なぜ私は短いものばかり読むのか?──私のリアリズムと志賀直哉のリアリズム
あなたが小説ではなく詩を、詩ではなく短歌を、短歌ではなく俳句を読むのはなぜですか?なぜ短いものばかり読むのですか?と問う人があれば、私は一つだけ答えうるものを持っている。
その答えは単純で、私が長いものを読めないからである。あとはこの「長いものを読めない」とはどういうことなのか、これがなぜ答えになるのか、ということを考えればよい。
このことを考えるにあたって、私は志賀直哉の「龍安寺の庭」という随筆の一節を引用してみたい。ここには私のすべてとは言わないがある部分が極めて上品に表現されているように思われるからである。
私は龍安寺の庭を見たことがある。「本法寺の光悦の庭」は見たことがない。ただ、論旨はわかるだろう。しかし、一つ踏み込まなくてはならない。なぜ私がわざわざ「ただ左の白壁と白壁の前の鍵形に入り込んだ溝とが恐らく当時のものではないように思う。」以降も引用したのかを理解しなくてはならない。
私がこの部分をわざわざ引用したのはああいうシンプルな庭だと「吾々は当時のままでそれを感ずる事が出来る」からこそ、志賀がこの部分以降でしているより細かい感性を掴むことができることを重要なことだと考えているからである。
ある人がどこかでこんな感じのことを言っていた。「同じ本を節目節目に読むとよい。自らの変化が感じられるから。」たしか『旅好き、もの好き、暮らし好き』のどこかで言われていた気がする。いや、教科書の文章で読んだような気もする。まあ、それはどうでもいいが、ここで問題なのは「自らの変化を感じられる」ということをどのように行うか、ということである。
しかし、実はこの問題から志賀は脱落している。解説の高橋が言っているように「志賀直哉は自らの好悪がそのまま、対象である美術の美や人間の真実に直結しうることを疑わない人物であった」(『志賀直哉随筆集』364頁)のだから。しかし、私は疑っている。その直結を。いやむしろ、私は「変化」を享楽するために疑いを使役している。まあ、それはいいが、とにかく志賀と私では「より細かい感性を掴む」ことへのそれこそ、感性の違いがあるのだ。
ただ、上でも言ったようにシンプルなものであればあるほど「より細かい感性を掴むことができる」という考えに違いはないだろう。いや、まあ、志賀はわざわざ「掴むことができる」とは言わずに、考えずに「掴む」と言い切るとは思うが。ただ、それが彼のリアリズムなのであり、私のリアリズムはまた別の形で感得されるのだ。
もう言いたいことは言い終わったが、この「リアリズム」について、それこそ短くシンプルなアフォリズムを引いて終わりにしよう。
もちろん私は「リアリズム」を志賀から学んだのであるが、私が学んだのはここでの言い方で言えば「心性」だけである。そう、私と彼では「言葉にすること自体」への捉え方が異なるのである。ただ、勘違いしてほしくないのは私は志賀を批判しているわけでもないし、愛憎混じった感想を言っているわけでもないということである。彼と私は違う。ただそれだけのことであり、それだけのことが私にとっては重要なことなのである。
私はたくさんの私を掴んでそこに生命を、そのひしめきを感じたいのである。「掴む」「掴む」「掴む」、三回も繰り返された。これは別に狙ったことではない。しかし、一つの文章を「一つの」ものにするためにはそういうことに縋るしかないときもある。今日はそうしよう。