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記憶術*

長きに亘る迫害の歴史のため、今日では、純然たるヤトゥンバを見つけるのは難しい。本人が名乗り出ないのはもちろん、その血を少しでも受け継ぐ者がみずからの出自をまるで知らない、ということさえ起こっている。とはいえ、常に歴史の闇に甘んじてきたヤトゥンバにとって、ある意味、それは当然のことである。問題は、優生思想に立つ側、人類の純化を望む側、すなわち「やつら」の疑心暗鬼にある。

一説によると、表の歴史上もっとも古いヤトゥンバの痕跡は、紀元前5・6世紀の古代ギリシアに遡る。ケーオスのシモニデスが考え出したとされる記憶術が、その体現者が、実はヤトゥンバだったのではないか、という考察である。なるほど独自の文字を持たないヤトゥンバなら、大いにあり得る。おそろしい記憶力と口伝によって守られてきたヤトゥンバの伝統は、寄生する民族なり国家なりの体制言語を使うことで隠し通せたのだから。

だが、まさにその秘匿性は、逆に「やつら」の憎悪・反感を招く。十字軍の遠征がことごとく失敗に終わったのは、混血ヤトゥンバがイスラムの英雄サラディンと通じていたからだ、と唱える者はいまだに後を絶たない。グーテンベルクが発明した活版印刷術が、聖書の普及によって人類の文盲率を著しく下げたのは一面の真理だろうが、それによって記憶術の希少価値の恩恵に浴したのは、他ならぬヤトゥンバ。その他もろもろ。

奇妙な物言いだが、人類は記憶するために忘れる。新しい技術によって記憶媒体が進化すればするほど、個体としての記憶力は退化する。他者を認めない「やつら」は、例えば円周率を100桁まで覚えていたり、パブロ・ピカソの正式名を完全に暗記したりする幼稚園児を見つけたら、すわ、ヤトゥンバの末裔かもしれない、と目をつける。覚えながら指を折っているなら、もう完全にクロだという。

シモニデスの記憶術の原初は、イメージと場所を紐づけることである。もっとも具体的で身近な場所、つまり一本一本の指に。

それぞれの指に特定のイメージを結び付け、両手の10本を何周もすることで10進法の概念上に展開していく。理に適った記憶の植え込みである。

ヤトゥンバの血がバレて結婚を反対され、報われない悲恋に無理心中を図った恋人たち。その多くの、男性の指は、第一関節から失われている。

本当に自殺したのだ、と考える人は、よもやいまい。「やつら」はそれこそ見せしめにして、死者にまで恥辱を与える。

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