誰が評価するかよりも評価するかしないか

さて、落ち着いたので今日ずっと先延ばしにしていたことを考えよう。それは次のようなことである。

「他人が自分を評価する」から「自分が自分を評価する」への転換は"実は"「評価する」から「評価しない」への転換なのではないか。

文脈を足そう。私は先日「評価軸を他人から自分に変えたら自由に創作できるようになった。」というようなことを主張する文章を読んだ。そして私はその文章に違和感を持った。これはチャンスだと思った。違和感はいつも私の横を駆け抜けて、その素早さ、爽やかさで私を誘惑する。何かを明らかにしたいという欲望はこういうことからしか始まらない。ことはないかもしれないが、私のようなエネルギーの貧弱な者からするとこういうことに頼るしかないというのが実情である。私はこの誘惑に乗った。

そして、私は上のことを思いついたのである。ここからはこのことについて考えていきたいと思う。

まず、初動を書いておこう。私は「評価軸を他人から自分に変えたら自由に創作できるようになった。」というような文章を読んで「自分は他人の集まりじゃないの?」と思った。それ以上のことは思わなかったが、そのようなことを思った。

そして少し時間が経って、次のように思った。「自分と他人は大抵内と外で理解される。そして評価は外からなされるものだからやっぱり変である。」と。もちろんここには私の先入観がある。「評価は外からなされるものだ」という先入観が。しかし、これがあるからこそ「評価軸を他人から自分に変えたら自由に創作できるようになった。」と言うことは可能になるのではないだろうか。

このような過程を経て、いま私は冒頭に書いたように思っている。次のように。

「他人が自分を評価する」から「自分が自分を評価する」への転換は"実は"「評価する」から「評価しない」への転換なのではないか。

割と丁寧にここまで過程を辿ってきたのは「実は」を用いることに抵抗があったからである。吉川博満も『哲学の門前』で書いていた気がするが、私も「気づいちゃった人」(『哲学の門前』でこういう表現をしていたかは忘れたが意味はほとんど同じだと思う。)になりたくないのである。だから紆余曲折あって、未だ答えの出ていない問いとしての「評価」を問題にするためにここまで過程を辿ってきたわけである。(ただ、私と吉川が「気づいちゃった人」になりたくないからと言ってその理由は異なるように思われる。吉川は主に倫理の観点からそうなりたくないと言っていたのに対して私は主に享楽の観点からそうなりたくないと言っている。上に書いたように私は誘惑に乗らないとエネルギーを充分に得られないような貧弱な人間なので「気づいちゃった」らその貧弱さを自らなんとかしなくてはならなくなる。他人の誘惑も借りずに。私にはそんなことはできないので私は「気づいちゃった人」になりたくないのである。)

では、そういうことがあるとして、この文章は何を意味しているのだろうか。せっかく過程を辿ったのでそれも用いつつ考えてみよう。

まず、私はこう思っているのである。おそらく。「自由に創作できる」か否かは「他人が評価する」か「自分が評価する」かで変わるのだろうか?と。そして私は思っているのである。変わらないだろう、と。さらにこう問うているのである。ならば、どのようなことで「自由に創作できる」か否かは変わるのだろうか?と。そして私はこう思っているのである。「評価する」か「評価しない」かで「自由に創作できる」か否かは変わるのではないか、と。

これはもちろん、むやみやたらに次元を上げて物事を解決する、よくない大人のやり方の筆頭かもしれない。話をずらしているように見えるかもしれない。ただ、それはもしかすると「変わらないだろう」という判断の根拠が示されていないからかもしれない。そういう可能性に賭けて、ここからはそのことについて考えていこう。

私は当初「自分は他人の集まりじゃないの?」と思っていた。だからそもそも「自分/他人」という対比が「他人の集まり/一人の他人」というふうに見えるのである。私には。もう少し精確に言うとすれば、そもそも私は「自分」に興味がないのである。そして興味があるのは「自分」だとされるものが「他人」であることに気がつくことなのである。さらに言えば、「自分」がたくさんの「他人」の集まりであればあるほど、私は嬉しいのである。なんだか嬉しいのである。この次元についてはわかる人もわからない人もいるだろう。そして別にわかろうとわからまいと別にどちらでもいい。ただ、私は確固たる「自分」なんてものは存在せず、なぜかそれが必要なタイミングがあるだけだと思っている。そのタイミングだけに必要なものをわざわざ引き延ばす必要が私には感じられないのである。

これは「自分なんて存在しない。」ということではない。別にそのように言うことに移行するのは容易であると思うが、私は上にも書いたように貧弱なのでそんなことをしたら怠惰極まりなくなってしまう。死んでしまう。別に死んでもいいなら「自分なんて存在しない。」と言い続けていればいいが、私にはそんなことはできない。そもそも、制度がそれを許さない。まあ、この話はいいとして、とにかく私は「自分なんて存在しない。」と言いたいのではなくて「自分なんて他人の集まり。」と言いたいのである。わざわざ合わせるとすれば。そして、「自分」=「他人の集まり」の等式が崩れるタイミングがあり、それだけだと言いたいのである。

そのタイミングというのは上で言った制度が私を捕まえるタイミングもそうだが、違和感を感じたタイミングも同じくそうであると思われる。私はどうにもそのタイミングを引きずっているだけなのではないか、と思うのである。「評価軸を他人から自分に変えたら自由に創作できるようになった。」とわざわざ言うのは違和感を保持しようとする、言うなればここでしていることと同じことを標語的に言っただけなのではないか、と思うのである。

別にだからと言って良くないとかそういうことを言いたいわけではない。そんなことよりも、そのように思うとすれば、私が考えていることまではすぐである。ここでのポイントは「評価"軸"」が「自分」から「他人」に変わったというところである。ここでは「評価」という行為自体は変わらずその行為が依拠する基準だけが変わっている。しかし、どうしてわざわざ「評価」する必要があるのだろうか。「自由に創作できる」のは「評価」なんてせずにただ単に「創作」しているときだけではないだろうか。もちろん、何かを作るときに何の判断もないということは考えにくい。そして判断に何の基準もないということも考えにくい。そのときそのときで判断はしているだろう。しかし、判断や判断の根拠がわざわざ求められるのは「評価」で違和感を感じるからである。それ以外のきっかけが私には想定できない。

まあ、「自由に創作できる」か否かが「評価する」か否かに依存する「創作」とそうではない「創作」があるのは事実だろう。また、依存するとしても「評価する」ことが避けられない「創作」があることも事実だろう。しかし、あの文章、もうどこで読んだかすら忘れてしまったあの文章はやっぱり「評価する」から「評価しない」への移行を求めていたのではないか、と私は思う。

それはもしかすると貧弱な者から屈強な者への変化、もしくはそれを求めることだったのかもしれない。ただ、私はそのようなことには興味がない。もっともっと掘り下げていきたい。

私が「評価軸」を「他人」から「自分」へと変化させるよりも「評価する」から「評価しない」へと変化させるほうを推しているのは別に「自由に創作できる」からではない。梯子を外すようだが、おそらくそうではない。それは上に書いたように「創作」にも色々あるからでもあるし、それ以上に「自由に創作できる」ということがどういうことかよくわからないからである。ただ、そのようなこととは別に「評価軸」を「他人」から「自分」へと変化させることには見えづらい陥穽があるのではないか、という親切心もある。ここからはかなり私の信念というか、感覚というか、偏りというか、癖というか、そういうものが混じっていると思うので「ふーん。そうですか。」くらいで読んでもらえればいい。

私が危惧しているのは「評価軸」における「他人」から「自分」への変化が単数から単数への変化であると解釈されることである。それは私からすれば単数から複数への変化であるし、そもそも重要なのは「評価軸」をある程度たくさん持つことなのではないかと私は思うのである。(「ある程度」とわざわざ書いたのは過剰な複数性の問題、無際限性の問題があるからである。)だから「自由に創作できる」か否かに関わるかどうかはわからないが、「評価軸」における変化というフォーマットを用いるとすれば、「評価軸」は単数から複数へと変化していくのが望ましいのではないかと思うのである。

これは私が私たちを貧弱な存在であると考えているからである。私たちは色々なところからエネルギーを補給している。その補給先を保つことは生きていく上で重要なことではないかと私は思うのである。私は特に欲望についてそう思うことが多いのだが、それは別に重要ではない。ここで重要なのは、エネルギーの補給先を保つことなのである。(私が特に欲望について考えているのは、「補給する」仕方について熟達すれば、補給先を保つのがある程度楽になる可能性があるからである。)

なんというか、うまく言えなかったのだが、私が言いたかったのは「評価軸」において「他人」と「自分」を対立させるのではなく単数と複数を対立させるべきなのではないかということである。そしてその理由としては生きていくのにエネルギーを補給するところはたくさんあったほうがいいからということを私は推してきた。さらに言えば、根本的に私たちは貧弱であり内からエネルギーを補給できる人はそう多くないと思ったから私はそれを理由にしたのである。

さて、久しぶりに「内/外」の話題が出たが、どうしよう。私は「自分/他人」を「内/外」で理解するのは「単数/複数」を見えにくくすることに繋がるのではないかと思う。だからわざわざ「内/外」を使うのであれば、創作物を真ん中に置いて「自分-創作物-他人」というふうに「自分」と「他人」という少なくとも二人、複数人と言うには忍びないかもしれないかもしれないが二人を確保して、「外-内-外」という関係を作るほうがいいのではないかと思う。作者というシステムはこれを阻んでくるかもしれないが、それなら仕方ないから「昨日の私はある程度他人である。」と、そして「未来の私は結構他人である。」と考えればいいのではないかと思う。そうすると結局「自分なんて存在しない。」ことになるのかもしれないが、それは「気づいちゃった人」にはならないのではないだろうか。というか、「自分なんて存在しない。」はあたかも「常に自分なんて存在しない。」と言っているかのように聞こえるが、そもそもそれなら「自分なんて存在しない。」とわざわざ言っている意味が全然わからなくなる。それがわかっているのにわからないふりをするしかないことに「気づいちゃった人」がいたとしたら、私はそれになりたいかもしれない。

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