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黙示体温36.8℃

理髪店の女が出産するやいなや、ふたたび店は賑いはじめる。夕刻には、もう逸る気持ちを抑えきれない客の行列ができるほどだ。なかには吸えない煙草を吹かして、大人ぶる学生がいる。まだ履き掃除を終えていない女を急かして、昼間の看板を夜のそれへと勝手に裏返す客もいる。

「半年は長かったからなあ」

「今度の赤ん坊、種は誰なんだい?」

完全に日が暮れ、くるくる回る三色のサインポールが消える。順番に店内へ入る男たちは、20分ほどで清々しい顔になって出てくる。蜜のたっぷり付いた林檎飴を頬張りながら、理髪店の女に見送られるのだ。Kの二人手前まで来たところで、不意に女の視線がKとぶつかる。

ギクリとわが目を疑う。

絶句したまま声を失う。

およそ、この世で考えられる、もっとも哀しい再会だ。

過ぎ去った歳月が、瞬時にして昔日の一点に結ぼれる。

女のほうも狼狽を見せる。が、少し憂えた思案顔のあとで「今夜はもう店じまいだ。さあ、とっとと帰っとくれ!」そう切り出して、Kにだけ指先で手招きをする。K一人が店内へ招じ入れられるのだ。ぶつくさ文句を言う客たちを尻目に、女は扉を閉めて鍵を掛ける。ピシャリ、カーテンの隙間を埋める。Kは、なんと言えばいいのか分からない。元気そうじゃないか、いや違う。たまたま通りかかったんだ、いや違う。咽喉まで出かかった言葉の、適切な使いかたは時の彼方。そんなKの挙動を見透かしたように、女はあくまでも接客の態度を貫く、一縷のプライドに支えられて。大きな鏡の前の散髪椅子をくるりと回す。ギコギコ足踏ペダルで高さを調節する。リクライニングを倒す。茶色い革張りシートにバスタオルを敷き替える。

堂に入ったもので、続いて白い制服の裾を膝上まで持ちあげるのだ。

Kには構わず、みずから椅子に横たわる。

「上がいいの? それとも下?」

「電気は点けたまま?」

女は軽く目を閉じる。両膝をM字に折り曲げ、ゆっくりと脚を開く。Kはやはり何も言えず、それどころか、何も拒むことができない。言葉を掛けようにも、すべては偽りに帰すだろう。かえって罪深いようにも思われ、ただ彼女の意のままに、導かれるままに、下半身の茂みへと吸い込まれる。腰をあてがえば、蜜のぬめりに包まれる。懐かしさと、遥かなわだかまりが氷解していく一回ごとの上下運動。その間に間に、女はひどく哀しそうに瞳を潤ませる。たがいの吐息が少しずつ激しくなり、ふと見ると、壁鏡には小さな男の子が映っている。どこから現れたのだろう、何番目の子供だろう。尻の半分まで下着をずりおろしたKの後ろから、汗だくになってKの腰をプッシュする。鏡越しに無邪気な笑みを浮かべて、ひたすら両腕に力を込めて。

やがてKが果てると、男の子は女の股ぐらへ手を突っこむ。すっかり身に付いた、医者が堕胎手術を行うような手練だ。白濁色に塗れた林檎を取り出して、それをKに手渡そうとする。その間に女は体温を計る―—、36.8℃。計り終えると、女はなにかの証しのように男の子の手を止める。「いいのよ、この人はいいの」と言って、にわかに母親の慈愛に満ちた表情を見せる。あるいは、最後まで礼儀を弁えとおしたKの無言に対する、返礼のように。「女手ひとつでやってきたの……」、隔てられた過日の寝物語と、失われた再会の言葉とのあいだで、林檎飴は宙ぶらりんになる。男の子は言われたとおりに従う。その先まで心得ているらしく、ペタペタ、ペタペタ、駱駝色の革砥ベルトに剃刀を当てて研ぎはじめる。




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