人類がほろびるときにあおうね
山田くんが家を出る。きょう。一週間前にふたりでそう決めてから、わたしたちはうんざりするくらい手際良くことを済ませた。さまざまなひとびとが──わたしの姉や山田くんのともだち、あとは学生時代にバイトしていたカレー屋の店長とそのだんなさんなんかが──代わるがわる訪れてきては、山田くんの家具や服やマグカップをひとつ残らず運び出していった。みんな口数がすくなくて、でもすごくてきぱきしていた。しずかな嵐みたいだ、と、わたしは思ったまま言わなかった。
「葉月」
玄関口の方から山田くんがわたしを呼んだ。くぐもった声。マフラーを鼻まで巻いているからだと、見なくてもわかる。
「ごめん、シャンプーとか捨てといてくれるかな。なくなるまで使っていいから」
男ものの、ひどく髪がきしきしになる山田くんのシャンプー。おそらく使わないだろうなとぼんやり考えながら、ドア越しに、ん、とあいまいに答えた。そのことを山田くんもわかっていながら言ったのだ、とわかっていた。
扉が開く音は聞こえなかった。でも、閉まる音と、アパートの階段を降りる音が聞こえた。山田くんは親元に帰るのだという。山田くんの実家は埼玉にある。いちど、電車を乗り継いであいさつに行ったことがあった。
ソファに深く腰掛けながら、しん、と静まった部屋を見渡した。
山田くんのものが置いてあった箇所が、穴あきになって部屋中を埋め尽くしている。たとえば本棚。たとえば窓際。たとえばウォールシェルフ。なにが置いてあったのだったか、そのすべてをわたしは、もう精確には思い出せない。ただいくつもの空白が、電話越しの沈黙とか、目の前で開かれた携帯のしらじらしさとか、そういうものを凝縮したかたまりみたいに残っていた。そこにあったものより、ずっとたしかな質感で。
手にしたままだったマグカップの紅茶を口に含む。それから壁時計で時間を確認する。あと三十分で家を出なくちゃいけない。きょうは年内最後のバイトの出勤日だった。
小走りで紅茶をシンクに捨てて洗面台へ向かうとき、ちいさくポケットのiPhoneが震えた。東京に大雪注意報。電車が止まったらやだな、と思った。
この喫茶店で、わたしが副業でバイトを始めてからもう二年くらい経つ。
喫茶店といっても珈琲はブレンドしかないのにお酒のメニューはたくさんあって、だからほとんどのばあい昼より夜の方がずっと忙しい。フリーランスのイラストレーターをしていて時間の融通がきくわたしは、しかし夜にばかりシフトを入れている。だって、お酒を飲むひとたちが発散する気配はうるさくてくだらなくて、猥雑でかわいい。それに、ごきげんな常連さんがお酒をおごってくれるのもうれしかった。
でもきょうは客入りがぜんぜんなくって、カップルと、絵を描いている大学生くらいの男の子、それに奥の席でいまにも寝そうなおじいさんしかいない。店長の彌子さんなんか、空いている席に座ってもうお酒をのんでいる。
「つぎ、草太くん戻ってきたら休憩行っていいよ」
ひまで、カウンター越しにお皿を洗っている翠ちゃんに話しかける。えーいいですよ、と翠ちゃんは笑って、それからぐっと身体をこちらに寄せてきた。
「ていうか葉月さん、あの、3卓の男女どう思います」
「どうって?」
「えー、あれたぶんですけどぜったいアプリですよ。なんか、距離感とか」
たぶんかぜったいかどっち、と苦笑しながら、なんとなくそちらに耳を寄せてしまう。知らない人名やワードが飛び交っていて、漫画かアニメの話をしていそうだと思う。わたしはそういうものにぜんぜん詳しくない。
「そういえば、翠ちゃんの彼氏もアプリだったっけ」
「え、なにその話、きかせて」
空のジョッキを手に彌子さんがカウンターのスツールにどっかと座った。彼氏じゃないっすよ、と翠ちゃんはおおげさに高い声で笑って、京都に住む年上の男の話をした。いわく、「かっこよすぎて遠距離とか気にするひまなかった」のだそう。
「だから、年末年始向こう行くんですよ。おばあちゃんち京都なんで、表向きは、表向きって言っても変すけど、一日目はおばあちゃんちで過ごして、つぎの日初詣いっしょにいこーつって」
「はあ? 男に来させろよそんなん」
あたらしく注がれた黒ビールを半分くらいいっきに飲み干して彌子さんが大きな声で言う。酔ってるな、と思って、そっとお冷を注いで渡す。
わたしはこの場所が、ここのひとたちが好きだ。と、ふいに思う。歳の離れた子も多いけれど──わたしのほかはほとんど学生だし、彌子さんも三十八歳だ。わたしはことしで二十八になる──、ここに来ると、わたしを含めてみんなお昼寝前のこどもみたいに、おだやかに、無邪気に振る舞える。おたがいの年齢も性別も将来のことも話さずに済む許しの空気がここにはあって、わたしはみんなのことを、なんだか夢の中でだけあえるともだちのようだと思う。
時計を見ると午後の八時を過ぎていた。たいていはこの時間が混雑のピークなのだけど、だれかが新しく来る気配はぜんぜんしない。
「いまいるひとたちで閉めちゃってもいいかもですね」
彌子さんに耳打ちすると、ばっ、とピースサインを掲げられた。オーケーなのか、あと二時間はがんばろう、なのかわからなくて、わたしは翠ちゃんと顔を見合わせて笑った。
「休憩ありがとうございましたあ」
お店のドアが開いて、草太くんが戻ってきた。カウンターに突っ伏して目をしばたいている彌子さんを見て、まじかよ、と口だけで言っていておかしい。
「外にひといた?」とわたしが訊くと、草太くんは長髪を括りながらかぶりを振った。
「ぜんぜんです、なんか駅前らへんはひといたっちゃいたっすけど。あと、いまけっこう雪降ってるし」
「げーまじすか。パパに迎えきてもらおっかなあ」
翠ちゃんがべっと舌を出す。雪が見たい、とわたしは思った。結局さきに休憩をもらうことにして、まかないのナポリタンを作りに厨房に入る。
炒めた野菜とベーコンに塩胡椒を振りかけると、けたたましい音と共に油が跳ねていいにおいがした。
お店の二階は物置きになっていて、お店を出た外の階段から上がれるようになっていて、基本はみんなここで休憩をとる。ストーブにあたりながらナポリタンを食べ、ぼおっと窓の外を眺める。水を含んだ雪が、風を受けてはらはらと舞っていた。これでは積もらないだろうな、と思う。それから、いまさらみたいに、この雪のなか山田くんは無事に帰れただろうか、と思った。
それから、いっしょになったばかりのころだったら、もっとはやくそう考えただろうに、と思った。遠い昔と現在地の、否応ないくらいの隔たりに触れたような気がした。
山田くんとは大学時代の学祭で出会った。美大に通っていたわたしは画集やアクリルキーホルダーや編み物なんかを売っていて、そこに山田くんはともだちと来た。わたしのブースの前でじっと黙ってなにを買うか悩んでいて、悩み続けていて、あんまりに長く悩んでいたからわたしから話しかけた。驚いて顔を上げたとき目があって、たれ目とくせっ毛がかわいい、と思った。あまりともだちは多くなさそうだ、とも。
そのときわたしたちは軽く話しただけだった(けっきょく山田くんはバラクラバを買っていってくれた)けれど、それから二年後、わたしの卒展に山田くんはもういちど来た。二年前のバラクラバを被って、こんどはひとりで。
わたしは卒業してから制作会社で働き始めて、「内定も決まって卒論もないから毎日がひまだ」と言う山田くんばかりを呼び出して遊んだ。山田くんは私服がおしゃれで話が程よくつまらなくて、でもわたしがわけもなく泣くときにぜったいに電話を切らないひとで、映画監督になるのが夢の、よくロマンチックなことを言うひとだった。山田くんが学校を出るタイミングで、わたしたちはいっしょに暮らすことにした。わたしの引越し先に山田くんを居候させるかたちで、家賃はちゃんと折半で。
「これでおれたち、人類がほろびるときにあえるね」
と、山田くんはぽつんと言った。不動産屋で契約を済ませた帰り道だった。どういうことかわからなくて、わたしはぼんやり笑って頷いた。
「葉月は、地球滅亡の日になにがしたい?」と山田くんは言った。
「プリン食べたい」とわたしは答えた。でもほんとうはよくわからなかった。わたしがなにがしたいのか。地球が滅亡する、ということが。
「おれは」山田くんは、すこし笑ってから言った。「おれは葉月とあいたい。隕石が落ちたり戦争がはじまったりして、もう人類がほろびるしかなくなったら、人生さいごの日に葉月といっしょにいたい。いっしょに暮らしてたらそれができるな、って、思った」
わたしはちゃんと山田くんの話を聞いていた。でも、やっぱりわからなかった。隕石も戦争も人類滅亡もふつうにうんざりだと思った。それに、わたしに人生さいごの日があるなんて、ぜんぜん想像がつかなかった。
けれど、山田くんがわたしといたい、と思ってくれていることが伝わってうれしかった。それを、人類がほろびるときにあえる、と言い表す山田くんが、山田くんらしくて好きだった。うそみたいにしあわせだった。
「じゃあ、人類がほろびるときにあおう」しあわせな気持ちのままわたしは言った。
「人類がほろびるときにあおうね」と山田くんも言った。合い言葉ができたみたいで、わたしはもっとうれしくなって笑った。
それから、二年とすこしが経った。
隕石は落ちてこなかったけれど、遠い国で戦争が始まった。ちょうど、わたしの仕事が軌道に乗って独立したころだった。
どうして戦争が起きたのか、詳しいことはなにもわからなかった。ただ、空爆で子供と配偶者を亡くした母親の嗚咽や、手脚を失って呼吸器に繋がれた男の子の絶望や、怒り狂った群集のデモの叫びばかりが、いくつもいくつも絶えずメディアに流れてきた。そのひとつひとつを目にするたびに、じぶんのことみたいに心がずぎずきと軋んだ。うそだと思いたかった。けれどそれらはほんとうに起きているのだ、ということが、なにより苦しかった。
おなじころ、山田くんが勤めていた映像プロダクションを休職した。度重なる残業や休日出勤、それにプロデューサーのパワハラが原因だったという。すこしのあいだ脚本でも書いて、またすぐ仕事に戻るよ。山田くんは力なく言っていた。わたしは山田くんがはやく快復することを祈りながら、山田くんの書く本を楽しみにしていた。山田くんが使う言葉も、書く言葉も好きだったから。でも山田くんが仕事に戻ることはなかったし、脚本を書き上げることもなかった。なにもしないまま、ただ笑うのが下手になった山田くんを見るのが、ひたすらにかなしかった。
わたしは昔よりずっとお酒を飲むようになって、山田くんはあんまりロマンチックなことを言わなくなった。デートもセックスもわたしたちのあいだからはぱったりと消え失せた。かわりにお皿の洗い残しとか、ソファの下の埃とか、わたしが夜遅くバイトから帰ってきたときに山田くんが長風呂をしていることとか、そんなことばかりが目につくようになった。わたしがべろべろになってお風呂にも入らずに布団に潜り込むと、山田くんはかならずわたしに背を向けて寝るようになった。
山田くんに家事のことをやんわり伝えてみると、山田くんはいつも、いまにもこなごなになってしまいそうな顔をしてあやまった。ぜんぶだめでごめん、と。わたしはそれを聞くたびにかなしくなった。これはふたりの生活なのに、どうしてわたしが悪者みたいにならなくちゃいけないんだと思った。かなしくていらいらして、結局なにも言えなくなるのだった。
「お酒、すこしでも控えてみたら」
ある夜、バイトから帰ってきたとき、山田くんにそう言われたことがあった。すこし前の記念日、山田くんがアイスを買ってバイト先まで迎えに来てくれたとき、わたしがお客さんの男のひとに酔って肩を組んでいたのを、山田くんはまだ気にしているのだと思った。
「そうだね」とわたしは答えた。くだらない、と思った。こういう、じぶんの世界にしかいられなくなったときの男のひとにはなにを言っても無駄だ。そうだね。それ以上に返す言葉なんてない。ちらりと山田くんを見ると、山田くんはわたしと目を合わさず、突っ立ったまま口を結んでいた。
まだなにか言いたげなその様子に、わたしは、急にひどくいらいらした。なにさまだ、と思った。仕事も、家事だってまともにしないくせに。いつ仕事が途絶えるかもわからないのにわたしはふたりぶんの家賃も光熱費も出して、それでも貯金だってすこしずつしている。なのになんで、わずかばかり残ったお金の使い道まで口出しされなきゃいけないんだ。
「なに」わたしは掠れた声で言った。「それだけ? ほかに言いたいことないの? じゃあ言うけどさ、きみだってたばこやめなよ。出かけるときさあ、いつもきみ喫煙所行くよね、においだってずっと我慢してたし、ていうか、待たされるのわたしまじで嫌いだってずっと言ってたよね」
山田くんは、ごめん、と消えそうな声で言った。ごめんじゃなくて、と言いかけて、ごめんじゃなくてなに、と思って言えなかった。
流しっぱなしにしていた愛のままをのギターが、場違いなくらいの明るさで部屋に浮いていた。山田くんがいつかの誕生日にくれた燦々のLP。無性に腹が立ってレコードプレーヤーの針を止めると、ぶぢ、と嫌な音がして、静かになった。
「いっしょにいてもお酒ばかりに頼らせて、きみのためになにもできないのが不甲斐なくていやなんだ」
やがて、山田くんは間抜けに突っ立ったまま言った。わけがわからなかった。やっぱり、なにさまだ、と思った。わたしが苦しいときなにに寄りかかるかだなんて、そんなのわたしの自由じゃないか。なにもできないだなんて、そう思うなら家事のひとつでもわたしが伝えた通りにすればいい。バイトでもなんでも、週に一度でもいいから働いたらいい。なにもできないだなんて、そんなにいたましいことを言う前にできることなんて、いくらでもあるのに。
怒りはいつのまにか、全身がねじ切れてしまいそうなかなしみに置き換わっていた。泣きそうになって、でもいまは泣くところをこいつにだけはぜったい見せたくないと思って、わたしは浴室に駆け込んでシャワーを浴びて泣いた。お湯を止めたときキッチンの換気扇の音が聞こえて、なんであの話したあとにたばこ吸うんだよ、と思って、また泣いた。
もう、どうしたらいいかわからなかった。なにを責めたらいいのかわからなかった。それはわたしかもしれないし、山田くんかもしれなかった。あるいは戦争かもしれないし、山田くんの職場かもしれないし、お酒か、たばこかもしれなかった。わたしにはわからなかった。
ただ、わたしと山田くんのあいだで起きていることは、わたしと山田くんのあいだでしか起きえなかったのだ、ということだけはわかった。およそ残酷なくらいのたしかさで。
レジのお金を数え、番号順に伝票を整理して紐を通しまとめる。お店のスピーカーにiPhoneをつないで流すlampに、お皿を洗う翠ちゃんと洗濯物を干す草太くんの会話に、彌子さんの寝息に、どこへともなくぼんやり耳を傾ける。
「草太さんは年末年始なにすんですか」
「なんも。家で映画観ようかな」
「えー女?」
「ちげえよ。お前と一緒にすんな」
「ていうか、さっきの葉月さん的にはどうなんですか」
翠ちゃんがわたしの前に座って、ビールをくれながら言う。やっぱり訊かれた、と思いながら、んん、とあいまいに喉を鳴らした。
わたしが休憩から帰ってきたあと、お会計に来た絵を描いていた男の子に手紙をもらった。おじさんのお客さんに口説かれることはたびたびあったけれど、同い年か、それより下くらいの相手からそういうことをされるのははじめてで、思わず目を丸くしてしまった。
もらった手紙のさいごには、電話番号が書き記されている。
もしこの番号に、きょう、帰ってすぐかけてみたら。わたしは想像する。まずはおたがいの名前を教え合うところから始めなくちゃいけないだろう。それから、年齢と職業くらいは聞いたほうがいいのだろうか。好きな音楽や本の話ができるのならいくらでもしたい。そうしておたがいをもっと知りたくなって、お店のそとでなんどかデートをして、あうたびに話が弾んで、それからいつか、わたしは彼に抱きしめられるのだろうか。彼にわたしは触れるのだろうか。そのうちいっしょの家に住みはじめるのだろうか。くらしの中で、こんどこそ、傷つけ合わずに済むだろうか。
わからない、とわたしは結論づける。わたしには、いつだってなにもわからなかった。現実のことが、わたしはなにひとつわからないままここにいる。ひとりで。
「きみはどうなの」と、わたしは草太くんに話を振った。
「いやぜんぜんす。てか当分はいいかなって」
「こいつ最近好きな子にバラ百本渡して振られてんすよ」
翠ちゃんが茶々を入れて、草太くんがあんまりにしょげた顔をするものだからわたしは笑った。それからみんなでもう一杯ずつ呑んで、解散の空気になって、わたしと草太くんで彌子さんを担いだ。
おもてへ出ると雪は止んでいた。やっぱりぜんぜん積もっていなくって、道の端にほとんど溶けた氷が煤けた色をしてちいさく寄せ集まっていた。つめたくて清潔なにおいの空気が、お酒でほてった頬をやわらかく撫ぜた。
店の鍵を閉め、みんなで駅までだらだらとあるく。草太くんが「年の瀬ってぜんぶチャラになる気してすっきりするっすよね」と言って、翠ちゃんが笑いながら、ばかじゃねーの! と叫んだ声がびっくりするくらいよく響いてみんなで笑う。笑いながら、千鳥足の彌子さんがいつ吐くかちょっぴりわたしは心配で、でもなんとか無事に改札前までたどり着いてほっとした。
よいお年を、と口々に挨拶を交わして、緩んだ笑顔で散り散りになる。みんなそれぞれの終電で、それぞれのときめきへ、あるいは地獄へと帰ってゆく。わたしのいとしい夢のともだちたち。かれらの、否応なしにつづく、たったひとりの現実。
ひとのすくない電車は空気がほどけたように暖かくて、わけもなくしあわせな気分になる。眠ってしまいそうだったから、最寄りのひと駅先で降りてあるいて帰ることにした。
駅の階段を降りると道にはだれもいなくてしずかで、遠くでくろぐろと聳える集合住宅の影が、おおきな怪獣が眠っているみたいに見えた。
自販機でホットココアを買って、イヤホンで赤い公園の凜々爛々を聴きながら、大声で歌ってあるく。あるきながら、おもちが食べたい、と思った。こしあんと、あとくるみだれをたっぷりつけたやつ。エアコンをつけっぱなしにしてはいなかっただろうか、とも思った。
それから、これから先も続いていたかもしれない山田くんとの生活を思った。
きっと、それはむずかしいことではなかったはずだ。たとえば、わたしがお酒をやめていたらどうだったろう。ぱったりやめるのは難しくっても、お風呂にも入れないくらいには呑まずにいればいい。辛くてどうしようもなくなったら、ちゃんとあついシャワーを浴びたあとのきれいなからだで、山田くんに抱きしめてもらえばいい。多くを求めず、ただ山田くんが生きていてくれることを慈しんでみたらいい。
そうしたら、そのうち山田くんも元気になって、また働き始めるかもしれない。仕事終わりには、ちゃんとわたしの考えたことを受け入れてくれる家事をして、そのあとは脚本だって書いてくれたかもしれない。きっとその本は、わたしが大好きな物語にちがいない。
そうやって、わたしたちはまたおなじように過ごすのだろう。離れがたくいとおしく思い合って、おなじ部屋で暮らすのだろう。ふたりでがんばって働いて、お休みの日にはちかくのスーパーでいっしょに買い物をして、ふたりでごはんを食べてふたりで湯船につかって、おなじベッドで寄り添ってねむるだろう。
翌朝、わたしは水の張られていない鍋や食器をシンクに見咎めるだろう。あるいは、遠くの街や国での暴力を知るのだろう。ちかくの恋人に、遠くの国で血を流す女の子に、なにかを伝えようとしたってなにひとつ伝えられなくて、ぜんぶ無駄な気がするのだろう。どうやって話したって変わらない山田くんの怠惰が、手の届かないところであたたかな命を奪い続ける戦争が、ほんのすこしも思うままにならない現実のできごとたちがわたしのいる意味を否定して、わたしは息ができなくなって、けっきょくまた強いお酒を飲むだろう。
山田くんは新しい職場で新しく傷ついて、またお金を稼げなくなるだろう。お金を稼げないじぶんをどこまでも責めて、部屋の隅でかたくちいさく押し黙ってしまうだろう。わたしをじぶんの世界から締め出して、たったひとりでじぶんを嫌い続けるのだろう。ほとんどわたしが恐ろしいかのように、 ひたすらあやまるのだろう。
そうしてずたずたになったわたしたちは手を伸ばし合う。ささくれた指で、血の滲んだてのひらで、抱きしめる力の加減も思い出せずに突き放し合う。人類がほろびるまでの途方もない期間で、おなじように、なんどだって。
わたしは山田くんとの生活を思った。どうしたってこれから先、続きようのなかった山田くんとのほんとうの生活を思った。人類がほろびるそのときまでわたしも山田くんも生き延びたとして、もう二度とふたりでとなりあわないまま燃える地球のことを思った。
たいせつなひとがいなくなった。
たいせつなひとがいなくなった。たいせつなひとがいなくなった。たいせつなひとがいなくなった。星に願うように、路端に吐き捨てるように、ただそれきりを思った。
いちどだけ、ぎゅっと目を閉じる。それから顔を上げると蛍光灯が燦々とかがやいて、雪で濡れたアスファルトがビーズみたいにきらめいていた。こどもみたいな気持ちで、きれいだと思った。