言葉に頼らない高貴さ
十余年前ほどには、クラシック音楽を聴いていない。疎かにしてしまっている良い習慣の一つといえるだろう。今日、偶然、フィリップ・グラスの音楽を聴いて懐かしく、クラシック音楽をよく聴いていた時のことを思い出した。
抽象絵画や現代アートと同様、クラシック音楽にも分かるものと分からないものがあった。フィリップ・グラスの音楽はどちらかというと以前は分からない音楽だったが、今日偶然再会して、素晴らしいと思った。以前は分からなかったことが、今では分かる。歳月を経て、聴く耳が育ったのか、私の何かが変わったのか。歳月を経る以上、変わらないわけがないが、芸術の理解の仕方が「変わる」のは不思議であると同時に当然であるようにも思われる。以前より長く生きた分、何らかの蓄積はあり、その蓄積は良くも悪くも耳目と見識に影響している。
もともとコンサートに行く習慣はないが、人の斡旋でベートーヴェンの「英雄」交響曲を安価に聴ける機会があり、2年ほど前、大きなコンサートホールに足を運んだ。行ってよかったと思うし、行かなければ気づかないことや分からなかったこともあったと思う。現場を踏まなければ、リアリティを失う。音楽の本質を思い出すために、コンサートに行くことは必要だと思った。コンサートほど大規模でなくても、小規模な演奏会などで楽器の生演奏は敢えて時折、聴くべきと思う。そのような習慣を、どのように確立すべきか。
ピアノのレッスンの受講を、しばらく休止する決断をした。
仕事の多忙によるもので本意ではないが、残念な決断ではあっても、ピアノについての取り組み方を考えるよいきっかけとしたい。