明日、福尾匠の「言葉と物」という連載を読む
明日、福尾匠の「言葉と物」という連載を読む。ことにした。いろいろあってすぽっと時間が空いたから。なので思い出すことも兼ねて以下の文章を読むことにしたい。
この文章は前回同じようにすぽっと時間が空いたときに「言葉と物」の連載の第一回から第八回までを読んだときの文章である。これを読んで書かれていたことを思い出そうというのがここでの目標である。ちなみに「言葉と物」は全十一回の連載なのであと三回分読む。はず。
ただ、読む前にどれくらい思い出せるかを試しておきたい。というよりも読んで思い出すのは案外容易だから、そうじゃない場合に覚えていることはなんなのかを確認したい。そう思って湯船でなにも読まずに、「うーん」と思いながら思い出した。
まず二つのことを思い出した。一つは(湯船の段階ではこんなにまとまっていなかったと思うが)福尾が読み手に着目することで書き手にとって読み手が「いなくてはならない」ことと読み手にとっての読み手の「いてもいなくてもいい」こととが柄谷行人と東浩紀においては圧着していることを指摘していたということである。これは結構綺麗なまとめであると思う。もう一つはだいぶ曖昧な思い出しなのだが「日記」について書いていたところがあって、そこが一番リアリティがあったなあということである。これは感想ですらない。ただ自分のリアクションを見つめて、ここが一番反応があった、赤ちゃんが見たことがないものを注視するのを見るように私は私のリアクションを見ただけである。この二つのことは割とすっと思い出された。
もう一つだけ湯船では思い出した。これもまたかなり曖昧なのだが、第五回でそこまでの議論を随分と綺麗にまとめているなあと思ったということを私は思い出した。ちなみに上で二つ挙げた前者は第一回、後者は第六回(こっちはもしかしたら間違えているかもしれない)なので、私は二、三、四、七、八はすっぽり忘れているわけである。ただ、八回はなんとか思い出せそうな気がした。が、まあ結果的に思い出せていないから関係ない。
ちなみにもう一つだけ当時、第八回まで読んでいたときとは違うことがある。まあ、そんなことを言ったらたくさん違うことはあるのだが、福尾匠の新刊『ひとごと』を前回と明日のあいだでけっこう時間を取って読んだ。し、読んでいる。
さあ、確認はこれくらいにして読みに行こう。ここまでだらだらしていたのはけっこう長かったことを覚えているからである。「福尾匠の「言葉と物」という連載を読む」が。まあ、今日は駆け抜けるように読むことにする。必要最低限のサービスとともにお届けしようと思う。あなたに。そして未来の私に。
そういえば、この文章は「『ひとごと』を読むことへの助走も兼ねて」いたのだった。本を読む上で「助走」を明確にそれとして考えて行うのはけっこう変なことというか稀なことというか、そんな気がする。
「ただ翻弄されること、態勢を立て直さないことを意識して読もう。」と言っているが、元気だったのだろうか。読んでいたときは。いまの私はそんなこと思わなくても翻弄されるし態勢を立て直せない。おそらく。にこにこ。
「私への注意だが、今日しなくてはならないのは連載を読みきることではない。切ることではない。一つ一つの問いをなじませていくことである。自らに。」こういうふうに思う読書と思わない読書があるが、その違いはなんなのだろうか。わからない。
今日は「取捨選択」の「捨」をいつもよりも強度高く行おうと思う。
「読者がいないかのように書く」ことと「読者がいるかのように書く」こと、そのあいだに「いてもいなくてもいい」ような「読み手」は存在する。上では東と柄谷はおんなじところにいたが、ここでは両端にいる。
ここでは「他者の位置と書くことの構えが相関して」いると書かれているが、私はそもそも「書くことの構え」、福尾の別の言い方を借りれば「叙述のモード」、私はそれを選択できるほど成熟した書き手ではないのでそもそもここでの問題がちゃんとわかっていないのかもしれない。
ちょっと引用させてもらう。
結局のところ読者がいるかのように書くことといないかのように書くことの選択は等価である。というか、煎じ詰めればあらゆる文章においてそのふたつのモードは混在しているだろうし、厳密に区別することもできないだろう。その意味で読者は<いてもいなくてもいい>ものであり、それこそが読者を、そして散文を自由にするはずだ。したがって重要なのは読者がいなければ書けないという書き手にとっての事実と、読者にとっての<いてもいなくてもいい>という事実をきっぱりと切断することだ(これはとても卑近な話で、たとえば読者に向かって「あなた」がいなければ書けないのだと言い募る文章の暑苦しさを考えればいい)。だとすれば、この切断は柄谷-東の「他者論」の系譜にどのように跳ね返ってくるだろうか。
『群像』2023年7月号127頁
私がよくわかっていないのは「読者にとっての<いてもいなくてもいい>という事実」である。なにがわかっていないのか、そしてやぜ「よくわかっていない」と言ってわかりたくなっているのか、それが私にはよくわからない。しかし確実にわかりたくはなっている。ただ、よくわかっていない。「いなければならない」のカウンターとして「いてもいなくてもいい」はあるかもしれないが、「いなくてもいい」に対して「いてもいなくてもいい」はどういうふうに作用しうるのかがよくわからない。それは「読者がいなければ書けないという書き手にとっての事実」によってブロックされた問いなのだろうか。そうであるとして、完全にそうなのだとしたらこの問いに私はなぜ価値を感じているのだろうか。
私も、精確に言えば推敲時点の私も同じようなことを書いている。その書き方は「「読者にとっての<いてもいなくてもいい>という事実」と言われているとき私たちは「書き手」から「読者」へのスライドが求められているように思われる。もし求められていないのだとしたら「読者が<いてもいなくてもいい>という事実」になるのではないだろうか。」である。なぜ「読者は<いてもいなくてもいい>という事実」ではないのだろうか、とは思うが。だんだん星雲状になっていくのを感じる。なにかでぎゅっと星空になる予感もする。いい感じだ。
どうやら当時の私は「推敲」と「批評」を引きつけ、福尾が提示している「批評」における「一次性/二次性」という問題を「推敲」における「一次性/二次性」という問題という問題として考えてみることにしているらしいが、それはけっこう危ないと思う。というか、私はそもそもまだ全然「推敲」がなんなのかがよくわかっていない。だからわからないものをわからないもので理解したら危ない、と当たり前のことを言っている。私は。
ああ、自分でも気がついていた。ただ、「発表/未発表」は結構曖昧な区別だと思うけど。
やばいやばい。膨らみすぎちゃいそうだった。
ていうかまだ第一回読んでるところしか読めてないんだけど。まあ、明日の朝も暇だから読めるっちゃあ読めるけど。
この文章は推敲時の私と推敲される前の文章を執筆している私とが結構いい塩梅のコミュニケーションを取っているから安心して読んでられる。やっと第二回に行った。
私の補足癖というのは「これはあくまで二次的なものです。」と言っているみたいに見える。ただ、私はむしろそれが気持ちいいのであり、私のなかにたくさんの他人が集まっていることが喜びなのである。これもドゥルーズの「セルフ・エンジョイメント」という概念を千葉雅也が『動きすぎてはいけない』で紹介している箇所の半面同士を接着したような言い方である。ちなみに半面だけそれぞれ取り出せば「他者たちになるほどに、私たちはますます自己になる」と「喜ばしく自己になるほどに、私たちはますます他者たちになる」である(『動きすぎてはいけない』(河出文庫)75頁、どちらも原著者によって傍点で強調されている。)。さて、この引用癖は読み終わることをどんどん延期する(まあ別にそれでもいいけれど)ので今後はできるだけ控えよう。
「たまに遠くを見られる文章はいい文章である。退屈でもあるのだが、それは罪悪感も強迫感も感じさせない。ただ単によくわからないのである。そういう文章はいい文章である。厚かましくなくて。」これは一応福尾の文章を褒めるときの褒め方の一つかな、と思って書いたことだと思う。ただ、なんだかセンスが悪い気がする。少なくとも私は。
『ホワイトノイズ』の主人公がそうしたような、誰かのパフォーマンス=信仰に依存することでかろうじて自身の実生活の「実」性を保つ小狡い作法に、われわれの世界は満ちている。彼はドイツ移民の修道女の文字通りの意味での信仰を当てにしつつ、それによって自身の生活が地に足のついたものであるという安心を得ようとしたが、われわれはと言えば、何であれ何か気に入らないものを「カルト」とその「信者」だと眼差すことによって自身の非-超越性を確保する、遠近法的世俗主義とでも言えるような安心の形式を育てている。
『群像』2023年9月号466頁
引用しないぞ!と言って直後に引用しているのでギャクだと思われるかもしれないが私は真剣である。この箇所はたまに思い出す。引用したことがあるかはわからないがたまに思い出す。ちなみにこれは第三回。
「推敲」の私とはじめて明確に違うところがあったが、今回はスルーさせてもらおう。長くなりそうだから。「私は基本的に一次性を挿し込む感じだ。」と「推敲」の私は言っているが、そんなことを思ったことはない。矛盾。が、それとなる制度。
からだが勝手に動いている。それを感じる。その気持ちよさ。「思想史を辿る」だけではなく、もっと普通にダンス的なそれを最近よく感じる。
「推敲」の私は推敲されるほうの私を「福尾よりも真面目ではない」と言っている。ように見える。が、「真面目ではない」というよりも「真摯になれない」だけだと思う。し、推敲されるほうは別にそのことに関してなにも思っていないことはないだろうが罪悪感みたいなものを感じているようには私には見えない。
第四回は一文しか書いていない。空間と東浩紀のところ。これなあ、『ひとごと』の「ポシブル、パサブル」という結構中心的な論稿でもそういう箇所があって、そこで言われていることがよくわからなかったんだよなあ。ベルクソンの時間の空間化批判とか、デカルトの連続創造説とか、そういう感じの文脈なのかなあ、ととりあえず思っておく。ああ、これが「置き配」にはない「責任」のことを考えることに繋がるのか。特にベルクソンのほう。デカルトのほうに「責任」があるのかないのかよくわからない。
やっぱり第五回はいい「圧縮」ばかりである。
これは余談というか、関係ない話だが、最近、凝縮」にある人の本質が現れるとしても凝縮にはある程度のボリュームが必要だ、みたいなことは結構重要なんじゃないか、と思うことがあった。さっきの「星雲」の比喩とは関係があるかもしれない。ここには内田樹が(たぶん)『態度が悪くてすみません』のどこかで書いていた「星雲状のアイデア」みたいな話と茨木のり子が(これは確実)『詩のこころを読む』で書いていた「父と母、男と女、というのは仮の姿で、天地の精気が或る日或る時、凝縮して、自分というものが結晶化されているのだ」(15頁)という発想とが接続したあとが見える。
[『非美学』における福尾の印象的な表現「圧着」を使ってみてもよかったかもしれない。まあでも、ここでの「構造」と「エピステーメー」の関係は『非美学』で言うところのネガティブな関係だろうから「圧着」を使うと使いたかっただけにしかならない気もしてきた。し、実際そうだろう。]
[]は「推敲」のしるしである。私が最近愛用し始めた。「愛用し始めた」って変な言い方だが。これはめちゃくちゃ重要である。ただ、サービスしていると時間が足りないと思うので今回は見送らせてもらおう。すみません。ここでの「サービス」において「あなた」と「未来の私」は異なる位置に居る。明確に居る。この非対称性、そしてここまで複雑な非対称性こそが私にとっての「他者論」の次元である。おそらく。
AとBの関係を、しかもその関係の形態における力能の賦活を試みるにはまずAとBを分け、かつ、その識別を不可能性にまで持っていかなくてはならない。なるほど。そういう困難があるのか。福尾には。だんだんストレッチパワーが溜まってきた。眠たい。
そうか。賦活のために批評の話が必要なのか。なるほどねえ。サービス全然できてません。すみません。眠たいんです。それで今日は許してください。
「疎密の論理」、これがねえ、大事なんですよ。第六回に入りました。今日書き切りたいですね。明日は明日の助走があると思うので。
ああ、「疎密の論理」の流れで「日記」の話が来るのか。第六回で正解でした。リアリティがあったということはたくさん書いたということです。オーマイガー。
「私はよく自分が書いたものを読んで何かを書くのでそのことによって読まれたほうは一次的になっているのかもしれない。そういう感じで私は「一次性」と「二次性」を組み立てているのである。おそらく。」と「推敲」の私は言っているが、本当にそうだろうか。「おそらく」だからそんなに詰める気はないが、私は「一次性」と「二次性」の識別不可能性に苛まれ、しかし享楽しているのではないか。「組み立てている」はその実態にそぐわないし、「読まれたほうは一次的になっている」のだとしたら苛まれも享楽も嘘になりそうである。
私は「疎密の論理」に「高低の論理」と「遠近の論理」を並べていたが、ここで「長短の論理」が出てきている。そして「日記」が「疎密」を「長短」にスライドさせるというか、重ね合わさせるというか、そのことによって意味をなすものである感じで見出されている。
なるほど、福尾の「日記」論には「非意味的切断」という千葉的な実践の極限的な意味合いがあるのか。「日付が「非意味的切断」であるとしても、この薄暮[=「生活の概日リズムと日記の概日リズムのあいだに生まれる薄暮」(『群像』2024年1月号417頁)=「起きてから日記を書き終わるまでのあいだ」にある「奇妙な宙づりの時間」(『群像』2024年1月号416頁)引用者]においてはその切断自体が分割されている。」(『群像』2024年1月号417頁)(ここでの注釈における「引用者」は私ではなく「推敲」の私でもなく「推敲」される前の私である。)というところを読んでそう思った。
そのあとの「私はテーマという次元、よく引用される文章という次元、経験の心ない類比の次元にそれ[=「切断自体の分割」:引用者]があるように思われる。」(ここでの注釈における「引用者」は私である。)というのはおそらく間違っている。福尾はおそらく私が思うように「日記」について語っていない。ただ、たしかに「切断自体の分割」というのはよくわからない。私はここで言われているような「薄暮」をまだ心になっていないが心になりうるものとして考えた。お風呂で。心が読めるキャラクターはたくさんいる(例えば『SPY×FAMILY』のアーニャ)が、私はいつもああいうキャラを見ると「え、私の心のなかは質問されないと存在し始めないよ。されたら大抵は存在し始めるけど。」と思う。こんなテキパキ話せず「え、心のなかで喋ることなんてめちゃくちゃレアケースじゃない?」とか思っているけれど。この「心になっていないが心になりうるもの」が「心」に「なる」、それが「薄暮」において可能であり、それがさらに「分割」できると言っているのである。おそらく。福尾は。しかし、私はその「分割」がなにであるか、具体的にはイメージできない。ただ、私が想定しているよりもラディカルなことを言っていることはわかった。よかった。
私は「論理」として「快不快の論理」を用いているのかもしれない。「私はよく「気持ちいいからするのだ」みたいな論理を使う。というか、それを他の論理よりも強く取る。いや、むしろこの論理によって他の論理が理解できると思っている節がある。」と「推敲」の私が書いているように。ただ、他の論理、「疎密」「高低」「遠近」「長短」よりも人間的なので「この論理によって他の論理が理解できる」のだと思う。だから「節がある」のではなく実際にそうなのである。おそらく。
「なんというか、私の書くものの二次性は(それがあるとすれば)私の経験の一次性が作られたものであるという哲学、信念、システムによって可能になっている。だから書かれたものが一次的ではない二つの仕方(何かに対して書かれていることと経験も記述されなくてはならないということ)に分離されることとしてしか私の書くものの二次性は確保されないのである。まあ、確保されるとすれば、確保したいのだとすれば、だが。」ここはめちゃくちゃ重要である。が、眠たいのでどうにもできない。重要なのは「二次性」の複数性によって「一次性」の単一性が構築されるのではなくむしろ「一次性」の複数性によって「二次性」の単一性が構築されるというアクロバットがここにはある。「推敲」の私はよくわかっていないようである、というか、福尾を身に馴染ませようとしすぎているようである。
私の「通読癖」はいつ発動し、いつ発動しないのだろうか。
第八回まできた。眠たいので今日は寝る。明日は第八回の箇所から読んで、そこからするりと第九回に入っていこう。いい流れじゃないか。九鬼周造がなんかの随筆で「するり」と「スリル」が似ていると言っていた。ナイスポエム!
ちなみにこの文章を「推敲」しているとそれこそ時間が足りないのでそれはしません。では、明日は第八回でお会いしましょう。元気じゃなさすぎたらいいのですが。贅沢なお願いですが。
起きました。早起きでした。では読んでいきましょう。
哲学は時代の産物であるとヘーゲルが言っていたと思うが、私は時代、現代がよくわからないのだ。残念なことに。言うのが憚られるとかではない。ただ単によくわからないのだ。
結局のところいまや、理論などもつだけ損なのだ。
なぜなら、ポジションとアテンションが交差するところに生まれる「主張」や「説」とは別のものとして理論をもつことは、議論の相手や聴衆に自身の話をデコードする鍵を渡すようなものだからだ。
『群像』2024年6月号456頁
ここでの「主張」や「説」を私は勝手に作っていた。「ポジションとアテンションが交差する」という形で。すごいなあ。この考察。私はそのすごさに気がついて入るだろうけれどむしろ「理論」と「デコードする鍵」のほうを強く読んでいる気がする。
「お腹はすいたが、いや、腹はぎゅるぎゅるなっているが、このあとの予定はご飯の予定なので我慢しよう。いま、右上にイヤホンの充電が少ないことを示す図像と携帯の充電が少ないことを示す図像が同時に見えてニヤニヤしてしまった。私と同じじゃないか。このスケールがずれたら「充電」という概念はどう変わるのだろうか。」本論とはおそらく関係がない、あるにしてもそれは作り出したものであることが明白であると思うが、この感覚は結構いい感覚というか、鋭い感覚だと思う。単純すぎるアナロジーによって成り立つ概念としての「充電」が実は時間的なスケールという結構複雑なあなろじーも必要としているという気づき。
第八回を読んでいるときは私自身も書いているように疲れていた。が、この箇所は結構ちゃんと覚えている。クリティカルヒットしたのを。「理論に期待できることがあるとすれば、それはその構築を通して「ものを言う」ことの意味を変容させることだろう。つまり、逆説的な言い方になるが、理論に固有の実践性というものがあるはずなのだ。」(『群像』2024年6月号457頁)というところ。私はちゃんと「変容させ」たことはないと思うが、たびたび「理論」の「構築」を目指すことがあって、それはたぶん、もちろん色々な物事を包摂、そして処理したいという思いもあるとは思うが、それとは別に「理論」の「構築」による「変容」を目指したものでもあったと言えるような気がした、そしてそれが嬉しかったのである。おそらく。
「長いがコピーさせてもらおう。一旦。」
悠久も喫緊も、そこに寄りかかれば際限なく「言うべきこと」を調達できるのであり、その意味でこれもまた<密>の一形態である。悠久は大学の中に匿われ、喫緊はそこで蓄積されたものをその外へと「アウトリーチ」するための口実となる。
理論的な知はそのスイッチを可能にする回転扉としてしか機能していない。つまり、中を中たらしめ外を外たらしめるためにだけ引かれ、通り抜けられる線のようなものになってしまっている。しかしひとつの理論が構築される現場には、ひとりの人間がものを考えるときの具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはずであり、図書館に敷き詰められたアーカイブの具体性と差し迫った急務の具体性とは別に、理論に固有の具体性があるはずだ。
先に述べた理論の実践性はこの具体性の把握によってこそ開かれるだろう。ひとことで言えば、理論の場所の喪失とは、「考える」ということのサイズ感の喪失なのだ。「考える」はおのおのの生のかたちと結びついたとても具体的な営為であるはずなのに、それは一方であまりに大きな歴史や急務に、他方であまりに些細な釈義や作法に引き裂かれてしまっている。
『群像』2024年6月号458頁
これを実感できるほど私は「理論」に精通しているわけではないが、感じはわかる。なんとなく。しかも大事だとも思う。「日記」とも関わるし。「推敲」の私は結構近い距離感にあって、いまの私の距離からすると違和感だが、それはそれぞれであっていいし、それぞれであるのがいい。
いい感じのところが多い。例えば「ポジションの関係論的地獄」のところとか。ただ、ただ引用するだけにしよう。朝だし。だってまだ朝の八時半だよ?
ポジションの関係論的地獄、「言うべきこと」の過密状態から抜け出し、「考える」ことのサイズ感を取り戻すこと、それこそが理論の構築に期待されるべきものだろう。ドゥルーズ&ガタリは二項機械に絡め取られた「下位システムとしてのマイノリティ」とそこから脱する「創造的なマイノリテイ」を区別したが、この二元論自体がふたたび二項機械に落ち込まないためには、理論の創造性によって二項機械の診断とその内在的な書き換えを同時に遂行しなければならない。それこそが「真の批判の条件と真の創造の条件は同じものである」(ドゥルーズ)ということの意味だ。
2024年6月号459頁
第八回は長い引用が多い。考える力が弱まっていたからか、それともそういう必然性を持った文章だったのか、私には判別不可能である。
第九回からなにが論じられるか、なんとなくわかったが、それをここに書くとかえってあと三回をよく受容できない気がするので書かない。とりあえず起きるまで目を瞑っておこうかしら。
『ひとごと』とも、そして『非美学』とも、さらには『眼がスクリーンになるとき』にも、どんどん絡んでいく。それをなんとなく感じる。今日は「凝縮」ではなく「絡み合い」のバイブスである。
読み終わった。「福尾匠の「言葉と物」という連載を読む」という文章を。
最後に感じだけ書いておくとすれば、福尾の感じている四面楚歌感をなんとなく、この文章を書いていた当時の私よりは感じられるようになっている気がする。まあ、『ひとごと』を結構ちゃんと読んだ、し、読んでいるからであろう。今日はなにを持っていこうか。『ひとごと』でしょ、『非美学』でしょ、『意味がない無意味』でしょ、あとは『現実性の問題』かな。なんとなく福尾匠と入不二基義って近い感じがするんだよなあ。なにが近いかは全然分かってないんだけど。
途中でも言いましたがこの文章は推敲していないので間違っていると思ったところがあったらたぶん間違ってます。私が。まあ、最後に言うことじゃないかもしれませんが。ただ、最初に挿入するようなことでもないと思ったので、すみません。