逡巡と不能
今日は次のコメントについて立ち止まって考えてみたい。私は本を読むとき大抵メモをしながら読むのだが、そのメモにたまにコメントをつけることがある。その目的はいろいろあるのだが、その一つにあとで詳しく考えるときに手がかりにするためという目的がある。今回はその目的に達してみたいと思う。ちなみにメモするときは書名を書いていないが今回は引用なので書くことにする。
☆が私のコメントである。
整理し直してみると、鷲田(鷲田清一)も河合(河合隼雄)も「性事学の哲学」は難しいと考えている。(ここでの「性事学」というのは「性そのものの話」ではなく「秘め事・色事」も含んだ、「生理学の問題」ではない「性」の問題の展開を示唆する概念である(『臨床とことば』(朝日文庫)157-161頁)。)しかし、その「難しい」がすれ違っているというのが☆の論旨である。鷲田の「難しい」は「哲学は全部自分のことを書く」という理由からそうであると言われている。それに対して河合の「難しい」は「あまりにも個別的で、概念化ができない」と「哲学になりにくい」という理由からそうであると言われている。この二つがずれているように私には感じられたのである。
整理していて整理されてきた。河合は「個別的で、概念化ができない」場合は「哲学になりにくい」と言っているが、これは言い換えれば「普遍的で、概念化ができる」場合は「哲学になりやすい」ということであろう。しかし、ここで注意しなくてはならないのは「なる/ならない」ではなく「なりやすい/なりにくい」と言われていることである。この逡巡が私にすれ違いを見ることを躊躇わせているのである。
「躊躇わせている」ついでに言うと、「哲学は全部自分のことを書く」にも逡巡とは違う揺らぎが見える。というのも、「自分のことを書く」というのは「他人のことを書く」と対比されると思うのだが、その「自分」と「他人」とやらがどう対比されるのかが私にはよくわからないのである。それゆえ、私はこの「哲学は全部自分のことを書く」を少なくとも「哲学」になるためにはこのよくわからなさをわかってもらうしかないということであると読んでしまう。これはおそらく正当な読みではないのだが、私はそうとしか読めないのである。鷲田がそういう言い方をしているとかではなく、私はそうとしか読めないのである。不能。この不能が私にすれ違いを見ることを躊躇わせているのである。
河合の逡巡と鷲田を読む私の不能。この二つに共通するのは「自分」と「他人」とやらがどう対比されるのかがわからないところから始まっているということである。そこで響きあって、そこが響きあってやっと、この文章はかろうじて読めるのである。そしておそらく、いま気がついたのだが、鷲田と河合で最も大きく違うのは「書く」ことを「哲学」にとって本質的なこととみなしているか否かということであると思われる。鷲田はそうみなしていて、河合はおそらくそうはみなしていない。もちろんこの違いはここに現れているというよりもむしろこのあたりでともに議論されている「哲学」と「心理学」の関係に現れていると思うが、それを整理する力はないので今回は置いておこう。この違いは両者とも「性事学の哲学」は難しいと考えながら、さらにその「難しい」が「書く」ことによって「普遍的で、概念化ができる」ものを作り出すこと、すなわち(ここでの)「哲学」に由来すると考えているのだが、その強調点が「書く」にあるか「普遍的で、概念化ができる」ものを作り出すにあるか、に違いがあると言い換えることができるだろう。
私の違和感、そしてすれ違い感というのは、「書く」が普遍化であり概念化であるとして、その「普遍化」と「概念化」の関係、そして「書く」と「普遍化」と「概念化」の関係はどういうふうになっているのかがよくわからないということに由来すると思われる。「書く」ことが即「普遍化」であり同時に「概念化」であり、そして「普遍化」と「概念化」はわざわざ分けるまでもないことであるとするならば、私のすれ違い感も、そしてそれについて考えることによって生じてきた違和感もない。しかし、おそらく私はわざわざ分ける必要があると思っているし、おそらく私は「書く」ことが即「普遍化」であり同時に「概念化」であるとは思っていない。
ちなみに私はまだこの本を途中までしか読んでいないので後からこの違和感にはある種の答えが提示されると思う。それに納得するか、できるかはわからないが。これもちなみにだが、もう少しで「個より普遍に至る道」(『臨床とことば』(朝日文庫)174-184頁)というタイトルがつけられているところを読むのだが、おそらくここが私の考えていることに近いことは容易に直観される。まあ、だからこれを書いたわけではないのだが。
ちなみに(「ちなみに」ばっかり言って申し訳ないが)この違いについての議論はこの本のなかで何回もなされていて、私の好みで言うなら「事例研究と文学の違い」(『臨床とことば』(朝日文庫)77-88頁)というタイトルがつけられているところの議論が面白かった。ただ、そこでも話の重点はむしろ「聴く」ことにあって、「書く」ことや「話す」ことは「聴く」ことの一つの(鍛錬)手法として考えられていたように思われる。そういうふうに考えることは楽しいし有意義だと思うのだが、私はやはりここが気になった(一冊の本のなかでこのように考えてみたくなるところは案外少ない。)のでそういうルートで考えてみたい。不親切な仕方ではあるが、一緒に考えてみたい人のために本質的なところだと思ったところを引用しておこう。
ちなみに「自由」の議論は切っても(=中略しても)良かったのですが、鷲田と河合の対談という形式を崩したくなかったのとスピノザの「自由」の議論を思い出してそのかなり特殊な書き方(『エチカ』しか知りませんが。)がここまでの議論とここからの議論に関係ありそうだと思ったので残しておきました。
後記
これを書いた次の日に「個より普遍に至る道」を読みました。が、正直よくわからなかった。問題自体はわかったのだけれど。ここでこだわっていたこともある程度は感じられたのだが。ここから書くとまた本文以上に書かなくてはならなくなりそうなので今日は我慢しよう。ちなみにこの「後記」はこの文章を書いたおそらく三日後くらいに書いている。ちなみに。