か。「他人が書いた」とは何か。これらをゆるうく、ふんわり、考えてみたい。
私はかねてより「別に自分が素晴らしい作品を作らなくてもいい。他人が素晴らしい作品を作っていたらそれに『素晴らしい』と言えたらいい。」と言っている。これを一つのフックとして以下の記述について考えてみたいと思う。以下の記述は堀田季何という俳人・歌人による記述である。
ここから堀田は少し複雑な、というか、もう少し段階を分けたり、段階を跨いだり、そういう議論をしているのですが、私はこれを「区切り」のプロセスとしてスケール的に分けてみたい。なお、私は堀田の議論をより抽象的に、そして構造的に考えているので堀田の論旨とはズレるところが大いにあると思われる。
①は私たちが生成可能な文字列から文字列を実際に生成するという「区切り」をしていると言える。②はその実際に生成された文字列に「良い/悪い」の「区切り」をしていると言える。③は実際に生成された文字列または実際に生成された文字列のうち「良い」とされたものに「誰か」という「区切り」をしていると言える。
ここで③の二重性(「実際に生成された文字列または実際に生成された文字列のうち「良い」とされたもの」という二重性)が気になるかもしれないが、これは詩歌で考えるとすれば「良い」詩歌のなかに諸々の「誰か」である詩人がいるのか、それとも詩人の中に諸々の詩歌がありそれに「良い/悪い」があるのか、どちらを①からの移行であると考えるかによって異なると言える。だから①はいつでもはじまりであるが、②と③が①→②→③というふうな流れであるのは②と③の一つの関係で、もう一つの関係として①→③→②という流れがあり得るということである。
もう少し言えば、「良い/悪い」という「区切り」はある程度は「誰か」の偏りによるものであり、その偏りと「区切り」のカップリングを仮に「誰かの判断」だと考えるとすれば、それにもまた「良い/悪い」があり得ることになる。その場合、②と③は上よりも接近して、より見分けがつかなくなっていくだろう。
さらに言えば、これは堀田の考えている議論を超えると思うが、「誰か」は変わる。それが「変わらない」というのは、おそらく「強い区切り」と言うようなものであり、上で言うところの「偏り」が「誰か」の流行りとかではなくその「誰か」の他ならぬ「癖」となるということを含むことであると思われる。それゆえに、ここまでの議論には「強い区切り/弱い区切り」という対比を用いた議論がさらに可能であると思う。しかも、不思議なことに、この強弱は①→②または③と②→③もしくは③→②とで「区切り」に与える役割とが変化するように思われる。というのも、「弱い区切り」は①→②または③においては「癖」的なものの欲望を駆動するものであるのに対して「強い区切り」ではそうではなく、逆に「強い区切り」は②→③もしくは③→②においては「癖」的なものの欲望を駆動するものであるのに対して「弱い区切り」ではそうではないように思われるからである。ここらへんは少し抽象的すぎるにしても、とにかく堀田の議論には①→②→③と①→③→②があり、「誰かの判断」ということで考えるとその二つが識別不可能になっていくというところがポイントであると私は思った。
さて、ここまでは単なるまとめ(もちろんこここそが重要であるとも言えるのだが。)であり、本題は「別に自分が素晴らしい作品を作らなくてもいい。他人が素晴らしい作品を作っていたらそれを『素晴らしい』と言えたらそれでいい。」を考えることで「私が書いた」とは何か。「Aさんが書いた」とは何か。「他人が書いた」とは何か。これらをゆるうく、ふんわり、考えることである。では、進んでいこう。
一旦休憩を挟もう。ご飯が炊けたらしい。夜ご飯。
外から自転車のブレーキ音が聞こえる。もはや治せない癖のような、なにでもない、から泣きだ。殻鳴きだ。
一つ、かはわからないが、ピースが足りない気がする。いや、ピースがぴったりすぎて、どこかをなくしたらこの話がすべてつまらなくなってしまう気がする。ので、一つだけピースを足そう。それは「私は私が書いた作品が一番好き」というピースである。私にとってこれは上のことと両立している。「私は私が書いた作品が一番好き」だが「別に自分が素晴らしい作品を作らなくてもいい。他人が素晴らしい作品を作っていたらそれに『素晴らしい』と言えたらいい。」と思っている。逆にすると知識が豊富そうに見えてしまうのでとりあえずこの順番にしよう。実際に逆にしてみるとこうなる。「別に自分が素晴らしい作品を作らなくてもいい。他人が素晴らしい作品を作っていたらそれに『素晴らしい』と言えたらいい。」が「私は私が書いた作品が一番好き」である。ほら、私がまるで他人の作品をたくさん見た上でそれでも自分の作品が好きだと言っているように見える。私はそこまで傲慢じゃない。というか、そこにいけば傲慢になるような仕方で生きてはいるのだが、別にそこにいっていると私は思っていない。し、実際に行っていないと思う。し、行きたいとも思っていないと思う。
ここまででピースは揃ったし、少し余っている。謎があり、謎解きとしては上質であるように思われる。あとはうんうんうなりながらそれを解くだけだ。
ただ、今日はやめておこう。帰ってくる、そして少し意気消沈しているだろう同居人を迎える準備をしなくてはならない。久しぶりに文学に関係する本。通読した。『俳句ミーツ短歌』を通読した。はじめ目次を見たとき、このような謎解きをはじめさせてくれた上の引用がある章は読まなくてもいっかと思っていたが、思わぬ収穫だった。やはり通読もいいもんだ。では。