私の倫理とその根源

少しだけ、ほんの少しだけ時間があります。なので、私の倫理の根源とその倫理の関係について考えてみたいと思います。

私の倫理の根源というのはおそらく「過去の私を現在の私に繋げない」という否定にあります。そして私の倫理というのはおそらく「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」という肯定にあります。この二つのこと、否定と肯定を繋ぎ、拮抗させているのは物語ることです。もう少し限定するとすれば、ストーリーにすることです。ストーリーにする部分としない部分を分けることです。否定と肯定を含み込んだ物語(≒ストーリー)、それこそが私の倫理の問題、そして課題なのです。

私は不思議に思っています。「他人は勝手に私を物語にすればいい」と思いながら「死んだあとに物語にされるのはなにがなんでもいやだ」と思うことを。これは矛盾、なのでしょうか。私としては矛盾だと思っていたのですが、こう書いてみると「勝手に」というところと「死んでいない≒生きている」ということは深い関係にある気がしてきました。

私は上で私の倫理の根源を「過去の私を現在の私に繋げない」という否定にあると言いました。これが「否定」なのは「過去の私を現在の私に繋げる」ということが要求されていると思っているからです。そのことを強調すれば、これは「否定」というよりもむしろ「拒否」です。ただ、「拒否」だと視野が狭くなるので「否定」まで広げているのです。おそらく。それは一つの工夫であり、その工夫は言うなれば「私たちは常に問いただされているわけではない」ということを明らかにするための工夫です。

最も屹立するところを語ってみましょう。私の倫理たる「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」ということが実践的な、実際的な意味を持つとすれば、ある種の能力論として私は倫理を構築していることになります。つまり、「偶然性の自覚」と「倫理的に振る舞うこと」が比例しているという倫理を私は構築しているのです。「偶然性の自覚」ができればできるほど「倫理的に振る舞うこと」ができるという形の倫理を私は構築しているのです。ただ、その「比例している」や「AができればできるほどBができる」ということには不可避的に時間が必要です。しかし、私は「過去の私を現在の私に繋げる」ということを「否定」もしくは「拒否」したいと言っています。そのような場合に、仮に「否定」や「拒否」を遂行する場合に、時間は存在するのでしょうか。

簡単に言えばこういうことです。ある能力を身につけるためにはその能力を身につけるための努力が必要であると考えられています。しかし、その努力が可能であるためにはある地点とある地点を繋げる必要があり、そしてそれには同一の主体が必要です。そしてこれは努力だけではなく能力の帰属にとってもそうです。私が問うているのはその「同一の主体」と「ある地点とある地点を繋げる」ことの関係です。

仮に「同一の主体」と「ある地点とある地点を繋げる」ことが同一なのだとしたら、私の倫理の根源と私の倫理は矛盾だと思います。端的に。ないものねだりに過ぎないと思います。もちろん、ないものねだりであるがゆえにそれは私を支え、私を勇気づけ、私を賦活していると考えることはできると思います。しかし、文学としてはそれでいいのですが、私はどうしてもその辺りを抉り出したいと思うのです。

哲学的には「同一の主体」と「ある地点とある地点を繋げる」ことが同一であってはなりません。しかし、それがどういうことなのか、私には充分にはわからないのです。しかも、これは倫理の話なので、言うなれば「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」というテーゼによって限定された話なのでまだ「主体」というキーワードがあるのですが、倫理に限定されない哲学としては「同一のX」の生成に関する議論があり、それをどのように変換しても「ある地点とある地点を繋げる」ことと「同一のX」の生成が同じなのだとしたら、倫理がむしろ哲学を取り込むことになるのです。

さて、そろそろ時間がなくなります。書き継ぐことは困難でしょう。私の課題は次のようなレヴィナスの課題、そして問題と深く関係しているように思われます。

レヴィナスの哲学はしばしば他者論と形容される。だが本書[=『全体性と無限』:引用者]が探究するのは、つねに<他>との関わりのうちにある<同>が、時間を貫いて<同>として継続していく様態である。<中略><同>が<同>として確保されるために、全体化されえない無限の観念を迎え入れる主体性が記述されたのであり、エゴイズムや無神論といった措辞とともに内奥性の次元が要請されたのである。

『レヴィナス読本』89-90頁

この箇所を書いた藤岡俊博によれば、レヴィナスが「全体性」と呼んだのは「あらゆるものを包摂して<同>(le Même)も<他>(l’Autre)も消滅させる状況」(『レヴィナス読本』86頁)であるといいます。私は少し前から私の快楽を見定めました。それはこう表現されます。

「私とあなたは違う」とニコニコする

これが私の文学的、そして哲学的、倫理的なモットーなのです。最後にさっきまで読んでいた『断片的なものの社会学』のあとがきから引用して終わりましょう。

いま、世界から、どんどん寛容さや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています。この社会は、失敗や、不幸や、ひとと違うことを許さない社会です。私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許されません。いつも前向きに、自分ひとりの力で、誰にも頼らずに生きていくことを迫られています。
私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。
こういうときにたとえば、仲のよい友だちの存在は、とても助けになります。でもいまは、友だちをつくるのがとても難しくなりました。不思議なことに、この社会では、ひとを尊重するということと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。だれか他のひとを大切にしようと思ったときに、私たちはまず何をするかというと、そっとしておく、ほっておく、距離を取る、ということをしてしまいます。
このことは、とても奇妙なことです。ひとを理解することも、自分が理解されることもあきらめる、ということが、お互いを尊重することであるかのようにいわれているのです。
でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。
そもそも、私たちは、本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くのひとにかこまれて暮らしているのに、脳のなかでは誰もがひとりきりなのです。
ひとつは、私たちは生まれつきとても孤独だということ。もうひとつは、だからこそもうすこし面と向かって話をしてもよいのではないか、ということ。こんなことをゆっくり考えているうちに、この本ができました。
とらえどころもなく、はっきりとした答えもない、あやふやな本ですが、お手にとっていただければ幸いです。

『断片的なものの社会学』240-241頁

私は別に本を書いていませんし、書く気もありません。ただ、ここで「孤独」と言われていること、「面と向かって」と言われていること、そして「距離を取る」と言われていること、これらを少しずつずらしていきたいのです。私は。「過去の私」と「距離を取る」ことによって、「面と向かって」話していても面は平面にも平面でないものにもなりきらない、その曖昧さに「孤独」を感じるような、そんな感性、快楽を開発してみたいのです。私は昨日次のように書きました。

稲刈りの後の田んぼの上で、鳥たちが何かを囲んでいる。軽い平面、緩い円、かごめかごめをしている。早朝のこと。私たちの深夜。鳥たちの早朝。

2024/10/31

ここまでにどういう関係があるのかはわかりません。まあ、とりあえずはそれでいいのです。さて、仕事が始まります。ご飯を食べましょう。

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