正木ゆう子から鑑賞を学ぶ3

この文章は「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」シリーズの第3回である。このシリーズはタイトルの通り、正木ゆう子という詩人から鑑賞のあれこれを学ぼうというシリーズである。具体的には、『現代秀句 新・増補版』の正木ゆう子の鑑賞から何か学べるものを学んでいこうというシリーズである。基本的にはある句の引用、私の簡潔な感想、正木の鑑賞、私の感想の変容、みたいなリズムで進んでいく。予定である。では、見ていこう。

少年や六十年後の春の如し

永田耕衣

私はこれを公園のベンチに座って少年を幻視したものであると思った。あと、「春」であることにはおそらく必然性はあるが、そのベンチに座っている季節自体は別に「春」である必要はないと思った。まあたしかに、幻視だとすれば、幻視に比喩を重ねているということになるのでふわふわしすぎだという人もいるかもしれない。ただ、事実というのは「比喩を重ねている」が生じていて、「比喩」ではないほうである、というふうにも考えられると思うので私は特に問題ないと思っている。では、正木の鑑賞を見ていこう!と思ったのだが「お風呂がわきました」と言われたのでお風呂に入ってくる。ちなみに私はすでに正木の鑑賞を読んでこれを書いている。もう一度読み直すのだ。誰か、そう、あなたと一緒に。

湯船で、浮かんでは消え、浮かんでは消え、「浮かんでは消え」たことすら浮かんでは消え、浮かんでは消えていると思い、そんなふうに上がってきた。ただ一つ確かに覚えているのは佐々木信綱の次の短歌である。

ちさき椅子にちひさき身体よせゐたりし部屋をふとあけておこる錯覚

こういう「錯覚」性を私は永田の俳句に感じ取った。おそらく。それ以上のことは考えられなかった。もしくは忘れた。もしくは忘れたことすら………

さて、正木の鑑賞を引用しよう。今回は「作品記述」が二段落、この句の面白さに関する記述が一段落、永田の俳句全体に関する考察が一段落ある。まずは最初の二段落を引用しよう。

少年がいる。そこを通りかかる作者がいる。春である。六十年前は作者も少年であった。六十年後、自分はすでにこの世から去り、少年は今の自分くらいの年齢になっていることだろう。この少年は、その六十年後の春のようだ。
つまり少年が真に春というものを具現するのは、老人になったときであり、作者は今その境地にいるのである。意味だけを汲めばそういう鑑賞になるだろう。

8頁

私と正木の違いは三つある。①正木は「少年」が実際に存在していると思っている。②正木は永田がこの句を詠んだのが実際に「春である」と思っている。③正木は「少年」と「春」の関係を「春」が「少年」に「具現する」というふうに言い表せるような関係にあると思っている。

正直、私は全部違うと思う。ただ、ここではどう違うかを言い表すのは難しいので少し進もう。ちなみに別に最終到達地点が見えているわけではない。まったく。

この句の面白さは、一句が、今と、六十年後とのふたつの時空を同時に含んでいるように感じられるところにある。これは「少年や」の切字「や」の働きのせいである。「少年は」ならば単なる散文であって、このような文脈のねじれは起こらない。論理を切断する「や」のために、「少年」が今と六十年後の両方に掛かり、一句がふたつの時空を取り込むのだ。

8頁

この句の面白さを「一句が、今と、六十年後とのふたつの時空を同時に含んでいるように感じられるところ」に見ることも、それが「少年や」の「少年は」とは異なる「文脈のねじれ」を生み出していることも、それゆえに「少年」が「今と六十年後の両方に掛かり、一句がふたつの時空を取り込む」ということも同意できる。し、学びにもなる。しかし、「作品記述」は違うと思う。もう少し進もう。

そもそも時間が一直線に流れるという近代的な時間の認識がそれほど確かなものだろうか。メビウスの輪がねじれながら最初の地点に戻るように、時もまた干支をひとめぐりして回帰することがあっても少しもおかしくはない。大地に命の甦る春が繰り返しめぐってくるように、われわれも循環する時の中で、命の生起を繰り返す。耕衣にはそのような時間の認識があったのにちがいない。

8頁

私は耕衣のものを正木より読んでいないし、普通の俳句に興味がある人よりも読んでいないだろう。だからここで言われている「時間の認識」があったかどうか、それはわからない。さらに言えば、「そもそも時間が一直線に流れるという近代的な時間の認識がそれほど確かなものだろうか。メビウスの輪がねじれながら最初の地点に戻るように、時もまた干支をひとめぐりして回帰することがあっても少しもおかしくはない。大地に命の甦る春が繰り返しめぐってくるように、われわれも循環する時の中で、命の生起を繰り返す。」というところもニーチェの永劫回帰、ハイデガーやドゥルーズの永劫回帰に関係するような議論からなんとなくわかる。ただしかし、それで読みきれる感じがしない。この句は。

「少年」が「老人」になる。「少年」が「春」のようになる。「春」も「今」と「六十年後」という「ふたつの時空」を「取り込む」。それはたしかに「少年」が「ふたつの時空」を「取り込む」ことによる、いわば副作用のようなものかもしれない。しかし、ただ単に「少年」が「ふたつの時空」を「取り込む」ことにはこの句のすり抜ける、しかしそれゆえに何度も掬いたくなる、そんな欲望の形が実感できない。この欲望の形を実感するために私はわざわざ「少年」を「幻視」していると思っている。さらに言えば詠まれたのが実際の「春である」必要がないと思っている。もっと言えば「春」の「具現」として「少年」が居るのではないと思っている。

私は正木から逃げたいとか正木に抗いたいとかそういうことはまったくない。少なくとも自己認識ではそう思っている。私は私の感想を正木の鑑賞によって修正する必要を感じなかった。学ぶべきところはまだ活かせないとしてもすべて学んだ。ここで学ぶべきことは。しかし、「作品記述」のレベルですれ違っているのである。私と正木は。

この「作品記述」というのがなんなのか、それをちゃんと書きたい気持ちはあるが、私はいま「断哲」中なので感じだけ。批評のスタートは「作品」を「記述」すること、「これはこういう作品です。」と「記述」することである。その批評の始まりですでにすれ違うことがあり、そここそがこれからの批評の問題なのです。みたいなことを『眼がスクリーンになるとき』の文庫版解説として収録された座談会で福尾匠、山本浩貴、黒嵜想が話していた。その感じがなんとなくわかった。

「少年」と「老人」、具体的な名前をつけよう。「老人」は永田のNにしよう。「少年」は特に何もないのでAにしよう。ここでの「ふたつの時空」を「取り込む」はNが「少年」と「老人」という関係における「少年」と「老人」を移動する、素早く移動することによって可能になっている。Nが「あなたは『少年』ですか?」と問われると「いいえ。それだけではありません。」と言い、「あなたは『老人』ですか?」と問われると「いいえ。それだけではありません。」と言い、そのことによって素早さがここにある。そしてそれが言い訳みたいにならないのは「六十年後」と「春」という「変わる」と「変わらない」がすでに担保された時間があるからである。この狡猾さこそが「少年や」の切れをより鋭くしているのではないだろうか。そしてAは何も知らないのである。このことがescalationされる解釈は「少年」がそもそも「幻視」であることであるのかもしれない。その場合「春」も揺らしてしまうと揺れすぎたからわからなかったのかもしれない。ただ、「春」が「冬」や「夏」や「秋」では「幻視」性がなくなるから「春」になったのかもしれない。読みすぎ?ただ、私はこっちの方が納得できる。

まあ、これだと「如き」があんまり汲めていない感じがする。うーん………

いい句である。なんというか、素敵な句とか、優れた句とか、そういう「いい」というよりも秀でた句、そんな句であると思った。

ちなみに「断哲」というのは以下で宣言していることです。


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