違和感の老体
ミキサーに牛乳入れる。冷めちゃう。
ありがとうと言われる。場合によっては冷めちゃう。
ここでの「冷める」は「つまんね、となる」みたいなことである。みんなもあるだろう。「つまんね、となる」こと。
私は天才でも努力家でもないのでこの「冷めちゃう」ゲームをし続ける能力はない。
「能力」?不思議な概念。
することには理由が必要なことと必要ではないことがある。そしてその必要なことにそもそも言語道断の次元とそうではない次元がある。この「そうではない次元」と「必要ではないこと」の見極めは難しい。というか、そこがくっつくから理由というシステムは今日も廻り続けている。
音楽を聴く。タンブラーに空を詰める。風呂で寝落ちする。
差を見せつけられる。そんな経験がない。いや、覚えていないだけかもしれない。覚えたくなかっただけかもしれない。思い出せないだけかもしれない。思い出したくなかっただけかもしれない。ただ、私はどうして、そんな圧倒的な差を求めているのだろうか。意気阻喪。アパシー。
乗りたい誘惑と乗りたくない誘惑がある。いや、誘惑の時点でやっと、誘惑がそれになったときやっと「伸るか反るか」の次元は開かれるのである。
心の声を聞け!と言われてもなあ。なにしろ心は何も話していない。というか、質問なしに何も話せない。特に心なるものに限っては。しかも質問によって解答は生まれる。言い換えれば、解答は質問によって制限されている。やる気が出ない!
やる気が出ない原因を、特定できないときに私は、「ああ、欲望について考えなくてはならない。」と思う。
「これらは、まったく異なった手段だが、どちらも他者の存在に積極性の外観を与えるためのものである。欲望を誘発する身体の現前によって、あるいはまた待つ者がやって来てしまう(待たれる者になる)という行為の能動性によって。もちろん、これらは、果たされない。それらは、意味のない解決だからだ。積極性の外観を待つことによって、他者はその本性を失い、"他者に"待たれるという本来の構成そのものを破壊してしまうのだから。」(『恋愛の不可能性について』(ちくま学芸文庫)167頁)
「本章の解釈では、マゾヒズムは、経験論的なのであった。マゾヒズムは、与えられた経験の部分を条件として、別のしかたの経験を分身させる。他方、サディズムは、経験しえない≪欠如≫へと向かう。その≪欠如≫は、間接的に論証されることでしかなかった。サディストは、"実地では"、破壊の累積・加速をしている。サディズムにおいても、激化する反復の"経験的な快感"なしでは、≪欠如≫の論証の「意気阻喪」"と"再性化、という相反することを二重に経験できないはずである」(『動きすぎてはいけない』(河出文庫)406頁)
粗雑で、どうでも良さそうな快楽を守る。いや、見守る。まるで子どもに「遠くに行きすぎるなよ。」と言うかのように。
「ああいま隣で 「雪が綺麗」と笑うのは君がいい」(backnumber)。物語へ埋め込まれる「君」。ただ、物語ではなく「君」に焦点化する。
適当に書き続けてきた。適当であろうとしてきた。真面目に。しかし、私はもっと適当になった。ここで。しかし、そのことに気がつくのは誰なのだろうか。
さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。
私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのヘんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。
そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。
私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
『断片的なものの社会学』(朝日出版社)20-21頁
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