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たゆたう

郵便配達人は二週間おきにやってくる。絵葉書を届けにやってくる。差出人の名前がない、ある街の絵葉書を。王宮庭園、大聖堂、旧市庁舎、欄干のある橋、どこかヨーロッパの街並のようだが、これといった決め手がない。気味が悪いから、と受け取りを拒否しても、郵便配達人は「宛名と住所が正しい以上、届けないわけにはいかない」の一点張りだ。差出人の不明は、なるほど受取人側のプライバシーということらしい。

一体どういう了見だろう? 誰が、何のために? 差出人の意図・目的・謀略をあれこれ推測する。妄想の翼はとめどなく羽ばたき、なにかの犯罪に巻き込まれないか、ささやかな市民生活は脅かされないか、見えない相手の恐怖を際限なく膨らませる。だが、一方的に送りつけられる非対称の関係性には、募る思いのよすがは限られるのだ。次も、その次も、二週間おきの配達日には、ただ目に見えるものだけがそこにある。

すると、いつしか郵便配達人のことが気にかかる。あれほど不気味だった絵葉書が、もし届かなかったら、と思うと、逆にそわそわしてくる。ひとたび憑かれると、もう後戻りはできない。我知らず、郵便配達人のルーティーンを調べる。配送時間・地域・ミスの履歴・街の噂。ちょっとでも予定時間を過ぎれば、事故に遭っていないか、病気に罹っていないか、落ち着かない苛立ちを抱えてポストの前を行ったり来たり。そのうち、意識は配達人の家族や趣味にまで及ぶ。さらに折り重なる時間のなかで、始終、配達人を思い続ける集積は、もはや入れ替わったそもそもの誰かとは比べられない。地動説を信じた者は、もとより星を鳥観できたからではない。目の前の人から、順に、思いはたゆたう。たゆたいながら、代わりに、最初のきっかけでさえも忘れていくのだ。忘れることを手に入れなければ、惨めな人生を生きてはいけないのだ。

50年後の、郵便配達人の葬儀場――。そこには、手向けの絵葉書を両手では抱えきれない参列者が、きっといる。



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