2024年12月9日の午前中(と五十二分)
ただ哲学的であることなんて出来るのかしら!
ありのまま、欠けているところ、それも余白として肯定する。
なぜ「「私とあなたは違う」とにこにこする」ことが楽しいのかと言えば、可能世界が現実世界(的)になるからである。
「自分を疑い続けてなんぼ 自分を信じて俺はいまここ」(MOL53)、何回聞いてもかっこいいよなあ。
寂しそうな人、そういう人が私は好き、というか、なんというか、感情的になるのはそういう人を見るときである。他人を見て感情的になるのは。自分を見ている場合はもっと、憐れみきれなさがある。
限りない反転のなかでは始まりと終わりをどっちも占めることくらいしかすることがない。
仕方なくパフォーマンスしているだろうなあ、というのは憐れみでもあるが、自分にそれを向けるならわざわざ何かを話していることへの疑いとなり、それは結構危険である。だから憐れみは他人にしか向けられないのである。
Aについてなんで議論してないんだ!と怒る人、苛立つ人、呆れる人がいるが、人はそもそも議論なんてしたくないし、議論というのは話を交わすことだけでなく生活も動員されることも含むことがそこでは忘れられている。で、そもそも何かについて考えることはそれ自体で危険なことなのである。範囲を限定するのが難しいもの、例えば「性欲」とかは特に。いや、もともと危険というよりも議論していくうちになんでも「性欲」原理で説明できちゃうから逆に原理性を失うことに私たちは気が付いているのである。
たまに思い出すレポートがある。自然科学と人文科学の在り方を反応が帰ってくる仕方と度合いで考えたレポートである。自然科学は相手、つまり自然の斉一性が保証されていて、というかそうしないと始まらないから反応が帰ってくることは確実でその度合いが実験を構築することの精度によって変わる。それに対して人文科学は相手、つまり人間の斉一性が保証されていなくて、というかそうしないとする意味がないから反応が帰ってくることはいつも思い違いの可能性を含んでいて、それゆえに反応の度合いがなにによって変化しているのかがわからない。こんな感じのことを、そんな大仰なことが問われているわけではないのに書いた記憶、それがある。たまに思い出す。で、私は結論でたしか、たしかこんなことを書いた。「私たち人間は結局人間なので反応が帰ってこないと不安になるし反応が帰ってきてもそれが本当なのか不安になる。自然科学も人文科学もその不安とどのように向き合うかの次元を持っていて、講義の内容は私にとってはそのように響きました。」みたいなことを。なんて大仰で、しかもなんだか偉そうだが、結構真理だと思っている。私は。これはたしか心理学の講義で書いたものだったが、私は心理学を嫌っていて、このことを書いたことによってその嫌悪の原因がなんとなくわかったような気がした。ただなにがわかったかは忘れてしまった。
私は人間のすること、行動をやたらと行為にするのが嫌いである。私たちは結構ぼおっとしていて、しゃんとしているときなんて稀だからである。だから行為を行動に差し戻そうとする。簡単に言えば理由を問うことの理由を問うことによってそれをする。私たちはなぜか常に問われているかのように生きているが、私たちは別に常に問われているわけではない。もちろんそうしないとなぜわざわざ話したり読んだり、書いたり聞いたりするのかがわからなくなる。それはそうだ。しかしその事実と理由を問うことは本来は関係がない。別に関係があると考えてもいいがそれは関係があると考えているだけである。ただ、勘違いしてほしくない。私は行動主義を信奉しているわけではないのだ。ただ単に行為主義を過剰にすることは危険だからその予防としてこのようなことを思っているだけである。そう考えないと逆に、私たちはつながり過ぎるのだ。動物として。
繊細な議論を大きく捉えることは別に悪いことではないと思うが、それしかできないなら悪いとか悪くないとかではなく議論することに向いていない。議論というのは色々な対比を縫い合わせたり一旦縫い直したりすることであると思う。
「可能性がある」っていう言い方は危険っすよ。特に責任の分野において。どこまでも責任はありますから。私たちはそういう世界の最後の段階に生きているのかもしれませんけれど。
「水は低きに流れる」が「低き」がなんなのかはそれぞれ違う。
少しずつよく言われることを深めていく。そういうゆったりした感じのもと、私は生きている。死ぬというのはいつも性急なことで、生きるというのはそれと関係せざるを得ませんから、やはりゆったりしたことであると言わざるを得ないのだと思います。
仮に学ぶことが悟ること、もしくはそれに類することに向かっていくのだとしたら、私はそれを避けたいと思う。
私は少しでも治療的なことが書かれている本を読むと、結構自分で治療してきたのだな、という感慨を持つ。それが正しいかどうかは別として、私がしてきた哲学も文学も一つの治療だった、と思うのである。
哲学はまわり込み、文学はすり抜ける。
私が哲学的に重要だと思っている洞察はどのような治療的意義を持つのか?この問いは私の哲学の少なくとも一側面を捉えるのに極めて重要な問いである。
なんで全部傍注にしないんだろう。見にくくない?わざわざ後ろに行くの面倒くさくない?もちろんみんながみんな注を読みたいわけではないというのはわかるけれども。
私はたまに、首元を広げ、首元を鼻にかけ、服の中を匂う。そこではいろいろな匂いがするのだが、一つ、幼児のような、太陽に蒸された幼児のような匂いを見つける。私はそれで安心する。かつて母も匂ったであろう、この匂いによって。
ただ、自分の哲学の治療性を語ることは自分がそれによって治療されていることを明るみに出してしまうから危険でもある。楽しめるようになったらすればいい。不充分に。
かつて二、三度、もう誰とも話したくないと思ったことがある。いや、精確に言うなら、わからなさすぎて、そのわからなさの吸引力がすごくて、話せば話すほどやばくなりそうだから一旦話さない、みたいに思ったことがある。し、言ったこともある。いや、実はもっとあったのかもしれない。あのときにたまたまそれを聞いてくれる人がいて、その宣言が「話さない」ではなく「一旦話さない」になったのはその人たちのおかげだったのだ。おそらく。ありがたい。有り難い。
中動態の議論における「中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。」(『中動態の世界』81頁)のような記述の「座となる」とはなんなのだろうか。そもそも「主語」と能動-受動における担い手には距離があるのではないだろうか。その距離が曖昧になることが「座となる」ことなのだとしたら、まあ、わからなくもない。これはおそらく「[中動では:引用者]主語は過程の内部にある」(『中動態の世界』81頁)と言われるようなときの「過程」と「内部」がどうやって一定の領域を占めているのか、という問いにも近い問いである。結構前に読んで以来、結構ずっとわかっていない。
自分へのアドバイスだが、収集方法と受容方法は一貫性を持つ必要がない。アルバムから収集しようが「This is ○○」から収集しようが、別に受容は変わらない。もちろんアルバムから収集することが求める受容と「This is ○○」から収集することが求める受容は異なるかもしれない。しかし、そこに一貫性を持たせる必要はない。好きな音楽を聴き、それを愛せばいい。ただそれだけのことである。まあ、難しいのもわからなくはないが。というか、そうしないとわざわざ殻を壊している意味がない。その殻が可哀想というのもわかる。
私は私の存在の多様性を他人に担わせることで安心している。そんな側面がある。だから他人との会話、もしくは対話は自己内会話、自己内対話であると思っている。そんな側面がある。これを非常に観念(論)的であるとか、独我(論)的であるとか、そういうふうに言う人もいるとは思うが、事実そうしているしそう思っているのだから仕方ない。別に正当化する必要もない。私はこういう仕方でよく生きようとしている。それでよく生きれているならどうでもいい。し、私は賢しいので別にこういう書き方をしないこともできることを知っている。だからそれらが正当ではない批判であり、もっと言えば誹謗中傷になるとすれば、そしてそれが私をエネルギッシュにしないのであれば、面倒くさいので言い方を変える。
自分のしていることを解釈するためにあらゆる理論は存在する、わけではないが、それが一つの支点となっているならむしろ気をつけるべきは、「わけではない」を強くしすぎないことである。
俺って結構鋭いんだなあ、って結構思う。そのちょっとあとに「あれ、どこが鋭かったんだっけ?」とわからなくなる。この繰り返し、そしてこの繰り返しを悲しみとしてではなく笑いとして、しょんぼり顔ではなく笑顔で受け取ることがおそらく私の学びの在り方である。
もう疲れた。結構本をぶっ続けで読んでしまった。それは幸せなことだが、最後ら辺はいつも疲れている。もしかすると本の最後らへんであることがそもそも疲れることなのかもしれない。そんなことを思うほどに疲れている。
はあ、やっと読み終わった。疲れたなあ。ここまでも投稿してしまおう。「2024年12月9日の午前中(と五十二分)」というタイトルで。推敲版というか解釈版というか補足版というか、そういうものを暇だったら、そして元気だったら投稿しよう。とりあえずお腹が空いたのでご飯を食べる。納豆にしよう。『イルカと否定神学』の帯は捨てることにした。ゴミ箱に入れた。少し前からそうしようと思っていた。『ひとごと』の帯はまだ捨てていない。伊藤亜紗への恩義で。