ほぼただのメモ

柳田國男未採択昔話聚稿という本がありまして、未採択とありますように集められたけれど発表はされなかった昔話民話の資料が傷みが激しくなってきたことなどがあって本としてまとめられて出されたものなんです。未採択となったわけは、まあ、大体は穏当な理由、既に類話が多くあったとかページの都合などようですが、中には創作や潤色のものもあったようです。

その中に雑誌『旅と伝説』昭和9年(1934年)12月号は昔話の特集を組んだようでその前後に報告された桃太郎に似た筋立ての『ボボ太郎の話』というのがあるんです。ボボとは女性器の方言です。人間大抵ボボから生まれるのでわざわざそんな名前つけるとは思えないのですが、もしかしたら桃太郎のモモはボボの訛言であるとの主張があったのかもしれませんが、今となっては知るよしもありません。

報告者は星川周太郎とあります。未採択昔話聚稿の注釈には、

この人の資料は扱うに難しい(中略)実際には彼自身の手がかなり入っているのではないかと思われる。それだけでなく、全体的に読者の興味を惹くような筆の運び方が気になる。「星川周太郎」は本名なのか、それとも筆名なのか一寸不安である。

と書かれ、柳田國男の文を引いている。

ちつとも採集でない新作品で、しかも共産主義の教育を念じた民話もまじつていた。

星川周太郎をGoogle、CiNii、日本の古本屋、スーパー源氏、国会図書館デジタルコレクションで検索したものを年代順に並べてみると、

1926年11月 文藝 : 純粹文藝雜誌(雑誌)『一茶雜感』
1928年5月 戦旗(雑誌)『メーデーを迎ふ 最初の犧牲者』
1928年7月 戦旗(雑誌)『勤人』
1928年12月 文芸戦線(雑誌)『日本無産者藝術聯盟を何故脫退したか 』
1929年7月 戦旗(雑誌)『レポーター 休日二日の獲得』
1929年8月 戦旗(雑誌)『レポーター 借家人同盟鬪爭記』
1931年6月 文學時代六月号(雑誌)『山の味噌汁』
1940年5月 臨床内科(雑誌)『病む者(随筆)』
1940年 青春山脈『勤王風土記(時代小説)』
1942年8月 兵隊と愛情(土岐愛作編)に名前があるが作品名などは不明
1942年 『切腹三万両』
1942年 青春讃歌 : 大衆文芸傑作集『天然痘物語(史實小説)』
1942年 いのちの栄冠 : 文芸一粒会作品『愛の鞭』
1942年 『幕末青春譜』
1942年 『大東亜の黎明』
1942年 現代作家傑作文庫 暁の町他5編に名前があるが作品名などは不明
1943年 『蒲生君平 : 少年歴史小説』
1943年4月 『洛外一乘寺村』
1944年 『頼三樹三郎』
1944年11月 大衆文芸(雑誌)『創作 鬼』
1945年11月 大衆文芸(雑誌)『創作 御符證文』
1947年 『御赦免船』
1947年 『蘭平捕物秘帖』
1949年 『読切の講談 第一集 捕物特選号』に名前があるが作品名などは不明

以上のものが出てきます。ちなみに『大東亜の黎明』には翼賛小説とついているものもあったりします。

こちらのサイトには。
https://prizesworld.com/prizes/name/星川周太郎

1939年4月 サンデー毎日大衆文芸 『天然痘物語』佳作
1940年10月 サンデー毎日大衆文芸『韓非子翼毳』入選

ついで、
『図書館蔵書から読書の歴史を探る』

日本占領期インドネシアの図書館に残っている日本の書籍のリストのうちに山岡荘八などと並んで『大東亜の黎明』が入ってます。

これらの星川周太郎とボボ太郎の報告者が同一人物か確証はありません。とりあえず同一人物として話を進めます。
このリストを見ると共産主義から国家主義への(ある意味典型的な)転向者と感じますが、そんな大層な主義主張があったのか、その時々にその場その場に受けそうな文章を書く文章家だったようにも見えます。
それとどういうわけかボボ太郎の前後数年の1930年代に出版された本が見つかりませんでした。

さて、ここからボボ太郎前後の空白の期間について、また、星川周太郎という人物について調べたものを期待されるかもしれませんが、ボボ太郎にためにそんな時間も金も使う酔狂は全く湧いてこないので、とりあえず、Googleの書籍検索で星川周太郎を検索したところ行き当たった長谷川伸著『生きている小説』Kindle版199円を清水の舞台から飛び降りる気分で買いました。

 二月十二日(昭和二十年)の朝、岡本綺堂系の戯作者で星川周太郎ほしかわしゅうたろうという神田の住人が、自宅に近い往来で、天から二本のびんが降ってくるのに出会った。一本は往来の舗装コンクリートに当ってくだけ、一本は煉炭の灰の中にもぐったので、これを掘り出したところ、欠けもせずヒビもはいっていない。レッテルを見るとアメリカの飲料であるから、B29の奴らが機上から飲みガラを投げ棄てたにちがいない——この日は、午前九時ごろ警戒警報が出て、三十分ぐらいで解除になっている——星川が私のところへ来て、今いった話をしたので、私いわく、「それならまだ二十七本どこかに降っている」
 星川おどろいて「そうですか」私いわく、「だってそういうじゃないの、ビン(B)29ってね」この星川は空襲とよく闘ったが、遂に死んだ。——

ボボ太郎の報告者星川周太郎は神田の住所を記していましたので、ほぼ、同一人物でしょう。そして、死んだと記す前に駄洒落話を書かなくてはおれないような人物だったようです。

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