私たち三人の創作論
さて、私は考えよう。私の違和感について。ここでは三人の私に登場していただこう。話す私、聞く私、解説する私、の三人である。それぞれA、B、Cと呼ぼう。ちなみに私がこれを書くのはある程度の見立てが立ったからである。まあ、その見立てが裏切られるかもしれないのだが。ちなみにこの文章、冒頭の文章はA、Bが共同で書いていると考えられるだろう。
A なあなあ、あのさあ、「死んでも作品は残る!」とか「死んでもみんなの心に残るんだ!」とか、ああいうのが私はよくわからないんだ。
B たしかにね。あれはなんなんだろうね。
A なんかさ、なんて言ったらいいんだろうね、あれを言うときにはさ、ある種の救いというか、安心というか、そういうものを求めてると思うんだけど、それで安心できるなら救いとか、よくわからなくなっちゃうと思うんだよね。
B うーん、あれは永遠を欲しがっているのかな。それとも永遠とまでは言わないまでも死んでからもある程度承認されたいというか、そういうことを思っているのかな。
A どうだろう。私にはよくわからない。わざわざあれを言うってことは死んだら作品も残らずみんなの心にも残らない可能性があるって思ってるってことだよね。
B そこまで深く考えているかはわからないけれど、まあ、そうやって解釈するしかないだろうね。
A そうだよね。だとしたらさ、二つの対比、死んだあとに「作品が残る/作品が残らない」という対比、「みんなの心に残る/みんなの心に残らない」という対比の後者を恐れていると言えそうだね。二つの対比の関係はよくわからないけれど、とりあえずそうは言えるよね。
B まあ、そうだね。そう考えるのが妥当だろうね。
C ここでの「妥当」は「そう考えるしかない」わけではないが「そう考えないのは難しい」ということを表現している。だから、反論するとすれば、この議論に反論するとすればこの「妥当」が実はそうではないことを示す必要がある。簡単に言えば「そう考えるしかない」とか「難しくない」とか、そういう感じで。
A でもさ、それはおかしくないかい。そもそも、「死んだあと」というのがよくわからないよ。それじゃあ。だって、その対比は「死んだあと」にもあると思われてるわけでしょ?それはありえないから「死んだ」と言えるんだよね?
B まあ、そうだね。私はそういうことよりもこのようなことが言われるのは絶命寸前のときじゃないと思うんだよ。絶命の結構手前からこのことは言われると思うんだよ。それが重要な気がするんだけど。
C ここでは「話す私」と「聞く私」が明確に反転している。が、「話す」と「聞く」はそういうものだと思うので私は気にしない。だから「私A」と「私B」がいると思ってくれたらいい。
A じゃあ君は絶命寸前に言ったら変な感じがしないって言うのかい?
B いや、言わない。
A そうだろう?
B けれども、変な感じの種類は変わると思うよ。実際には絶命寸前よりも絶命寸前じゃないほうが多いだろうし。それは認めるだろう?
A 認めるよ。ただ、君は状況によって言明の変さが変わる話がしたいのかい?
B いや、別にどんな話がしたいとかはない。ただ、言明が変だということを具体的に考えていってみたら楽しいんじゃないかと思うだけ。
A まあ、それはそうか。
C ここでAは言明の変さの絶対的な解釈を打ち立ててから考えようとしている。それに対してBは言明の変さを集めてそこから考えはじめようとしている。私は私に割と長く付き合っているのでわかるが私は基本的にAの方面を志向していると思う。
B なんかさ、燃え尽きてるというか、満足しているというか、そういう感じがあるよね。絶命寸前じゃなかったら。
A でも、それと同時に「燃え尽きたぜ!」と言いながら、「満足したぜ!」と言いながら、まるで燃え尽きているようにも満足しているようにも見えないんだけど。
B というのは?
A うーんと、わざわざなんでそれを言うかな、って思っちゃうんだよなあ。さらに言えば、その問いにアーティストっていうのはこういう振る舞いをするもんだろ?的な答えを用意してる感じ、それがあるんだよなあ。
B 真のアーティストならそれを拒否するんじゃないかってこと?
A いや、わからないけど、なんか……
C 話したり聞いたりするときに大事なことは沈黙してしまうことである。私はそう思う。解決ではないけれど。
A なんかさ、スケールが中途半端だなあ、って思ってるのかもしれない。
B スケール?
A スケールをすごく大きくしたら作品が残ろうがみんなの心に残ろうが、その心を持つ存在、人類?その作品を残すメディア?、そういうのはどうせなくなるわけだよね。じゃあ別に「残るからなんなんだ?」ということになるだろう?
B たしかにそうだけど、それは問題の本質なのかい?
A うーん、本質の一部だとは思うよ。ただ、なんというか本質を掴んだという感じはしないね。
B あれかな、「残る」を目指して作品を作るのが野暮な感じがするのかな?
A いや、うーん……
C 私は「野暮」ということが好きである。そしてそれと同様に「元も子もない」ということが好きである。「元も子もない」ことは大抵「野暮」だと思うが、それが本当に「野暮」な「元も子もない」なのか、新しい局面を開いてくれる「元も子もない」なのか、それを見極めることが私の好きなことなのだと思う。で、たぶん「スケール」の話は「野暮」なんだと思う。Aの感じからすると。
B 君は作品を作っているとき何を思って作っているんだい?
A 私はあんまり作品を作ってるぞーとは思ってない。できたものが作品になるのは私が何度も受容するからだと思う。修正したくなる気持ちを抑えて、その、抑えること、それが作品の作品性を高めていくような、そんな感じがする。必然化するみたいなことかな?
B でも、それは推敲の話でしょう?推敲というか、リフレクション?その話でしょう?
A たしかにそうなんだけど。それはちょっと修正の話が強すぎるだけで、なんというか、日々の生活の中で反復することで作品は作品である度合いを高めるんだと思うんだよね。自分の作品は特にそうで、他人の作品もそうだと言えばそうなんだと思う。
B ああ、じゃああれなんじゃない?君は作品が残るだけじゃなくて作品である度合いが高まることが必要だと思ってるんじゃない?
A うーん、それっぽいんだけど、なんだか違うんだよなあ。全部が違うってよりも何かが足りない感じがするんだよなあ。違和感に到達するまでに。
B ふーん。なるほどねえ。まあそうか。だってそれだけじゃあ「みんなの心に残る」のほうがわからないもんね。
A うん。でもね、なんというか、そっちは「みんなの心に残ったからなんだ?」と思うほうが強いかもしれない。その人が私に新しい局面を見せてくれるわけではないというか、そういう気持ちが強いかもしれない。だからそんなことをあてにしたって、ねえ?みたいな意地悪さが私にはある気がする。
C ああっと眠り始めました。ということは、これを書いているということはまだ起きているんですけどね。もう眠くて仕方ないので眠ります。ああ、一つだけ思いついたっぽいので手がかりだけ残しておきましょう。と思ったのだが思ったよりも複雑そうなのでキーワードだけ。作者と作品の相互浸透としての作品性。私は他人の作品をどのように受容しているか。アドバイスを一つだけ。君は「他人の作品」と言うと「他人とは?」と問い始めるけれど、今日はそれを節制してみては?どうにもならなかったら問い始めたらいいと思うんだけど。おやすみ。お布団に入りました。私は私を見ています!
睡眠
C おはようございます。Cと名乗るのも変な感じですが二時間くらい寝ました。まだ眠いです。こうやって寝たときは大抵ここまでを読み直すのですが、今日はそうしないことにします。なんとなくですが。ただ、手がかりがないので一つ前のCは読みましょう。
A たしかに。俺はどういうふうに他人の作品を受容しているのだろう。思いっきり単純化するとすれば、俺はある作品のメインストリートと脇道を区別して、基本的には脇道にこだわって受容している気がする。このメインストリートというのは例えばメッセージであり例えば物語である。他人に説明するための道筋がメインストリートであり、脇道というのはどうしても気になるがおそらく他人に説明するためには必要のない色・形・レトリックなどのことだろう。私は基本的に脇道を用いてメインストリートを考えるという方法で受容を深めようとしていると思う。
B 自分の作品ならどうだろう?
A 推敲が終わったもの、幸運にも推敲が終わったものは都度都度思い出したときに包み込むように反復するみたいな感じで受容しているかなあ。他は推敲を長引かせないために、一旦は完成させるためにむしろ薄く受容しているかなあ。
B 他人の作品は濃く、自分の作品は薄く?
A まあ、そういうことになるね。なんというか、自分の作品は脇道が脇道にならずに、脇道の強度が低いから、それに甘んじて、もしくは仕方なくそれに従って、っていう感じかな。自分のやつだと脇道がはっきり脇道にならない。そんな感じかな。
B なるほどね。自分の作品は説明が一つの道筋に集約できないのか。
A いや、うーん、結果的にそうなるって感じかな。いくつもの道にはできるかもしれないけれど、それだと作品の「一つの」という感じが薄れちゃう感じがするかな。
B 他人の作品は「一つの」っていう感じが強くあるの?
A うーん、どうだろう。その、勝手に判断してメインストリートになっているところに集約していくことはできるかな。ただ、作者に集約するのは難しいかもしれない。ある作品群をある作者のものにするのは難しいかもしれない。
B それはここで考えていることのヒントにならないかな?
A うーん、どうだろう。なるとしたら、私は私の作品群を私の作品群として説明されるのが嫌なのかもしれない。もちろん作品群ではなく作品でも嫌なんだけれど。
B じゃあ生きてたらなんか変わるの?
A そうだね。実際にするかは別として、作品を一つにまとめるとか、作品群を一つにまとめるとか、そもそも作品も群だから、群を一つの集団にするというか、そういうことをされたときに抵抗できるというか、そういうことが違うね。死んだらそれができない。それが嫌じゃないのが不思議なのかもしれない。
B じゃあ、死んで作品が無視されるのと死んで作品が有名になってたくさんの人に一つにまとめられるのだとどっちがいい?
A うーん、前者かな。
C 最近私は「私は代弁が嫌いなのかもしれない。」と気がつき始めた。これもそのルートで考えられるかもしれない。
B なんで?
A 死人に口なしだからだよ。
B 自分の作品をとことん理解してくれた人がまだ生きているとしても?
A うーん、そうだね。その人は私じゃないもの。
B でも、君だってそうじゃないか。三年前に書いたものを何度も読んでくれている他人と推敲したきり読んでいない君とではどちらが理解しているかは明白だと思うよ。
A たしかに。それはそうだ。それはそうだね。
C Aは黙り込んでしまいました。しかし、彼は抵抗しようとします。おそらく。
B ということはだよ、
A ちょっと待ってくれ。
C 私はこういうことを倫理だと思う。Bが「ちょっと待ってくれ」と言われて待つこと。ここには「信頼」の問題があるように思われる。
B 少し話してもいいかい?
A いいよ。
B 僕は、多分だけどさ、君の「メシアなきメシアニズム」(デリダ)の信奉が原因なんじゃないかと思うよ。
A たしかにそうだ。たしかにそうなんだけど、それにまとめると固有の問題がどこかへ消えてしまう気がするんだ。またメシアを信じるだけの奴らか、みたいなことだけじゃない気がするんだ。この違和感は。
C おそらくここで私の探究は打ち止めである。なぜかと言うと特に理由はないのだが、私は多くの主題を抱えて、それを抱えきれずにもはや何も話せなくなっている。最後に「メシアなきメシアニズム」について確認だけしておこう。やっと解説っぽい仕事が来たね。
さて、解説をしようと思って高橋哲哉の『デリダ』を開いたのだが、「メシアなきメシアニズム」という概念はなく「メシアニズムなきメシア的なもの」という概念だけがあった。私は勘違いをしていたらしい。しかし、意味するところは変わらず、変わるとすれば私が少し機能的というか、もの的というか、そういう感じがする。私はうまく咀嚼できていないので引用してコメントができそうだったらしよう。
私にすっぽ抜けていたのは「現前」という問題意識であろう。そして、別にいまもそれはあんまり迫り上がってくるものではない。これは私とデリダの違いだろう。おそらく。そして、私はもっと即物的な、なんというか、「これがあったら人生変わるんだ。」的な「これ」を求めることを「メシアニズム」と呼んでいて、「これ」がその「求める」によって「メシア」になるんだ、みたいなことを思っていたので、現前性と即物性で「メシア」も「メシアニズム」も「メシア的なもの」も少しずつずれている感じがする。感じがするにはするのだが、これを豊穣にするために私はもう少し待たなくてはならない。デリダも読み直す必要があるし、他の哲学者の議論ももっと学ぶ必要がある。
C もし、私の違和感が私の、私たちの有限性を指摘するものであるとするならば、その有限性のスケールを整える必要があるだろう。もちろん、スケールを解き放って宇宙の始まりから終わりにしてもいい。してもいいのだが、それはルール違反である。この「ルール」を明らかにしなくてはならないのである。そして、もしかすると私はここでやっと全然興味が持てなかった「人生の意味の哲学」に近づくことができるようになるのかもしれない。書きたいことはたくさんあるが、今日はとりあえず終わりにしよう。
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