詩作についての備忘録

昨日は割と真面目に「詩作」について考えた。(それは投稿された。「詩作についての覚え書き」https://note.com/0010312310/n/n47ccda7f0a31?sub_rt=share_pw)そこで考え落としたことを推敲していたときに見つけたのでここに備忘録的に書いておこうと思う。(「備忘録/覚え書き」)

そこ、「詩作についての覚え書き」で書かれていたのは、ものすごくつづめて言えば、「詩作」というのは何かを書いてそれを読んだときに「想像力を働かせる」必要がある場合に「詩作」はそれになり、書かれた何かは「詩」になるということである、ということであった。言い換えれば、「想像力を働かせる」必要がない場合「詩作」はそれにならないのであり、書かれた何かは書かれた何かに過ぎないということであった。話は紆余曲折していたと思うが、本筋はそこにある。私もそう言っていた。昨日の私も。しかし、ここで考えたいのは

あれ、何か書こうと思っていたのだが、忘れてしまった。備忘録に書く前に。仕方がないのでだらだらして、思い出したら書こう。

私は私の書いた「詩」を読むことが好きである。いや、精確に言うとすれば、「私の書いた」と言える「詩」を読むことが好きである。なににこだわっているか、よくわからない人もいるかもしれない。しかし、私は「私の書いた」と言えない「詩」を読むことよりも「私の書いた」と言える「詩」を読むことのほうが好きなのである。これは私のある種の防衛反応の現れかもしれないし、ある種の自己愛の現れかもしれない。(まあそもそも「自己愛」が「防衛反応」なのかもしれないが。)それを端的に言い表すとすれば、他人は「私の書いた」と言える「詩」を私よりはよく読めないという前提があり、それゆえに私は「詩」を気兼ねなく読むことができるから私は「私の書いた」と言える「詩」を読むことのほうが好きなのである。裏からこのことを言うとすれば、私は気兼ねなく読めない、例えば「どちらがよりよく読めているか」という競争に参加させられる可能性がある受容が嫌いなのである。

なんというか、思い出す気配がまるでないし、もう一度「詩作についての覚え書き」を読み直す気にはなれないので、私が最近(4月くらいからここまでを指している。)詠んだ句を取り上げて解釈してみよう。いや、受容してみよう。ああ、そうか。「詩作」が上で書いたように「何かを書いてそれを読んだときに「想像力を働かせる」必要がある場合に「詩作」はそれになり、書かれた何かは「詩」になる」のだとしたら「詩作」の本質は作ることよりも受け止めること、私が好きな概念で言えば「受容する」ことにあるのかもしれない、みたいなことを書きたかったのか。

どうだろう。正直覚えていないのでこの筋は一旦保留しておこう。ただ、この筋のおかげで上の「私は「私の書いた」と言えない「詩」を読むことよりも「私の書いた」と言える「詩」を読むことのほうが好き」の新たな局面が開けるかもしれない。その局面というのは、「「私の書いた」と言えない「詩」」はなぜ「言えない」のか、という問いが開く局面である。もちろん、元も子もないことを言えば、署名や記憶、そしてそれらを支える証言や法則が「言えない」ことを帰結させると思う(この点については『歴史を哲学する』(岩波現代文庫)や『哲学探究3』(春秋社)を読む必要があると思うが、今回は置いておこう。)が……

いま、私はこのことをちゃんと考える時間も体力もない。なので、上で書いていたように最近の俳句を読んでみよう。というか、私がしたいのは「詩」をそれとすることだけであり、それは具体的に言えば(「詩作についての覚え書き」では抽象的で曖昧だと言われていたが)「想像力を働かせる」ことである。私はそれがしたいだけであり、このことのコストパフォーマンスを私は結構シビアに考えているのである。おそらく。だから「私は「私の書いた」と言えない「詩」を読むことよりも「私の書いた」と言える「詩」を読むことのほうが好き」なのである。

では、どの句にしようか。まあ、「詩作についての覚え書き」で挙げた句にしようか。

夕空を尾に塗り固め赤蜻蛉

赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす

この二つを私は挙げた。そして前者のほうが後者よりも評価を得られるだろうと予想した。その予想自体に私はまったく自信がないのだが、とりあえず上から読もう。

あ、ちなみにこの二つはファミレスで「赤蜻蛉」というお題で題詠することになったときに詠んだものである。その意味で実感は後から付与されるタイプの句である。句には二つのタイプがある。実感がすでにあるものと実感があとから付与されるもの。これを区別することは結構重要だと思われるし、上で「今回は置いておく」といったことにも極めて関係が強いと思う。さて、まあ、それはとりあえず置いておこう。忘れてしまった人がいるかもしれないのでもう一回挙げよう。

夕空を尾に塗り固め赤蜻蛉

正直、私はこれを詠んだときのことについて覚えていないが、良い句ができた感触はあった。当初私はこんなことを考えていたわけではない(と思う。あくまで思っているだけで考えていた可能性もある。これは「詩作についての覚え書き」での「多作」と「駄作」の問題系にも「良い聞き手」の問題系(「詩作についての覚え書き」では「良い読み手」の問題系だったが、それだと「受容」の問題系と近すぎるので今回は「良い聞き手」の問題系ということにした。「読む」と「聞く」ではやはり違うのである。)にも接続可能だろう。)が、改めて読むと夕焼けと夜の闇のあいだの極めて官能的というか、「雁ゆきてまた夕空を滴らす」(藤田湘子)の「夕空」というか、そういうものを「尾」に「塗り固め」ているような感じがある。極めて図式的にいうとすれば、「夕焼け→夜の闇」という変化において徐々に「赤蜻蛉」の「尾」に「夕焼け」の赤さが「塗り固め」られたような感じがする。私の脳裏に浮かんだイメージは「夜の闇」における「赤蜻蛉」の「尾」の赤さである。ただ、私はこの句を作った時点でこんなことは考えてなかった。こんなイメージは見えていなかった。気がする。(ちなみに「赤蜻蛉」は秋の季語であり、藤田湘子の句の季語は春の季語であるから、この意味でズレは生じている。ただ、私の「官能的」という表現に「雁ゆきて」の句が適切なイメージを与えてくれると思われたのでズレを厭わず採用した。)

もしかすると、この「後から『詩』になる」感じが私は好きなのかもしれない。作った時点ではよくわかっていないが「後から『詩』になる」感じが。宗教的すぎるかもしれないが、私は「救い」やら「メシア」やら、そういうことが好きなのかもしれない。そしてそれが自己完結することが好きなのかもしれない。ただ、これは上で「実感がすでにあるもの/実感が後から付与されるもの」という対比で表したものの後者においてそうであるだけで、前者にはそのような感じはない。

上ではまるで二つの句がどちらも後者であるかのように語っていた(気がする)が、「詩作についての覚え書き」を書いている途中、昔書いた句を読んだときに「赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす」のモチーフとなるような句を見つけたので、この句は前者であると言ってもよいような句である。(ここで私が「昔詠んだ句」ではなく「昔書いた句」と書いているのは昔のものにおよそ俳句とは思われないようなものが多数あったからである。おそらく。このことについても「詩作についての覚え書き」のなかで多少触れている。)だから、そこには「救い」や「メシア」といったテーマはない。というか、これらのテーマは上でも書いたように「宗教的すぎる」かもしれない。ただ、そういうテーマへの接続を私は頻繁に行なってしまうのである。

さて、このようなことを踏まえてもう一つの句も読んでみよう。

赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす

「赤蜻蛉」の「翅」はなんでもない「空」を愛させてくれる。そんな感じがここにはある。「翅」で「透かす」ことによって「空」は愛すべきものになる。そんな感じがここにはある。その感じを感じたいという衝動を抑えきれず、もしくはその衝動を抑えるために、「もぎ取り」はなされ、それは書かれるのである。この句に似た詩に「ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま」(若山牧水)(読み方が難しいかもしれない。「接吻」は「くちづけ」、「翔ひながら」は「まいながら」、「死せ果てよ」は「うせはてよ」である。)という詩がある。自然に生きているものに「死」を強要すること、そしてそれに伴うテンションの高さ、狂気、「論理の暴走」(穂村弘)がこの二つの詩には共通している。ただ、その「強要」について言えば牧水はただ単に命令しているだけなのに対して、私は実際「翅をもぎ取り」に向かっている。それが想像的だとしてもそうではないとしても、書かれたに過ぎないにしても実際「もぎ取り」にするとしても、そこにはもはやエゴイズムとは言えないほどのエゴイズムが、そしてその底にある悲しさやら寂しさやら、そういうものが感じられる。「空」を愛せなくなってしまった私が透けて見える。それはおそらく牧水も同じであり、「ああ接吻」と言いつつ「海そのままに日は行かず」を夢想している牧水は実は冷静で、それを取り繕うように「鳥」に「翔ひながら死せ果てよいま」と言う牧水に私は共感を覚えるのである。そして、そうしないと「詩作」はできないのである。この「詩作」のジレンマというか、パラドクスというか、そういうものを感じさせるのが「実感がすでにあるもの」としての「詩」なのである。

同じ牧水の詩でも次の詩は明らかに、少なくとも私にとっては明らかに「実感が付与されるもの」である。

夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて来よ

これを読んだとき、私は「詩作」のジレンマなりパラドクスなりにまったく触れず、牧水の「心象風景」(これは「風景」と対比されると私は思っているがこの感覚についてもよくわかっていない。これについても「詩作についての覚え書き」で多少触れた。)がまっすぐ向かってきた。私はこの詩を読むたびに、なんだか悲しく、しかし生きていく勇気をもらっている。おそらく、「詩作」の公共的な価値はそこにある。ただ、私はどうしてもこちらの「詩作」だけでは満足できないのである。

二つの「詩」の解釈のどこが違うか、そしてそれが「詩作」の違いにどう関わるか、私はよくわからない。まだ。ただ、「私が透けて見える」のは「実感がすでにあるもの」のほうだけであるのは極めて重要なことだと思う。また、ファミレスで題詠をしているときに「赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす」はすぐに思いついたにもかかわらず最後の最後に恥ずかしそうに披露したことも極めて重要なことだと思う。もちろんそこには内容がグロテスクであることへの申し訳なさのようなものがあったにはあっただろう。しかし、それを踏まえてもなお、私はかなり促されて、そして「夕空を尾に塗り固め赤蜻蛉」などの句をいくつか詠んでから助走をつけてやっと、「赤蜻蛉翅をもぎ取り空透かす」が詠めたのである。今回はこの二つの問い、未来への眼差しが浮かび上がってきた。し、満足のいく文章だった。備忘録だった。推敲したらまた何か変わるかもしれないが、そろそろお仕事なので準備をしよう。お仕事から帰ってきて、時間があればまた、推敲をしようと思う。


推敲後記

今回は結構修正した。読みにくいところを直すのはもちろんのこと、内容についても二つほど強い(と言ってもその痕跡は相当目を凝らさないと見つけられないだろうし、未来の私もおそらく見つけられないのだから「強い」と思っているのはいまの私だけなのだが。)介入を行った。

一つだけ書いておきたいことがある。私は「エゴイズムとは言えないほどのエゴイズム」を「その[=「エゴイズムとは言えないほどのエゴイズム」の:引用者]底にある悲しさやら寂しさやら」という方向づけ、「私が透けて見える」という方向づけで弱毒化したように見えた。いや、問題の核心を重く、そして極めて繊細に受け止めるとすれば、もはや無毒化ですらあるように見えた。さらに言えば、ここがおそらく私が明示的に解毒している「元も子もないことを言えば、署名や記憶、そしてそれらを支える証言や法則が[=「「私の書いた」と言えない「詩」」の:引用者]「言えない」ことを帰結させると思う」というところのポイントでもある。エゴイストにならないと人間にすらなれない、そんな話をしていたのは『哲学トレーニングブック』の「無意味の恐怖」という文章(のなかの永井均)であった。あの身振りを見習って、私も哲学するしかないのだろう。この辺りの問題については。ただ、「詩作」になにもできないというわけではないとも思う。ただ、何ができるかは正直、よくわかっていないのだが。


感想

昨日書いたこの文章のなかで私は次のように書いていた。「これは私のある種の防衛反応の現れかもしれないし、ある種の自己愛の現れかもしれない。(まあそもそも「自己愛」が「防衛反応」なのかもしれないが。)」と書いた。「これ」についてはこの文章で確認してくれればいいが、実はここはこの文章の本質的な主張なのかもしれない。このことについては山口尚が「無意味の恐怖──永井均『<私>のメタフィジックス』の第Ⅱ部を読む」(『哲学トレーニングブック』所収)で次のように書いていることが重要である。「一般に、あるひとの行為の理由と意図が他者にとって納得のいくものとなるのは、その理由と意図がそのひとの自己利益を明らかにする仕方で結び付きている場合である(さもなければ他者はそのひとの行為を理解できない)。」(『哲学トレーニングブック』366頁)、ここが重要である。もちろん、この「理由」もしくは「意図」と「感覚」の違いや「理由」もしくは「意図」がどのように成立するかの議論(山口の言い方で言えば「欲求の動機化(合理化)/理由の動因化(原因化)」の議論)も重要である。が、「防衛反応」としての「自己愛」ということ、そしてその極限こそが「詩作についての備忘録」の本質的に重要な点なのである。それが「詩作」とどう関わるのかについてはやはり全然わかっていないのだが。

「競争」というのも他者を歓待する一つの仕方である。と考えることもできるかもしれない。そう考えられないと言えるためには「競争」自体を批判しなくてはならないが、「競争」自体とはなんなのだろうか。まあ、「受容」が繊細すぎて「競争」の歓待性に耐えきれないというのがとりあえず、私が「競争」を毛嫌いする理由だということは確実だと思われる。

私は「書く」ことより「読む」ことが好きで、それゆえに「読む」のほうに価値を置きがちである。しかし、「話す」ことと「聞く」ことでは「話す」ことが好きで、それゆえに「話す」ことのほうに価値を置きがちである。これを無理やり接続するとすれば、私は「読む」を「話す」の一部だと考えているのかもしれない。言い換えれば、私にとって「読む」は「読まれているものをダシにして話す」ということなのかもしれない。まあ、そうだとしてなんなのかはよくわからないが。とりあえず『非美学』で「自律的であるということを閉鎖的であるということにせず、他者に開かれているということを包摂の方便にしない」(『非美学』14頁)と言われているような問題がここにあることはわかる。

私は「「私の書いた」と言えない「詩」はなぜ「言えない」のか」という問いに「元も子もないこと」として「署名や記憶、そしてそれらを支える証言や法則が「言えない」ことを帰結させると思う」ということを言っている。この「元も子もないこと」はこの文章(=「詩作についての備忘録」)にとって本筋の「元も子もないこと」だが、それは本当に「元も子もないこと」なのだろうか。私は単純に「言えない」のは「私の知らない単語があるから」と言ったほうが「元も子もないこと」を言えているのではないか、という感じがした。この「詩作」と「知識」については考えてみたいが、今回は置いておこう。

「詩作」の「コストパフォーマンス」という問題が提示されている。私がいま読んでいるところでは。これは良い問題である。なんというか、「コストパフォーマンス」という考え方とその考え方が用いられることは分けられるのだろうか。言い換えれば、「コストパフォーマンス」自体を批判することはできるのだろうか。加えて、それができたとしてそれができるのはなぜなのだろうか。私はこの問題をある種の答えとして提示している。「私は「私の書いた」と言えない「詩」を読むことよりも「私の書いた」と言える「詩」を読むことのほうが好き」ということの理由として。ただ、それ以上の問題性が「詩作」の「コストパフォーマンス」という問題にはある。もしかしたらこれは「詩作」と「知識」の問題にも関係があるのかもしれない。

「実感」というのはなんなのだろうか。「実感があとから付与される」というのはどういうことなのだろう。「あとから付与される」ことのない「実感」とはなんなのだろうか。実はこの問い、そして「実感がすでにあるもの/実感があとから付与されるもの」という対比は「欲求の動機化(合理化)/理由の動因化(原因化)」という対比と重なるものである。だからこそ「実感がすでにあるもの/実感があとから付与されるもの」という対比は「署名や記憶、そしてそれらを支える証言や法則が「言えない」ことを帰結させると思う」と言われた問題と「極めて強い関係」があるのである。「署名や記憶」がそれらになるのは「証言や法則」によって、であるが、このこと自体がなぜなのかを考えるときには「実感がすでにあるもの/実感があとから付与されるもの」という対比や「欲求の動機化(合理化)/理由の動因化(原因化)」という対比を考える必要が出てくるのである。システムとしては「署名や記憶」、「証言や法則」を考えていたらいいのだが、それが「システムになる」のはなぜなのかを考えるためにはこれらの対比が必要なのである。あと、この「署名や記憶」「証言や法則」というのは雑に置きすぎたかもしれない。というか、そうである。それがわかったのも重要なことである。

「実感があとから付与される」理由として「題詠」が挙げられている。ように見えるし、実際そうなっちゃってもいるのだが、別に「題詠」は「実感があとから付与される」ことと無関係ではないにしても強い関係にあるわけではないと私は思う。

私は「後から『詩』になる」感じが好きと言っているが、私は「詩作」のために「知識」をつけるのが嫌いで、それが怠惰がゆえではないとしたら(怠惰ゆえである可能性も大いにある。)、もう少し精確に言う必要があるように思われる。私が好きなのは「後から『後から「詩」になる』になる」であり、「あらかじめ『後から「詩」になる』になっていた」感じはむしろ嫌いなのである。まあ、この「嫌い」は同族嫌悪に近いものだと思われるが。ちなみにここでの「怠惰」と「コストパフォーマンス」は結構関係があり、それゆえ「詩作」の「コストパフォーマンス」の問題をここに見出すこともおそらく可能である。

たしかに。ここまでの文章は「詩作」についての物語に過ぎない。本当に「実感がすでにあるもの/実感があとから付与されるもの」という対比があるかはわからない。あると言えばあるし、ないと言えばない。そうとしか言えないだろう。ただ、そんなことはここまでの文章ではどうでもいいものになっている。そこに私は真剣さを感じる。いつも真剣であることがいいことではないが。

随所に適当なところがある。というか、だからこそ文章を書き終わることは可能なのである。「ここ、正直適当でしょ。」と思っても黙っている。それができるから文章を書き終わることは可能なのである。

「「私が透けて見える」のは「実感がすでにあるもの」のほうだけであるのは極めて重要なことだと思う」と言われているが、これは「私が透けて見える」と言っていいような「実感」だけが「すでにある」と言われるということかもしれない。わざわざ「実感がすでにあるもの/実感があとから付与されるもの」という対比を用いるのはなぜなのだろうか。よくわからない。

やっぱり「二つの強い介入」は見つけられなかった。意識すれば見つけられるのだろうか。わからない。

「弱毒化/無毒化」、「解毒」のメタファー。私にとって哲学は「毒」なのだが、「詩作」はなんなのだろう。「体」?

まだまだ書ける、というか「体」については書きたいこともたくさんあるが、今回はこれで終えておこう。ちなみに「体」は「態勢/体勢」という対比を考察することから始まると思う。

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