どうして読みたい本は増えていくのだろうか

どうして読みたい本は増えていくのだろうか。

面白い本が日夜出ているように感じる。私が生きているのがたまたま、私が「面白い」と思いそうな本ばかりが出版される、そんな奇跡の時期なのだろうか。もちろんそうかもしれないが、今回はもう少しだけリアリスティックにこの疑問について考えてみたい。

最近、ブクログというアプリの「読みたい本」が千冊を超えた。現時点で「読みたい本」は1137冊である。ブクログというアプリは簡単に言えば本を登録するアプリであり、「読みたい本」の他には「いま読んでいる」「読み終わった」「積読」というフォルダがある。そして、一つの本を複数のフォルダに入れることはできないから、「読みたい本」というのは必然的に「読みたい」かつ「読んだことがない」かつ「持っていない」本ということになるだろう。なぜなら、「読みたくない」ならそもそも登録されないだろうし、「読んだことがある」なら「いま読んでいる」か「読み終わった」に入るだろうし、「持っている」なら「積読」に入るだろうからである。読みたいし、読んだことがないし、持っていない、そんな本が1137冊もあるのである。これも読みたい本が増えてきた結果である。

もちろん、最近私はやたらとたくさんの本を「読みたい本」に登録している。なんというか、少しでも読みたいと思ったら登録する習慣を身につけてしまったから、数字は当てにならないと言えばそうである。しかし、少なく見積もってもまともな本なら三冊くらいは新しく「読みたい本」に登録するような本が出てくる。出てこない場合もそれまでに読んだ本をもう一度読みたくなるからブクログ的な「読みたい本」ではないが、読みたい本は増えていく。

そうか。一つ区別ができた。ブクログ的な意味での「読みたい本」とそのような本ではないが読みたい本という区別である。ブクログ的な意味での「読みたい本」ではない読みたい本が増えていくのは本が汲めど尽きせぬ泉だからである。ではなぜ「汲めど尽きせぬ泉」なのか。簡単に言えば、自分が変わるからである。というか、本は(相当特殊な想定をしない限り)変わらないのだから自分が変わったことにするしかない。もちろんその変化には成長的なものとそうではないものとがあり、私は後者を強く取りがちである。これも「本が汲めど尽きせぬ泉だ」ということを呼び込んでいるのかもしれない。成長ではない変化というのは例えば気分的なものの変化である。その時々の気分で読み方が変わる。もしくはもっと即物的というか、メカニックに言えば、その時々に読んでいる本、その時々になぜか覚えている文章、その時々によく引用している思考、レトリック、そんなものが集まって気分ができると言おうと思えば言えるだろうから、仮に十冊しか読んでいなくても最後に読まれる本を読む気分は9の階乗通りあり、それぞれの読まれ方があり得るのである。そして、私たちは本を読むだけでなく、人と関わったり、自然と呼吸したり、悲しくなったり、虚しくなったり、どうにかなっちゃったり、つまんなかったり、する。それも加えるともう、私たちの読み方はぶれにぶれて、もはやぶれているのかすらわからなくなる。

こういう意味で読みたい本が増えていくというのはまだわかる。別の気分、即物的にしろ、経験的にしろ、形而上学的にしろ、なんにせよ別の気分では読み味も異なってくるのだから、同じ本を何周もしたくなる。それはわかる。しかし、ブクログ的な意味での「読みたい本」が増えていくのはなぜなのだろうか。

問いがさらに面白くなってきた。このスピットを続けるためにさらに限定していこう。ある分野について、ある程度習熟するまで「読みたい本」が増えていくというのは理解できることである。なぜなら、ある程度習熟するまでは予測すら立てられなかったり、立てられたとしても曖昧であったりするからである。しかし、その段階を超えてもなお、私たちは「読みたい本」を増やしていく。それはなぜなのだろうか。

二つ理由が考えられるのではないだろうか。一つは総覧への欲望というか、見落としの不安というか、そういう理由。もう一つは、私たちは一つのことにしか興味がないわけではない、という理由。前者は博覧強記への憧れでもあり、それに憧れているが故の恐れでもある、そんなものが「読みたい本」を増やしていくということである。後者はもっとだらしなく、一つのことだけを勉強することができないから「読みたい本」が増えていくということである。

いいところだが、今日はおしまいにしよう。突然だが。眠たくなってきてしまった。「寝よう!」と言われた。もう24時だ。明日推敲しよう。久しぶりに加筆修正パターンも作ってみたい。幸い明日はそれができそうだ。では。

これはただの推敲パターン。

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