改作と鑑賞9

暇だしやることもないので「改作と鑑賞」をします。簡単に言えば、過去の私の句に対して改作もしくは鑑賞をするということです。見ていたらわかると思いますので興味のある方は見ていってください。

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神隠し秋の破片と遊びけり

なんというか、言い表し難い魅力がありますね。「秋」のところは「春」でも「夏」でも「冬」でもなく、という感じがしますね。「秋」と「神隠し」の感じが似ているのでしょうか。

囁きて秋の爆発去年今年

よくわかんないっすね。うーん。よくわかんないっすねえ。改作のしようがないです。

春めきて無限の鏡空にあり

春めきて無限のガラス空にあり

うーん、これはなんとなくわかりますよ。表現したいことは。簡単に言えば、春の空って白すぎるだろ!というのを「無限」に託そうとしているんですよ。たぶん。ただ、これらについてはもっといい句が少し後に作られた記憶がある(私の記憶では「山霞む半透明の重なれり」みたいな句があったと思います。これのほうが明らかにいいと思います。やっぱり書いていました。メモで検索したらありました。なのでそのときに書きます。あ、括弧が閉じれなくなっちゃいました。

草ぶねの転覆とはまあ言い難き
→草ぶねの転覆とまで言い難き

まあ、改作前もいいんですけど、俳句的なキレがあまりないですね。まあ、俳句的なキレを逆手に取ったと言ってもいいですけれど。まああと、季語ないですけど、初夏ぐらいかな、と私は思いました。晩春よりは初夏ぐらいかな、と。

重なれり無限観だね春の空

ああ、もうこの時点では「重なる」というイメージはあったんですね。ただ、観念的すぎるし、よくわからないですね。にこにこ。

裸木の枝を折る気も失せる街

うーん。いい句というか、面白い句ではあると思います。裸木の枝って毛細血管みたいで、でも途切れていて、なんだか神々しいですよね。それが「街」ということによって強調されてしまうから、それを「折る気も失せる」と。そんな感じですよね。たぶん。あと、これは内容のことではないんですけど、なんか、リズムがいいですよね。口が気持ちいい感じがします。それがこの句を「いい句」にするのかもしれませんね。ゆずが明るい曲調で悲しい歌詞を歌っているみたいで。『サヨナラバス』とか。

枯れ木生く絶望してから見られたり

うーん、ちょっと人生訓的すぎる感じがします。

→裸木の永久に葉のなき如し

永久は「とこしえ」と読みたいです。私は。ただ、わざわざ「とこしえ」と書くのも恥ずかしいので、ああ、「とこしへ」にすればいいんか。そうしましょう。

→裸木のとこしえに葉のなきごとし

「如し」を「ごとし」にしました。全体的な景観(?)を鑑みて。なんというか、いい句ですね。人生訓感が減ることで逆に良い人生訓になった気がします。

この日はこれで終わりです。時間が微妙なのですが、次の日もいくつかしていきましょう。「改作と鑑賞」。

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冬の朝トラック通るヘモグロビン

うーん。なんというか、もう少し良くできそうですけどねえ。「冬の朝」である必然性があんまりないですよね。だから散文的になっちゃってると思います。詩じゃないなあ、という感じ。

→冬の暮れトラック通りヘモグロビン

多少はマシですね。ただ、面白い句とまでは言い難いですね。

冬の朝微透明の塔立ちにけり

うーん、音数の問題はとりあえず置いておくとして、「塔」がねえ、なんか違う感じがします。「冬の朝○○○○○○○立ちにけり」という問題ですね。何を入れるか、という。「微透明」もねえ、いい発想ですけど、めちゃくちゃ造語の造語ですからねえ、「立ちにけり」も結構踏み込んだ表現なのでぶつかっちゃってる感じがしますね。

→冬の朝送電鉄塔立ちにけり

いいじゃないですかあ。まあ、明日にならないとわからないっすかねえ。真の価値は。あるかないかも。

冬の空切先として割れにけり

うーん、よくわかんないっすねえ。

急に呼ばれたので応答していた。その意味では切れたが急に切れたので切れなかった。こんな句を思いついた。その応答、労働のなかで。

☆ ジーパンの後ろポッケの兎かな

滅多にないことなので☆にしておいた。夜ご飯の買い物に来ているので家に帰ったらまたしようと思う。

冬靄の鳥の腹の毛触れにけり

うーん、「冬靄の鳥」で切れるのか、「冬靄の」で切れるのか、それがわかりにくい。たぶん後者だと思うが、それならそれでそれを強調したい。ちなみにまだ買い物中である。歩きスマホは危ないと思うが会計待ちだから安心してほしい。タッチタイピングもできるし。

寝てしまった。まあ、別に寝てもいいかもしれないが、ここまでのリズムはもはやない。ただ、改作の指針は提示しているからそれに従って改作しよう。そのあとはそのあと決まる。

→冬靄に鳥の腹の毛触れにけり

イメージとしては春の季語である「鳥雲に入る」にも近いと思うが、それよりは近いし、寂寥の感じがこちらにはない。なんというか、遊戯的で跳ねるようなイメージがある。ただ、そうなると「鳥の腹の毛」というのは少し、ピントを絞りすぎなのかもしれない。

うーん、冬の靄に入ったり出たりする鳥たちはどれが同じ鳥なのかわからない、みたいな句にしたいのだが力不足ゆえに今回はできそうにない。

→鳥が出て鳥が入って冬の靄

これで上で言っていることがわかるとは思えない。ただ、遊戯感はあるかもしれない。またいつかいい句ができることを願おう。おはよう。

冬靄の宇宙の下に入りけり

そろそろ夜ご飯を作らなくてはならないが、一応「冬靄」で共通しているのでここまではいこう。この句も「冬靄」と「冬靄の宇宙」のどちらが主語というか、動作主なのかがわからない。ただ、それはそれとして、「入りけり」よりも「潜りけり」のほうがいいかもしれない。この「冬靄」なのか、「冬靄の宇宙」なのか、どちらかは、私としては前者で読みたいが、後者にすれば鳥が入るのだろうという感じがして、密かな共感が鳥とのあいだに育まれてそれはそれでいいと思う。

→冬靄の宇宙の下に潜りけり

あれ、でもこれだと鳥のほうの解釈になるなあ。面白いなあ。困ったなあ。時間がないのだけれど。

→冬靄の宇宙の下にありにけり

上から宇宙→冬靄→鳥→私みたいな位置関係があるとして、この句の一番面白い、というか、魅力的な解釈は「冬靄の宇宙」というふうに宇宙と冬靄が圧着し、鳥と私が圧着し「ありにけり」というふうになるという解釈である。冬靄と鳥のあいだががばっと開いて、そのことによって私と鳥は私たちになるのである。鳥たちになるというのは言い過ぎかもしれないが。

意外に鑑賞のほうが跳躍的だった。とりあえずここまで。「改作と鑑賞」は推敲も修正もしないことにしているので誤字とかあればいい感じにしておいてください。

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