『創作者の体感世界』のパロディー
先ほどまで『創作者の体感世界』という本を読んでいた。いま、読み終えた。そこでは「創作者の体感世界」が「〜感」という形で示されていた。例えば、与謝野晶子は「そこまで言うか感」、オノ・ヨーコは「金切り声感」、高橋留美子は「わちゃわちゃ感」、村田沙耶香は「ツッコミ待ち感」、まだまだあるのだがとりあえず、私の好きな「創作者の体感世界」を確認するだけに留めよう。ここでしたいのはもし私が「創作者」として認められ、「体感世界」が描かれるとすれば「〜感」の「〜」には何が入るのか、ということを考えることである。(もしかするとこのような一種の思考実験感がすでに私の「〜感」に強い印象を残すということも真実だろうが、このことはとりあえず示唆に留める。また、横道がこの本で宣言しようとしている「当事者批評」についての議論はとりあえず置いておきたい。)
何を手がかりにすれば良いだろうか。私の作品を挙げるべきだろうか。私は長短さまざまな作品を書いている。公表しているものもあればしていないものもあるが、とりあえず短いもののうちで最高傑作だと思われるものを持ってこよう。
これが私が思う私の最高傑作である。短いものでは。長いものではいまだに『胡蝶の夢』という作品が最高傑作であると思っている。が、長いのでとりあえずこの作品について考えてみよう。
私は横道のように丁寧に作品を辿ることができないので曖昧な評になってしまうのだが、この作品には彼(私のことだが「彼」と呼ばしてほしい)が頻繁に語る実感が現れているように思われる。それは彼が「花々が揺れると宇宙が見える」と言うような実感である。彼の言うところを聞こう。
こういう実感が上の句には存在する。かつて彼はこの句について「友達から送られてきたネモフィラ畑の写真を見て詠んだ」と語っているが、その背丈は揃っていたのだろうか。「地球」は「一つの星に見える」のだろうか、それとも「たくさんの星々に見える」のだろうか。はたまた「強さがある星」に見えるのだろうか。このことと関わって重要であると思われるのは「地球」に「小さく」という修飾がなされているところである。
「地球」が「小さく」見えるというのはどういうときだろうか。この問いへの答えはたくさんあるかもしれない。しかし、ここで重要なのは彼の答えであり、その答えがどのような「体感世界」に由来するかを考えることである。このことを考える上で次の発言を参照する必要があるだろう。この発言は「この句[=「ネモフィラの小さく蒼い地球かな」:引用者]の「小さく」というのはどのような意味を持つのでしょう。」という問いに答えたものである。(と、書いてみたはよいもののここでの問答をこれまでに書いた記憶がないので答えた体で書きます。)
ここでの議論は意味が取りにくいので少し迂回しよう。ここで提示される仮説の前者すなわち「縮尺の問題の提示としての意味」はおそらく彼が愛誦している『エピクロスの園』の一節に関係すると思われる。
ここで言われているようなことを彼はよく「スケールの問題」であると言っている。例えば、次のように言っている。(引用するにあたって一部修正した。)
ここでは「集団-個人-個人内の関係」ということが「スケールの問題」として指摘されている。そして、たびたびこのように「集団」や「個人」、「個人内の関係」として「スケールの問題」は提示される。このことの映像的な制作がこの句であると考えることができるのではないだろうか。このことに関してS(私の実際の知り合いだが便宜上Sとする)は次のように述べている。
これはおそらく彼の「体感世界」の根幹にある感覚であるように思われる。実際彼も「たしかに。『紙芝居』というのはSさんの解釈だけど。」と言っている。「二つの絵を強引にお話にしたみたい」という感覚。この感覚を覚えつつ、とりあえずもう一つ残っているのでそれを片しに行こう。
仮説の後者すなわち「複数世界の問題の提示としての意味」はおそらく「スケールの問題」で指摘されていた「相対主義」の問題も抱えていると思われるが、それと同じくらい「可能世界」論に関わる問題であるように思われる。さらに言えばその「可能世界」は「集団」同士の関係、そして「個人」同士の関係、「個人内の関係」に、つまり対立しうる「関係」に見られているように思われる。このことを確認するためにまず純粋な世界認識としての「複数世界」について考えたい。このことについて彼はT(Sと同じく私の実際の知り合い)との対話で次のように語っている。
ここで取り上げている句、「ネモフィラの小さく蒼い地球かな」が書かれたのはこの対話よりも前であるからこの対話によってこの句が書かれたとは言い難いが、彼がこのような実感を持ち続けていることは確認することができるだろう。さらに言えば、彼はここで二度Tの訴えを棄却してまで「私たち」ということに着目している。彼とTは同じような世界認識をしているにも関わらず。
この棄却に着目してみよう。彼はTの「賢者」仮説に反対している。しかもほぼ反応的に。私はこの二人の対話を見ていたのだが、あそこまで反応的であるのはかなり珍しい。彼らの対話は大抵ゆるやかに、哲学的とは言えないくらいに穏やかに進むからである。では、彼はなぜ反応的に棄却したのだろうか。それはおそらく、彼の問題がそこにあるからであると思われる。彼は上にも書いたように純粋な世界認識においてはTとほとんど同じような認識を持っている。しかし、その世界は彼の世界なのでありTの世界ではないし、ましてや「賢者」の世界ではないのである。このことはおそらく「二つの絵を強引にお話にしたみたい」という感覚とも関わりの深い。
「賢者」の世界というのはある意味規則に支配されている世界である。「手をパチンと合わせ」るというのはかなり恣意的な規則、「実験」というのはかなり機械的な規則、それらが世界を動かしている。そういう世界である。しかし、彼はおそらくそのような世界、規則に支配された世界を批判しているのである。しかし、彼は別に自由意志が存在するとか、そういうことには不思議なくらい無関心である。このことを踏まえると彼の「体感世界」はかなり分裂した仕方で存在していると言えるのではないだろうか。「二つの絵を強引にお話にしたみたい」という感覚において重要なのは「二つの絵」が「強引にお話にした」ことなのではないだろうか。
ここまでの話は「この句[=「ネモフィラの小さく蒼い地球かな」:引用者]の「小さく」というのはどのような意味を持つのでしょう。」という問いに対して次のように答えたことを再読、そして解読する際の一つの補助線になりうる。
ここまでこの二つの「仮説」を考えてきた。そして、上で書いたように「二つの絵を強引にお話にしたみたい」という感覚ということの再解釈に行き着いた。この到達点を強く取るとすれば、この二つの「仮説」が「問題の提示」ということに向けられていることがとても重要なことなのではないだろうか。つまり、ここでの「仮説」は作品と解釈という対自体を宙吊りにしようとしていると考えられるのではないだろうか。言い換えれば、ここでの「仮説」は作品に対する解釈のうち有効な解釈に「仮説」があるということではなくこの句からわざわざ「問題の提示」を見て取るとすればこれらの「問題の提示」がありうると考えられるということしか言っていないとも取れるのではないだろうか。
このように考えるとすれば、そもそもこの営みも初めから間違っていたことになる。実際、彼は至る所で「問題は存在しない」と言っている。直近のもので言えば彼は次のように言っている。
彼がもしこの問いに答えるとするならば、「可能ではない」と答えるだろう。彼は「問題の提示」をするが「問題は存在しない」とも言う。私たちは「問題の提示」を自分がして、それに自分が答えるという、自問自答を突きつけられる。見せつけられる。作品や「仮説」は私たちの姿をありありと見えるようにする鏡のようになっているのである。彼自身は問題そのものとなり答えそのものとなる。その問題と答えが繋がっているかを常に曖昧にしつつ。その曖昧さは「ネモフィラ」と「地球」という遠さを「小さく蒼い」というだけで近くするという離れ業によって示されているのである。
さて、今日の私の私に対する「体感世界」の打診は終わりである。もう別に「〜感」ということでその世界、「創作者」たる私の「体感世界」を提示することに関心がなくなってしまった。し、他の書き方をすればもっと魅力的だったのかもしれないとも思っている。例えば、「蒼い」という表現について私の他の作品や『創作者の体感世界』で指摘されていることと関わらせてみたかったり、「スケールの問題」を垂直の問題だとすれば平行の問題として「私」や「私たち」の問題があるということを彼とTの対話から考えてみたかったり、もっと哲学寄りに書けばTやS、そしてそれらと異なる私の形式性への偏愛について、そしてその偏愛が反転した具体性の賦活力について、話してみたかったりした。そこに気が向いてしまっている。それゆえにまた書くかもしれない。面倒で書かないかもしれない。あえて「〜感」ということを言うとすれば「元も子もない感」が良いのではないだろうか。今日のところはとりあえず。まあ、彼=私はおそらく「何にも考えずに書いてるに決まってるじゃん。考えてたら書けないんだから。」なんて言うと思うが。まあ、それに対して私=彼は言うだろう。「だから『あえて「〜感」ということを言うとすれば』って言ってんじゃん。『今日のところはとりあえず』って。」と。