詩を読むことの快楽

詩を読むことの快楽について考えてみよう。

詩を読むことは快楽である。気持ちがいいことである。その気持ちよさとはなんなのか、多少野暮かもしれないが考えてみよう。私にとっては考えることも快楽なのである。

詩を読むことの快楽を一言で言うとすれば、反復できる唯一性の感覚がある、ことだと思う。ここでの「唯一性」というのは(たくさんある可能性のなかで)現実が重くなることである。そして、「反復できる」というのはその詩を読みさえすれば、その「現実が重くなる」感覚が浮かび上がってくるということである。そして、詩を読むことの快楽の末に「これは凄い詩だ!」となるのは「たくさんある可能性のなかで」ということを極めて微かに誘惑する詩である。

さて、答えはもう出てしまった。私の答えはこれで極まっている。あとはもう少し細かく、もう少しわかりやすく、そうするだけだ。

ここでいきなりだが、哲学の快楽、少なくともその一つを提示しよう。それは入不二基義や永井均に顕著なのだが、現実性の捉え難さを捉える、そのグリップ感、手触りである。それはあからさまに、だからこそ神秘的に、そうでしかない現実性のあり方を教えてくれるものである。その意味で詩の密やかさはないが、囁きではないが、それだからこそ詩と密接につながっているような、そんな気がする。

では、「詩の密やかさ」とはなんなのだろうか。「極めて微かに誘惑する」とはどういうことなのだろうか。それはその詩がどのような解釈を許すかということに関わると私は思う。私が好きな詩はむやみやたらに解釈を呼び込むことはしない。しかし、それぞれの人をよりそれぞれの人にし、その人のなかで一つの比喩を密やかに営ませるのである。それぞれの体のなかで栄養を得て、生活に粘り気を、リズムを与え、そして「唯一性」の共鳴というあり得ない事態をいとも簡単に達成するのである。

この私とこの詩、二つの「唯一性」は共鳴する。それぞれ「たくさんある可能性」をバックグラウンドノイズにしつつ。いやむしろ、「唯一性」の共鳴によってやっと、やっとバックグラウンドノイズは聞こえてくるのである。

可能性はむやみやたらである。だから「唯一性」もむやみやたらである。ただ、それだと詩も哲学も満足できないのである。哲学は見透しちゃうけれど、詩はそんなことはしない。濁っているところを、人生の語りしろを守るのである。確保するのである。哲学と詩は闘いつつ、しかしやはり仲間なのである。「これについては闘わねばならない!」と真面目になるところが、同じなのである。

さて、なんの話をしていたか忘れてしまった。が、詩を読むときのあの感覚を少しでも、掴み損ねていたら嬉しい。掴み損ねている感じはめちゃくちゃある。もうちょっと生きよう。

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