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煙の向こう側  5話

なごみが無事に高校に進学して半年ばかりたった時だった。

和のちょうど真裏にあたる部屋に、加戸という青年が越してきた。
加戸は、定時制の高校に通っていて昼間は働いている。
両親が早くに亡くなり、歳の離れた兄に育てられたが、都会で問題を起こし、自殺未遂をやらかした。このままでは自分がダメになると奮起し、新たな気持ちでがんばろうと、この地にきたのだ。
最初のころは、彼女と思われる女性が訪ねてきていたが、今は定時制仲間の溜まり場になっていて、いつも音楽と歓声が絶えない。

この日も、飲み物が足りなくなったらしく、買い出しにいく途中、部屋の前を通りかかった、和に声をかけてきたのだ。

「いつも騒がしくして、すみません」とても暗い過去があるとは思えない明るい笑顔だった。そんな加戸と和が心を通わせるようになるのに、時間はかからなかった。加戸は昼間、ガソリンスタンドで働いている。都会にいる時から車が好きだったという。
加戸の部屋には、いつもやってくる仲間がいた。野瀬、浜田、前川の三人である。皆、昼間仕事をしていて世間なれしているせいもあってか、それぞれしっかりしていて高校生とは思えないほど落ち着いていた。
仲間はすぐに和を受け入れ妹のように可愛がってくれた。

和は、高校でも表向きは母子家庭の子となっていた。
親友と言える友もいた。
岡林直子である。彼女も母子家庭であった。
「父親がいないことを卑下したことは一度もない」と彼女は言っていた。それは、和も一緒だった。
事情は違えど同じ思いを共有する友がいることは、和にとって幸せなことだった。
だが、そんな彼女とも一つだけ違っていることがあった。
それは容姿の違いや成績の良し悪しではなく、『彼女は自分の母を誇りに思っている』という点だった。

直子の母は借家を持っていて他に旅館も経営している。
精いっぱいの愛情でもって直子を育てている。
「母がいれば、父などいらない」と直子は言い切っている。
直子には何でも話してきた和であったが、自分の母への思いだけは話したことがなかった。和は直子が羨ましかった。

直子の薦めもあり、和が母と一緒に直子の母の借家に引っ越したのは、高校2年の冬だった。
借家とはいえ、一戸建ての家に引っ越したことは、母にはこの上ない喜びだったようだ。だが、和にとってみれば、喜んでばかりもいられない状況だ。
一戸建てといってもそう広いわけでもない。母と和の部屋は襖を1枚隔てているだけだ。
和は、その隣から聞こえてくる『音・声』すべてに身を固くし、また『カタツムリ』になってしまうのだ。

一日も早く家をでなければ…そう思う日々が続いた。

その頃、和は加戸と付き合うようになっていた。
仲間の一人だった野瀬も和に、好意以上のものをもっていた。何をする時も
野瀬は和の傍にいてくれた。
野瀬はいつも和のわがままを聞いてくれた。

加戸に年上の彼女ができたらしいという噂が、和の耳に入ってきた。
和には信じられなかったが、事実だった。しかも加戸が付き合っていたのは
和がよく行くスーパーでレジのバイトをしている瞳だった。
瞳は加戸より2つ年上で、京都からこちらの大学にきている。年が明けたら
京都に帰るのだと言っていた。詩を作るのが好きで、和にもそのノートを見せてくれたりして、和にとって姉のような存在だった。

和は、どうすることもできず、泣いてばかりいた。
そんな和を心配して、毎日のように野瀬が訪ねてきていた。
野瀬は、加戸から瞳のアパートを聞き出していた。
「泣いてばかりじゃ前に進めない、直接会って聞いてみなよ」
そう言い聞かせて、和をアパートへ連れて行った。

和と野瀬が瞳の住まいを訪ねた時、瞳は食事の用意をしていた。
野瀬が鳴らしたチャイムの音に
「お帰り、早かっ………」と言いかけて、目を丸くしている。
ドアの外に立っていたのは、和だった。
慌てて「ごめんなさい、どうしたの?和ちゃん。あら?野瀬さんも一緒なのね。」と聞き返す。
涙で何も言えない和に代わって、後ろから野瀬が声をかけた。
「突然すみません。少しお話したいのですが。加戸のことで…」
「はい」と返事をすると瞳は二人を中へ招き入れた。
コンロにはカレーの鍋がかかっていた。

何もかもわかったような気がした。

野瀬が和と加戸のことを話すと、瞳は「ごめんなさい」と頭をさげた。
加戸と和のことは、加戸から聞いていたようだ。
だが次にでた言葉は
「和ちゃんには悪いけど、私たち結婚するのよ。私が大学をでたら…。京都の両親も賛成してくれてるの」
「加戸があなたにしたことは、良いことだとは言えないけれど、加戸だって悩んだのよ」
瞳も涙声になっていた。
和を気遣っているのか、加戸とのことをどう話そうか言葉を探しているようだったが、何を言っても和には言い訳に聞こえるだろうと思ったのだろう。
結論だけを告げたのである。
来年は加戸も二十歳になる。男としては結婚を考えるには早いかもしれない。だが、身寄りのない加戸にとっては、先のわからないまま和と付き合っていくより、京都に帰って瞳の家の養子となり、身を落ち着かせることが今の自分には一番だと考えたのだ。

「決して和を嫌いになったわけじゃないよ。でも、瞳のことも好きなんだ」
「どうしようもないんだ」
加戸がドアを開けた。

普段はおとなしい野瀬であったが、加戸のその言葉を聞いたとたん、野瀬が加戸に殴り掛かった。
そして「こんないい加減な男でいいんですか」と、瞳に聞いた。
「いいんです」
瞳のその冷静な言葉に、物語が一つ終わった気がした。
その一言でこの人は、加戸を信じて、そして何もかも受け入れているということが、野瀬にはわかった。
「和ちゃん、帰ろう」
野瀬は「お騒がせしました」と頭をさげ、和を外へ連れ出した。
和は涙が止まらない。
何も言わずに泣き続ける和の傍に、野瀬はずっといてくれた。
その日以来、野瀬は和の家には来なかった。
自分を見ると加戸とのことを思い出すのではないかという懸念からだろう。野瀬はそれほど優しい男だった。

母も和になにかあったことは薄々感じてはいるようだったが、知らん顔を決め込んでいた。

和が一番さみしい時、いつも母は傍にいない。ただ、煙草の匂いだけがそこにあるだけだった。



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