正木ゆう子から鑑賞を学ぶ4
今日は素早くしてみよう。ここでするのは『現代秀句 新・増補版』の正木ゆう子の鑑賞から鑑賞のなんたるか、詩人のなんたるかを学ぶことである。引用、私の感想、正木の鑑賞、感想の変容、こういう順番でいこうと思う。今日は時間がないので駆け抜けていく。
「虚空没」が凄いのは言うまでもないが、「天没地没」は「地没天没」じゃだめだったのか、みたいなことを思った。ただ、すぐに、それだと「虚空没」にリアリティが、いや、「虚空没」の「没」にリアリティがない、みたいなことを思った。リズムとして。ただ、正直「虚空没」が凄いと思っただけで、それ以外は特に何も感じなかった。
正木の鑑賞を見てみよう。正木によればこの句は阪神淡路大震災で奇跡的に助け出された永田が詠んだものなのだという。
最後の「作者は大孤独の中で二年半生きたことになる。」はなんだか胸が熱くなるところだが、これは鑑賞かと言われればそうではないように思われる。鑑賞として重要なのは「俳句という形式の底力」と「季語の働きの大きさ」、そして「俳句としての普遍性を持つに至っている」ということだろう。「俳句としての普遍性を持つに至っている」ということについて私はまだ、もしかしたらずっとわからないので置いておくとして、私が気づいていなかったのは「季語の働きの大きさ」である。
私は「白梅」をなんとなくしかイメージできない。見たことがないことはないのだろうけれど、それにリアリティがあるかと言われればない。俳句にはやはり、そういうリアリティが必要なのである。書くにも読むにも。詠むにも。なんというか、これは己の経験不足を恥ずかしく思うようなことであるかもしれないが、私はそれよりも、世界に強弱、リズムがつくことを楽しんでいきたいと思う。そんな気持ちにさせてくれる鑑賞であった。
「俳句という形式の底力」に関してはリズムみたいな視点で少しだけ触れていたと思う。私は。なんとなく「空と君とのあいだ」は「君と空とのあいだ」にならないのだなあ、という、リズムとは関係がない、かもしれない、そんなことも思った。このことと関係して志賀直哉の随筆の一節を思い出した。それを引くことで今回は終わろうと思う。引用は『志賀直哉随筆集』からである。
いや、短いので全文引用しよう。
これに似た気づきとして、私たちは大抵小さなものを大きなものに喩える、という気づきがあるが、今日は時間がない。これで終わりにしよう。推敲はあとだ。準備をしなくてはならない。
意外と整っていた。出先だから志賀直哉からの引用が間違っているかもしれないと怯えているが投稿しよう。特に「直ぐ二疋はもう一つになっていた。」というところ、「もう」って付けるかなあ、と思った。まあ、わからないのでとりあえず投稿しよう。間違っていたら後記で書きます。では。