ビルドとパルクール
ここにあるものを手がかりにここに"ない"ものを想う、その<想像>という心のたなびきがどんどん短くなっているようにおもう。何かの情報やイメージが眼の前に現われたときに、それをとくに吟味することもなく額面どおりに受け入れる、逆にあたまからそれにふれることを拒み、撥ねつける。それにすぐさま同意する、あるいは反撥する。それに対して適切な距離というものがとれない。それがどうしてそのようなかたちで現われてきたのか、それがわたしにはすぐに見えない遠くのひとにとってどのような意味をもつのかに、うまく想いをはせることができない……。
ここにあるものを手がかりにここに"ない"ものを想う。この力が、たとえば"まだないもの"、"もうないもの"への心のたなびきとして、希望や祈りを、想い出や咎の意識、あるいは後悔を、かたちづくってきた。他人の悲惨や困窮への思いやりを、あるいはなにがしかの義に身を捧ぐという態度を、かたちづくってきた。それだけではない。科学の仕事は、眼に見える現象を手がかりにその現象を構造的に規定している見えない(/)規則を探究することにある。宗教的な信仰も、いまここで生きているわたしたちの世界を、その世界の外にある別の地点にまなざしの起点を置きなおして、そちらから見つめなおすいとなみだと言えるだろう。
そして、「倫理」の名で呼びならわされてきたもの。じぶんたちの生が、もっぱらじかに見え、触れうるものによって編まれていた時代は、倫理はいわば身体に刷り込まれているものであった。していいこととしてはいけないことの区画が、たとえ「共同幻想」や「定め」という、批評性を押しのけるものであったにしても、身体の運動に明瞭に描き込まれていた。しかし現在のわたしたちは、見えない場所を瞬時につなぐ報道メディアや遠隔通信の世界のなか、広域化・加速化した交通と物流の世界のなかで生きるようになっており、「責任」ひとつとっても、見る、触れるというかたちでじぶんがじかに接しているところではなく、じぶんが関与しているのかもさだかでないところでまで問われるようになっている。あまりに定型的な情報ばかりが届けられる一方で、"読めない"世界もひたすら増殖してゆくばかり、ほんとうは「もう、責任とれません」と言いたいところを、逆に、知らないこと、知ることのできないことにも責任ある発言を迫られる。何から?それが不明なまま、圧力だけは確実にかかってくる。
『想像のレッスン』(ちくま文庫)3-4頁(""は傍点による強調、(/)は頁の切れ目)
してきた勉強、具体的に言えばベルクソンの勉強もある程度落ち着き、してきた尻追い、具体的に言えば福尾匠の本もある程度読み、私は次になにを読もうか迷っていた。そのうちに風邪に罹り、私は手元にあった、たまたま手元にあった『想像のレッスン』を開いた。一回途中まで読んだ記憶はあるが読み通した記憶はないこの本を手に取り、読みはじめた。そのとき、上の「まえがき」を読んだのだ。
別に珍しい洞察があるわけではない。少なくとも私にとっては。当たり前のことというか、よく言われていることが言われているだけである。ただ、なんだか感化されるところはあった。
今回しようと思うのはこの感化がなんなのかを「まえがき」の、しかもその一部、三つの段落を読むことで明らかにすることである。いや、「明らかにする」と言うとまるでここからの行く先が決まっているかのように聞こえるかもしれないが、私はとりあえず引用してきただけでいまから読む。なので全然明らかにならないかもしれない。結果的に明らかにならなかったら計画は失敗だが、文章にとって本質的なのは読者を触発し、そしてそれを制限することで賦活することであると思うから、それさえできたならまったく問題はない。
まず、注目したいのは冒頭も冒頭、「ここにあるものを手がかりにここに"ない"ものを想う、その<想像>という心のたなびきがどんどん短くなっているようにおもう。」の「たなびき」というレトリックである。上でも言ったように内容的には聞いたことがあるようなことなのだからレトリックに着目することは妥当だと言えば妥当であろう。別にそんなことはどうでもいい。
私は「たなびき」をよく知らず、「心」という旗が振られるのではなく風によってバタバタ、揺れているイメージを持った。それが「短くなっている」というのはこのイメージから言えば、風が旗に影響するのが短いということだろう。では、「風」が「短くなっている」のだろうか。それとも「風」は同じで「旗」がなんらかの原因から「風」を受ける仕方を変えて「揺れている」時間が「短くなっている」のだろうか。もちろん現実にはどちらもあって、どちらも影響して「短くなっている」のだろうが、この二つは一応区別できる。
ここで急に関係ありそうでおそらくは関係ない話をするのだが、私はかつて、タイトルは忘れたが何かの詩、もしくは小説で、「心の旗が振られている」と書いたことがある。だから上でわざわざ「私は「たなびき」をよく知らず、「心」という旗が振られるのではなく風によってバタバタ、揺れている」と書いたのである。そのとき私は書いた気がする。「心の旗は風によって揺れている時にはリズムがない。わざわざ人が旗を振るならリズムをそこに生み出す必要があるだろう。」みたいなことを。強風によって忙しなく揺れる旗、無風によって忙しなく揺れない旗、そのあいだに私たちの「旗を振る」は存在するのである。
さて、なにも前に進めていないのだが、さらに関係ありそうで関係ない話をしよう。ヒップホップを聴いているとき、私はたまに頭を振っている。頭を振ろうと思ったわけではない。しかし私がいなければ頭は振られていない。私は頭を振っていて、私はそのことに気がつくのである。それに気がついたうえで、やはり気持ちがいいから頭を振っていると、だんだん頭の重みに、そしてそれが形になっていくのを感じる。卵のような紡錘形になっていくのを感じる。そしてなぜか、世界の中心になったような感じがする。私は心地よいと思いつつも、長くそれを味わうのは味気ないと思って、ある程度の時間楽しんだら頭を止める。止めるのは簡単だ。
いきなり具体的な話をするが、「何かの情報やイメージが眼の前に現われたときに、それをとくに吟味することもなく額面どおりに受け入れる、逆にあたまからそれにふれることを拒み、撥ねつける。それにすぐさま同意する、あるいは反撥する。それに対して適切な距離というものがとれない。それがどうしてそのようなかたちで現われてきたのか、それがわたしにはすぐに見えない遠くのひとにとってどのような意味をもつのかに、うまく想いをはせることができない……。」というところについて考えてみよう。ここで言われていることは「AはBとして考えよ」という直線的な考え方と「○○に同意するか反撥するか」という直接的な考え方とが「適切な距離というものがとれない」ことを、「それがどうしてそのようなかたちで現われてきたのか、それがわたしにはすぐに見えない遠くのひとにとってどのような意味をもつのか」に「うまく想いをはせることができない」ことを引き起こしているということである。もう少し細かく言うなら、「AはBとして考えよ」になにも考えずに「同意」するものとそれに「反撥」するにしても「考えよ」にのみそうするものとがいることと「同意」か「反撥」でしか考えることを遂行できないこととがここでは問題になっている。鷲田が行かせようとする道は「AはBとして考えよ」を一旦落ち着かせて、「AはCとしても考えられる」「AはDとしても考えられる」………を広げていくことで「それがどうしてそのようなかたちで現われてきたのか、それがわたしにはすぐに見えない遠くのひとにとってどのような意味をもつのか」に「うまく想いをはせる」ことができるようになっていくという道だろう。
二段落目はこの道の広がり、そして普遍性を、三段落目はこの道の由来、そして現代性を説くものである。だから言うなれば、道を説くことの説得力を高めるものである。
また、いきなり具体的な話をするが、三段落目の最後、「ほんとうは「もう、責任とれません」と言いたいところを、逆に、知らないこと、知ることのできないことにも責任ある発言を迫られる。何から?それが不明なまま、圧力だけは確実にかかってくる。」について考えてみよう。私はここで言われているような「圧力」や「責任」について、私たちの言説に不可欠の構造とそれの一つのバリエーションとしての「責任」や「圧力」という形があると考えてみることにしている。いや、そんなに明確に決心したことはないが、そういうふうに考えてみたらいいのではないか、と思った。
「私たちの言説に不可欠の構造」というのは簡単に言えば、私たちの「発言」はその内容の次元と「なぜわざわざ言ったのか」という次元があるという構造である。別にラカンを引く必然性はないが最近読んだものから議論を引き込んでみよう。
ラカンによれば、欲望は言表行為の次元に位置づけられる。ひとが何かを話すとき、その話の内容とともにつねに問題となるのは、"その話をすることでそのひとが本当のところ何を言いたいのか、何を望んでいるのか"、ということだ。
『ラカンと哲学者たち』79頁
あれ、ちょっとずれちゃった。「欲望」の話ではないつもりだったのだがまあいい。「なぜわざわざ言ったのか」の次元の一つの解決として「欲望」があると考えられるから。
ここで重要なのは明確に「なぜわざわざ言ったのか」の次元が現れるものと現れないもの、すなわち「話の内容」の次元が現れるものがあるとは言えても、大抵の「話」においてそれらは混然一体であるということである。すなわち、「なぜわざわざ言ったのか」と問うても大抵の「話」ではおかしくならないということである。もちろんこの「大抵の」というのは私の「欲望」なのかもしれない。
まあ、それはいいとして、この「なぜわざわざ言ったのか」という次元はある意味で危険である。「危険である」というのは「なぜわざわざ言ったのか」ということには理由のなさが現れる地点が確実に存在するからである。「なぜわざわざ言ったのか」と問う容易さに比べてそれにこたえる困難は測りしれないからである。だから私たちはこたえられなくなる。早々に。そして自分の無根拠と向き合うことになるのである。
話は逸れてばかりだが、この「無根拠」には二つの方向性がある。それは「無限」と「無際限」である。ここからの議論は千葉雅也に負うところが大きいが、とりあえず具体的な議論は挙げずに話す。具体的に知りたい人は『動きすぎてはいけない』の第八章を読めばいいと思う。
私たちのしていることは「無根拠」である。しかし私たちは根拠を求めてしまうので根拠を作らなくてはならない。この求めと作りの関係は一つのものを求めて作る方向性と複数のものを求めて作る方向性とがある。それぞれを代表する問いは「そもそも」と「わざわざ」である。「そもそも」はある作り(ここに「発言」も入る)の求めが一つであると考え、その一つを明らかにしようとする。「わざわざ」はある作りの求めが複数であると考え、その複数性の所以を明らかにしようとする。これらは二つのモードであると言えるので一つの「発言」に対して同時に働かせることができる。例えば「宇宙の見えない夜 かまわない 君が見える」(『LA・LA・LA・LOVE SONG』)という歌詞を、「そもそもこれはなにを言おうとしているものなのか」と考えることもできるし、「わざわざこの言い方をしたのはなぜか」と考えることもできる。前者はここで言いたいことを、そして大きくはこの曲が言いたいことを、さらに大きく久保田利伸が言いたいことを、もっと大きくしていこうとするだろう。そこに一つの言いたいことを見つけようとするのだ。後者はここで言われていることを、「宇宙」とは何か、とか、「君」とは何か、とか、「夜」はなぜそれでなくてはならないのか、とか、「見えない/見える」はなぜそれでなくてはならないのか、とか、そういうふうに考えて、「解釈」を「無際限」に増殖させていく。それに対して前者は「解釈」を干上がらせようと「無限」に一つのものへと進んでいく。ここまでで疑問に思ったことがたくさんあるかもしれないが、そのことについてはとりあえず皆さんに持ち帰ってもらって、ここで重要なのは「なぜ」という問いは「無根拠」をそれとして開き、そこでは「そもそも」と「無限」に問い進んでいくモードと「わざわざ」と「無際限」に問い進んでいくモードとがあるということである。もちろんこの二つのモードは同時に起こるのだから、それによってやっと一つのものはその仕方でそれとなり複数のものはその仕方でそれとなるということでもある。
ちなみに「求めと作り」や「『そもそも』と『わざわざ』」、「『無限』と『無際限』」は私なりに千葉の議論を翻訳した、いや、翻訳してしまったと言ったほうがいいか、そういうものなので、千葉の議論を読んで「そんなこと言ってないじゃん」と思われる人もいるかもしれない。ただ、そこで一旦立ち止まってもらって、こういう変換をする私をそれこそ想像してもらったほうがいい。そっちのほうが楽しいから。
上で私は言っていた。「『私たちの言説に不可欠の構造』というのは簡単に言えば、私たちの『発言』はその内容の次元と『なぜわざわざ言ったのか』という次元があるという構造である。」と。そして「私はここ[=「ほんとうは「もう、責任とれません」と言いたいところを、逆に、知らないこと、知ることのできないことにも責任ある発言を迫られる。何から?それが不明なまま、圧力だけは確実にかかってくる。」:引用者]で言われているような『圧力』や『責任』について、私たちの言説に不可欠の構造とそれの一つのバリエーションとしての『責任』や『圧力』という形があると考えてみることにしている。」と言っている。ここまでは「私たちの言説に不可欠の構造」の「バリエーション」を形式的に確認したのである。
ただ、もう一つだけ確認しておかなくてはならないことがある。「なぜ」が開く次元、そして「そもそも」と「わざわざ」のモードは過剰になると危険であるということである。「そもそも」と「わざわざ」はそれこそ「無限」と「無際限」を抱えているから、私たちはそれを一旦でもいいから中断しなければなにもできない。文字通りなにもできない。だから、「なぜ」を開いてばかりもいられないのである。鷲田が言うような「適切な距離」を取るために「なぜ」は必要だが、「そもそも」と「わざわざ」を過剰にしないことも必要なのである。もちろんこの過剰を考えることがそれこそ過剰なのかもしれないが………。
このことについては以下の文章で少しだけ発想の転換を目指している。
ここまでで大切なことは確認した。ここからは「圧力」や「責任」について考えるターンだ。私はこの二つのことを、「なぜ」を使いつつその危険性を煽ることで私たちが「そもそも」や「わざわざ」を一旦中断していることから目を逸らさせるものであると、そして同時に「なぜ」をその使い方とともに使わせることによって私たちに「目を逸らさせる」をそれとして見ることを困難にするものであると考えたい。その結果としてなんらかの煽動が起こっているのだとしても、本質的にはそれは結果でしかなく、そこで起こっているのはこのようなことなのである。これはまるで、興味は持ってもらいたいものの自分の預かり知らない興味は持たれたくない、という私たちの病理の一つの現れであるように見える。
話がすんなり終わってしまって申し訳ないが、このようなことが起こるためには私たちがそのようなことを起こしてしまう生物でなければならない。なぜなら、そもそも「なぜ」を開かなくてもいいなら、このようなことは起こりうるとは言えても起こっているとは言えないからである。起こっているとは言えても起こってしまうとは言えないからである。ここでどのような人間観を採用するかは結構重要なことだ。私はとりあえず以下の引用からヒントを得たいと思う。
小説における人物の態度が急に変わることと、抽象絵画において画面が黄色と紫にパキッと塗り分けられていることを比べたときに、人間はやはり人間に興味があるし、「裏切りに注意せよ」みたいな進化論的なところがあるから、人間の問題の方がより重要だと思うでしょう。しかし、そういう優先順位をいったん保留にする。人物の変化も、絵画における色彩の対立も、どちらもリズムの問題であり、私たちをハッとさせ、関心を持たせる(/)機能を果たしている。それは根本的なことにさかのぼれば、一定の状態に対して刺激が起きたときに、状態を戻そうとするという生物の根本的傾向(ホメオスタシス)に結びつくわけです。
『センスの哲学』123-124頁
ここで「保留」されていることを「保留」されていることは踏まえつつ「保留」しないとするならば、私たちは「人間の問題」について考えてしまうから「圧力」や「責任」について考えてしまうのである。もちろん「責任」はより時代的なものであるとも言えるかもしれない。それに付随して「圧力」にもそれぞれの時代性があるとも言えるだろう。(このことについて詳説する気はないので興味のある人はライトなもので言えば『<責任>の生成』を、多少ヘビーなもので言えば『中動態の世界』を読むとある程度は時代性と言われている事柄がわかるだろうと思う。)このうえで重要なのはおそらく、私たちはほとんどの時間「ぼおっとしている」ことを認めることであるように思われる。
福尾は「なぜときに他人が哲学的ゾンビ[福尾の説明を借りれば「見かけ上ふつうの人間と変わらないが心をもっていない」、いわば「形だけの人間」を意味するのが「哲学的ゾンビ」である。:引用者]のように思えてしまうのか」と問うたうえで次のようにそれにこたえている。
哲学的ゾンビはぼおっとすることとしゃんとすることを瞬間的に行き来することで生まれる齟齬を対象化したものなのではないだろうか。<中略>見てなにかを思い出したり連想したりすることと見てなにか判断したり行動したりすることはぜんぜん違うし、その衝突が散らす火花みたいなものがソンビなんじゃないか。あれは何だろうと疑念が湧いた時点で自分のほうはしゃんとするので離人的なものが他者に帰せられるわけだ。自分がぼおっとしていたことは棚に上げて(哲学にはそういうところがある)。
『ひとごと』107頁
私はこの対比を用いつつ、鷲田の記述にある、「哲学にはそういうところがある」と言われるようなところを相対化しておきたい。鷲田のものを読むと、あたかも私たちはいつも「ここにあるものを手がかりにここに"ない"ものを想う」ことをしなくてはならないかのように思わされる。しかし、それは「圧力」や「責任」の対抗馬にはなり得るが、それにしかなり得ない。し、私たちはいつも、そう「いつも」そんなことをしていられるほど賢くない。優れていない。そしてそのことを「無意識」とか「他者」とか言って考えることも過剰に倫理的である。私たちはほとんど「ぼうっとしている」、そのことを認めることも重要なのではないか。私がここで言いたいのはそのことである。この文章全体がそれが言いたいというわけではない。流れに流れた、ここではそれが言いたいということである。私が冒頭でイメージ先行の、福尾の言い方を借りれば「もののたとえ」先行の解釈から始めたのも「ぼおっとしている」からなのかもしれない。中盤あたりからやっと鷲田のものが議論に見えてきた。のかもしれない。それは一つの解釈に過ぎない。
別に私は解釈を呼び込むつもりはない。特に考えもなく、パルクールのように使えるものを使って走ってきたらこんな感じになった。いや、パルクールはすでに街があるがここにすでに街があった感じはしないから、私はビルドとパルクールを同時にしていたのかもしれない。振り返ればまるで凄いことをしていたみたいになっているが、それは私たちがある程度は「しゃんとしている」からである。
読みにくいものを書いてしまったという感じはするが、面白くないものを書いてしまったという感じはしない。推敲して投稿したいところだがそろそろ仕事なので準備しよう。「痰を切ってくれますよ」と白衣を着た人に教えてもらったのだが私は「痰」の独特の物体性が好きなのだ。これはなんの話かはわからないがこういう話をしないと話は終われないので仕方がない。最後に気分を害された方がいるとすれば申し訳ない。と思っておくことにしよう。では。長いので推敲する気が失せるかもしれませんがお願いします。仕事後の私さん。すみません。
推敲後記
やりました。相当遅くなりましたが。ただ、一つ不満があります。「話がすんなり終わってしまって申し訳ないが」と始まる段落の一つ前の段落はなにを言っているのかがよくわかりませんでした。またいつかもう少しわかりやすく書いてくれたらいいなと思います。