矛盾する私をスピーディーに楽しむ(千葉雅也的に楽しむ)
矛盾する私をスピーディーに楽しんでみよう。この試みは千葉雅也的な試みである。
千葉雅也は次のように言っている。
「ここには実は矛盾がある」ベースで考える人と、「一見矛盾しているようだが実は……」ベースで考える人がいるようだ。僕は完全に後者。
私は「完全に後者」ではない、というかそもそも、議論は両輪を「矛盾」という車、実体にして進んでいくもの、少なくともそういうところがあるものだろう。ただ、今回は後者を意識して進んでいきたい。
もう一つ「スピーディー」についても千葉的なものがあると私は思う。千葉は次のように言っている。
微弱なものを素早く捉えること。微弱なものに付き合うというと、じっくり時間をかけてということになりがちな気がするけど、そうではなくスピーディーに。微弱な何かをスピーディーに堪能してすぐその場を離れる。
この本の解説で小泉義之も言っているように、「堪能しておいて、「すぐ」離れると書く批評性が冴えている」(『ツイッター哲学』(河出文庫)205頁)し、その冴え方が千葉流だと思う。ちなみに私はこの冴え方を「最短で快楽に接続する」という言い方であらわしたことがある。もう少し難しい、というか専門的な議論で言えばこれは「一次的マゾヒズム」の議論に当たると思うが、それはとりあえず置いておこう。
さて、確認せずに始めたかったがわざわざ確認したのはどういう感じであるか、とりあえず形式的に規定しておきたかったからである。ここからすることを。スピーディーに行こう。ここからは。
私は自己の同一性を信じているし疑っている。過去の私とこの私と未来の私が繋がっていると思っているし繋がっていないと思っている。それくらいならまあいそうだが、私はその接続面と切断面の面性を強調して考えている。簡単に言えば、繋がっていてもいいし繋がっていなくてもいい次元までこの感覚を強調している。基本的なスタンスとしては普通に考えれば繋がっていないが享楽のためなら繋がっていることにしてもいいというスタンスを取っている。しかし、これがスタンスに過ぎないのはコミュニケーションがそもそも可能なのは少なくとも言語的な次元で、もっと言えば意味的な次元では繋がっていないと私たちはバラバラに何か言っているとか何かしているとかそういうことを言うことすらできないと思っているからである。この意味で私は自己の同一性を信じていることになるし疑っていることになるのである。
ちょっと長い。もっと凝縮してみせよ。御意。
私は自己とその同一性を信じているし疑っているし信じていることになると思っているし疑っていることになると思っている。私が自己なりその同一性なりを考えることで試みているのは自己なり同一性なりが「あってもなくてもいいけれど」という前置きのもとに置かれるような次元を垣間見せることである。しかし、それは語られることはなく示されるのみであるとも思っている。それが「垣間見せる」に、そして「ことになる」に表現されている。
凝縮はされたが気持ち良くはない。リズムがない。ループがない。ただの理詰め、クールである。
一旦別の矛盾に行ってみよう。
私は物語られたくないが物語の快楽に身を浸したいときがある。私がしてきたことをストーリーにされたくないが、誰かがしてきたことをストーリーにして楽しみたいときはある。これはおそらく、その「誰か」を「そうならざるをえなかった」存在として考えることで「そうでなくてもよかった」を引き出すことが気持ちいいからであり、他人が自分にそれをするにはあまりにも雑多な存在として私自身が存在するからであろう。
私としてはいい感じである。ただ、それはおそらく以下に引用するようなこと、もしくはここに至るまでの議論がぼんやりにでも経験され記憶されているからであろう。
人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。
ここでの「何かひとつの塊に見えてくる」をもう少し作為的なものにすれば「ストーリー」にするみたいなことになるだろう。私はその先にある「果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する」こと、もう少し平易に言えばどこか一つ変われば全体が著しく変わることが気持ちいいのである。変換。回路。快楽。快感。そのようなことである。
もう少し具体的な話をすると、私は「ありがとう」と言われるのが嫌なときがある。私が最も不思議に思ったのはあるラーメン屋さんで店内から足の悪そうなご老人が歩いてきて私は何気なしに扉を開けて待っていたらすれ違いざまに「ありがとう」と言われてなんだか嫌だったということである。こう書いてみても、なぜ嫌だったのかがまるでわからないかもしれない。私も半分くらいはそうである。ただ、私は嫌だったのである。それを私は自分一人で「ストーリー」なんか立てずに気持ち良かったのに「ストーリー」によってそれを上書きされたから嫌であったのだと思った。(もう半分として仮に「ご老人」じゃなかったらどうだったかを考えて、もしかすると「ご老人」であることが嫌さの原因だったのかもしれないとも思った。その場合、私はここで言われているような哲学的な人間ではなくただの人間、偏見に塗れ二項対立に嵌まり込むただの人間であることになる。この場合、私は「なぜ嫌だったのかがまるでわからない」わけではなくなる。)ただ単に気持ち良いこと、私はそれが好きである。言い換えれば、理由を付けなくてもいいし付けようと思ってもつけられない気持ちが良いこと、私はそれを求めている。それを邪魔されるのが嫌なのである。しかし、私は「誰か」にそれをしていることがある。例えば自分自身にさえ。しかし、自分自身にそれをしていることについて考えることは一種の啓蒙、啓発のような雰囲気を持つ。問題は他人にそれをしている場合なのかもしれない。しかし、私はそもそも自分と他人の区別をどう付けたらいいのか、こういう言い方はあまりしたくないが、他人が自分になっているのではなく自分が他人になっているみたいな感覚が強い。だから自分自身の場合は良くて他人の場合は良くないというのは単純な話だが、私のなかではそう単純な話ではないのである。ちなみに「こういう言い方はあまりしたくない」と思っているのは「他人が自分になっているのではなく自分が他人になっている」においてはすでに「自分」と「他人」が区別されているからであり、仮にもそういう区別をしないとこの話は通じることさえないからである。しかし、そういうふうに話さなくてはそもそも通じないのであり、それは不思議なことである。ただ、この不思議さについてはある程度わかっている。永井均、具体的に言えば『『青色本』を掘り崩す──ウィトゲンシュタインの誤診』(講談社学術文庫)の141頁から162頁に教えられた議論のおかげである程度わかっている。ポイントは自他関係よりも実虚関係の方が先んじているということでありその先行性が失われてやっと私たちは普通にコミュニケーションができるということである。本当はこの「できる」も言えないからこそ普通にコミュニケーションができるというのが議論の肝ではあると思うがまあ、このことは長くなりそうなのでやめておこう。もうすでに充分長いが。圧縮してみよう。
私たちは行動を行為にしたがる。それができないときは「気持ちが良いから」という何も言っていないような理由を付けるしかない。いや、それだけでは不安だから「○○にとって気持ちが良いから」という辛うじて何か言っているような理由を付ける。しかし、その理由は後付けである。いや、後付けであるとも言える。私はこの「後付け」において「ストーリー」にすることは嫌うが「何かひとつの塊に見えてくる」ことは好む。これは「物語」という雑な区分にすると自分が他人に「物語」にされることは嫌うが他人が自分に「物語」にされることは好むかのように見えるかもしれないし、実際そうでもあるが、そもそも「自分」も「他人」も「後付け」の一つの支えであり、それでしかないとも思っているのである。私は。
どうしても長いなあ。何かに対するものとして書かないと長くなるのかもしれない。千葉は次のように言っている。ちなみにこの文章はもう終わろうとしている。二つしか矛盾を挙げられなかったが、考えてみても私に特徴的と言えそうなものはそれくらいであった。まあ、そんなものではなくても考えられるなら存分に考えたらいいのだが。また長くなってしまった。私は話は短いほうだと思うのだが書くと長くなってしまう。困ったもんだ。「何かに対するものとして書かないと長くなるのかもしれない。」についての文章であると言えそうな千葉の文章は以下である。
足場は、組み始めはグラグラしていて、鳶はそこに乗りながら、部品をはめていってだんだん構造を強くしていく。ある対象をめぐる言説、メタ言説というよりむしろ、その対象の側方にある「パラ言説」をつくるときの感覚だ。足場を組むように書く。
ここまでのものはほとんど「メタ言説」である。いや、全部そうかもしれない。「ご老人」のところはもしかしたら「パラ言説」になりうるかもしれない。まだまだ私は私から抜け出せていない。スイングバイシタイ。バイバイシタイ。「たとふれば心は君に寄りながらわらわは西へでは左様なら」(紀野恵)
最後に千葉のお手本を見て終わりましょう。
蚊取り線香を焚きながら、蚊帳も吊る。その煙・匂いと半透明の壁に囲まれた領域が、テリトリーになる。夏のただでさえ特別な時間のなかに、さらに特別な閉域をつくる。夏休み、従兄弟たちと泊まって、布団にもぐって遊んだのを思い出す。閉域である夏の、そのなかの閉域で遊ぶ。
まあこれもね、厳密に言えばね、『意味がない無意味』(河出書房新社)を読んでいるからすごい深みがあるように見えるんですけど。でもそんなの読まなくても深みがあるように見えると思うんですよ。もはや私はそこにはいけないのでわかりませんけど。私はそういうものを、書きたいんですね。