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ファランクスを殲滅せよ
父が入ってくる。へべれけで、なにやら上機嫌である。「起きろ、ほら。いいものを買ってきたぞ、見てごらん」、眠りこける幼いKを、父は揺り起こす。たっぷり焦らせながら、手のひらを開ける。包み隠していたのは、ミニチュア人形だ。「おまえ、欲しがってたろ?」。たちまち目を輝かせるKの前で、父は古代戦士のフィギュアに命を吹き込む。次々と懐中から取り出しては、一体ずつ床に並べていく。
「父さん、この人形って?」
「玩具屋にあったのを買い占めてやったわい。全部だぞ、全部!」
「本当!」
「おう! さあ、おまえも作ってみろ。こうやって隊列を組んで」
誇らしげに父は言う。言いながら、フィギュア戦士の歩兵隊を組織して悦に入る。人形とはいえ、とても精巧にできている。どの戦士も、帷子・兜・脛当の防具で筋肉隆々の肉体を覆い、首からは心臓を守るべく円盾を吊り下げている。背丈の三倍は優にある長い槍を持ち、可動式の両腕は長槍を向ける方向まで変えられる。「もっと詰めろ、密集させて」、父は細かく指示を出して、四角陣形をより強固にする。サリッサと呼ばれる長槍を、前四列だけ水平に構えさせる。「そうだとも、これでこそ天下無敵の布陣だ。アレキサンドロス大王の歩兵隊だ」。
「見ろっ、こうして進軍すれば、前の歩兵がやられてもすぐ後ろの代わりが穴を埋められる。よ~く考えられてるな」
「凄いね」
「だろ? この戦法で、アレキサンドロスは大帝国を築いたんだ」
「凄いね」
「この四角陣形をマケドニア・ファランクスといってな、父王フィリッポス二世から授かったんだ…… 」
「父さん、凄いね」
素朴に感心する息子に、父はますます有頂天になる。この世の覇権をその手に収め、思いのまま、衝動のまま、なにもかもを支配して生きていく、そんな野太い漢が英雄に化ける。雄々しき父の軍隊が、ザックザック地面を踏み鳴らす。その様が、ありありと目に浮かぶ。
「ペルシアをやっつけて、マケドニア軍は中央アジアを越える」
「うんっ」
「連戦連勝だ。他の部族はこんな統制された軍隊を見たことがない」
「うんっ」
「中央アジアも征服したぞ。そして東へ」
「うん!」
「もっともっと、東へ向かい ……」
「うん!」
「インダス河の上流まで来て ……」
「……どうしたの?」
そこで父はちょっと詰まる。行軍もいったん停まるのだ。なにか不都合でもあったのか、眉毛をへの字に寄せてしばらく考え込む。Kはきょとんと疑問符を投げかける。その純真な眼差しを一身に受け、「ところがどっこい」と父は切り返す。なぜか象のマネをするのだ。右腕を口元に持っていき、だらり垂らしたかと思えば、その腕を長い象の鼻よろしくパオーパオーと打ち振る。「どころがどうだ! インドには象部隊がいた! ハハハ、これにはさすがのアレキサンドロス大王もたまげちまった。ハハハ、6000頭の象部隊には仰天しちまった。ハハハ……」。
高らかに父は笑い、腰を折り曲げたまま、今度はのっしのっしとベッドの前を往来する。象の鼻と化した右腕で、せっかく並べたフィギュア戦士の隊列を、ファランクスを、薙ぎ倒していく。Kは目を丸め、ただ父の哄笑に釣り込まれるのだ。訳が分からないなりに、一緒になってパオーパオーと声を合わせる。いつになく明るい酩酊の父は、赤ら顔をより膨らませ、積木を崩すように、痛快に、権力者の体面を保つ。「ハハハ、面白いな? だろっ、だろ? ハハハ、もう一回やるか?」。Kは頷き、永遠にこの夜が続けばいいのに、と願う。
「よし、じゃあ、もう一回はじめからだ」
「今度は、おまえに象の役をさせてやる」