男女の友情の形態と力能
夜ご飯を作り始めた。『イルカと否定神学』を読んだ。余裕があったから。同居人と夜ご飯を食べた。そのあと年末調整を始めた。慌ただしくなった。必要な書類がなかったのだ。年末調整に必要な書類を実家に取りに行った。もう考える時間はない。ゆる言語学ラジオを聴いた。移動中。これからの移動はのらじおを聴く。「友達の難しさについて」というエピソードを聴く。往復で二時間。寒い。バイク。防寒をレベルアップした。実家で。いまは自販機でぬくい飲み物を買って飲んでいた。では帰ろう。聴こう。
ギリギリエピソードが終わらないくらいで家に着いた。はやかった。思ったよりも。手が凍っている。信号がすべて赤になる瞬間のことを考えようとしていた。考えようとはしていた。
感想を書こう。
あと3分43秒はいつ聴くのだろうか。いつ聴けるのだろうか。
3分43秒で話が大回転しない限り、話の筋は「友情」について男女で異なることを「序列/ケア」という対比で捉えていこうというものである。
私は単純に思った。お風呂で訂正することになったが。私は女友達が多い。し、よく遊ぶのもご飯に行くのも女友達である。それはなぜなのだろうか、と。しかしお風呂で思った。それは単純にたまたま大学で女の人が多い部活に入ったからではないか、と。それに別に男友達とも遊ぶしご飯にも行く。たまたま割合で言えば女友達が多いがそれが環境を超えてなおそう言われるようなものであるかは甚だ疑問である。このようにこの筋は潰れた。少なくとも一旦は潰れた。
「男の人は女の人にケアしてもらうしかない」みたいな話が大まかに言えば話されていた、ところがあった。これに関しては心当たりがある。思いつくだけでも五つくらいある。弱ったとき、私は女の人にしか頼れなかったのだ。幸運にもそれらはすべてばらけたが、もしばらけていなかったら私は誰かに依存することになっただろうと思う。これはいま思ったことである。
「序列」の感覚についてはよくわからない。まあ、私は結構「アウトカースト」(これは「ケア」の次くらいにのらじおで使われていた概念である。回数として正確に、というよりも私にはそんな感じがした。「序列」と一緒に出てきたので必然的に「序列」もそれくらいになる。「男」や「女」はこの次に出てきた、わけではない。それは前提だから出てきたとか出てきていないとかそういうことではない。その態度自体については保留しておきたい。とりあえず。)なのである。無職だったしフリーターだし、年収も低いし就労意欲も低い。すごいものを作ってやるぞと意気込んでないし、表現力を高くしてやるぞとつねに思っているわけではない。そう、私はたまに表現力を高くしてやるぞ、と思っているだけの人間なのである。そう思っていないときはかろうじて表現と呼べるようなことをしている。あ、六人目を思い出した。特定されない程度に具体的に言えば、私の寂しさに応えないことで応えてくれたS、私に言いにくい励ましを言ってくれたN、私の作品に的確な批評を与えてくれたS、私に勇気と赦しを与えてくれたY、私に哲学することの楽しさとどうでもよさを教えてくれたT、そして私の作品を受容してくれるK。アルファベットが同じでも違う人物、六人、もっと考えればもっと居ると思うが、彼女たちの「ケア」のおかけで私は「アウトカースト」でもなんとか生きている。ある程度「序列」的でありながら。やる気を出して。
「序列」とやる気の関係について考えるのは面白そう。ただ部屋が温すぎて眠たい。
明日年末調整のことで元の職場に電話しなくてはならない。Yが出たらどうしよう。「○○さん(私のこと)は○○さんの生きたいように生きてくれたらいいなと思います」と言ってくれたY。まあ、なんとかなるでしょ。
「ケア」に気がつけた、これはよかったことだ。このエピソードを聴いて。
ああ、それで思い出した。私はお風呂で思っていた。大学院に居た頃に女の人が「ケア」について考えていた。そして「ケア」のパラドックスのようなものを発表していた。「ケア」がそれであると気がついてしまうと「ケア」は成り立たない、的なこと。そしてそのパラドックスをなんとかかんとか解決してみようとしている、みたいなこと。私はパラドックスは解決できないと言って、その人、Sさん(三人目だがみんな違う人)は解決したいと言って、私たちはずっと言い合った。別に喧嘩ではない。意見の相違ですらない。ただ単にずっと言い合った。ゼミが終わってから、その日が終わってから、その週が終わってから、結構ずっと。私はずっと「ケア」は所詮包摂なのだみたいなことを言っていた。本気でそう思っていたというよりはパラドックスをそれとして考えるならそう考えるしかない、みたいに思っていたのだと思う。そういう記憶がある。そして、Sさんのモチベーションみたいなものがよくわからないと思っていた。そういう記憶がある。しかし熱心で、さらにはまっすぐだったのでたくさん話した。寒い時期だったと思う。自販機が並んでいるところの前で私たちはずっと話していた。後輩とたまに会って、また会って、後輩は不思議そうな顔をしていた。そのあとに会ったとき後輩は「喧嘩してるんかと思いました。近づいたら楽しそうな感じだったので安心しました。」と言っていた。私はSさんのモチベーションが少しだけわかったような気がする。
私は「ケア」したいともされたいとも思っていない。いつも。けれど、「ケア」の周りをぐるぐるまわっているとき、私は一人だけ「ケア」したいと思う人を見つけた。Aさんである。理由はよくわからない。ただ単にしたいと思っていることに気がついたのである。
最近T(上で言ったTと同じ)が「○○さんのおかげで自分に自信が持てました」みたいなことを言っていた。「ケア」にはこういう幸運なすれ違い性があるのかもしれない。私は「ケア」しているつもりなどなかったのだ。
ああ、そういえば、私はそのTに言った。「飲み会は人間的になれていいね。」みたいなことを。ここでの「人間的になれる」というのは「ケア」的になれるということなのかもしれない。「アウトカースト」的なのである。特にお酒が弱い人がいると。例えばN(上で言ったNと同じ)とか。Tは言った。「それは○○さん(私のこと)がお酒が強いからですよ。」と。私は「そういうことじゃない。」みたいなことを言ったのだが、物事の一面の真理は捉え得ていたのだ。そのTとお酒を飲む、予定が立ちそうである。
極めて「序列」的なA(上のAとは違う)についても考えた。ただ、Aは世間的な序列、例えば偏差値が高い、年収が高い、とかではなく、踊りが上手い、というところで「序列」的である。極めて。彼のなかには踊りにおいて「序列」があるらしく、それを考えることが楽しいことですらある、みたいな言い方でそんなことを言っていた。そのようなことについてT(上で言ったのと同じT)と話したことがある。踊ることは目に見えて「上手い/下手」の線が引かれうる次元とそうではない次元がある。しかもその二つの次元は比較的容易に見分けられる、みたいな話をしたことがある。まあでも、結構細かくランキングしていると言っていたからその次元のほかにもなにか次元的な切開があるのかもしれない。
同居人、アルファベットで言えばS(と言っても複数人いたと思うが)に寝ようと言われたので寝る。明日は電話以外はなにしよう。仕事があるけど昼からだし。『イルカと否定神学』の続き読む?
推敲後記
「アウトカースト」が「カースト」の外という意味と「カースト」の内と外の外という意味を持っているように感じた。のらじおの「アウトカースト」はおそらく前者なので拡張的に用いていたわけである。私は。「アウトカースト」を。私にしかわからない文章だと思うがなんだかよくわからない感慨を私は得た。他人がどうかは知らない。実験である。