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千の焦点を揺らして・第2章:落下する教室(坂口安吾全集リミックス)

 草穂修は教室にいる「男」を見つめる。「男」はドテラを着込んでいる。その服装は明らかに場違いである。教室にいる全員が制服なのに。だから、浮いている、その「男」が。メガネが大きな二つの丸で出来ており、顔立ちが屈強で、目が少し、蒼い。「男」は真剣な眼差しで、窓の外を凝視する。教室の誰も、この「男」の存在に対して困惑していない様子。気に掛かっていないというより、見えていない方が妥当な言い方かもしれない。

 修は理解している。「男」は恐らく死んでいる。半世紀以上、亡くなっていた人。見覚えのある顔だ。誰だ? 思い出せない。

 およそ二ヶ月前から、「男」は修の前で姿を表すようになった。最初はクラスの誰かの親戚だと思った、授業参観的なことでもやっているじゃないかと。だが、「男」は特にそんな素振りを見せない。ただ、窓の外を見詰めていた、何かを待ち望んでいたかのように。次の日も、同じ時間帯でしれっと教室に現れて、はやり窓の外を見る。この異常な状況が何週間続いてから、修はクススの誰も「男」を見えていないと確信した。確信してから、沁に相談する。そういう決まりである。確信していないことは、沁に相談しない。小学校で知り合ってから、ずっとそうしてきた。

「私と修の関係が非対称的すぎる。修の方がいろいろな束を見てるから。君のすべての主張を擁護してしまえば、この非対称的な関係を助長してしまう。そうなれば、大惨事よ。わかる? 未来が、痛い目にあう。この関係を維持するために、一種の保険が必要。私たちの間にフィルターが要る。身勝手だと思われてもかわまない。ただ、相談役をやるなら、修の努力も不可欠だと思う。対話術を君に授けよう。感じ取れた物事の裏付けだけ、君自身でまずしてください。それなら、相談役に乗ってあげる」と、沁は小学校のグラウンドでそう提案した。

 その提案通りに、修は実践した。絞り込む。受信した束を、絞り込む、一筋の線に。思考はフィルターだ、関係に対称性をもたらすための。だから、今回もそうした。だから、相談可能になった、「男」が見えていることについて。

「もちろん、沁は見えていないよね?」

「見えてない、それが君の確信なの?」

「他の人に聞く必要があるか?」

「そうじゃなくて。別の確信というか……」

「言いたいことはわかった。来週から試してみる」

 別の確信を得るために、修は考え始める。思考の結果は、言葉を投げかけることだ。あの「男」に、言葉は通用するのか? でも、試した。「男」は最初、反応を示さない。そして、言葉を投げかけたあと、修は必ず失神する。理由はわからない。血が全身から引き抜かれた感覚が、いつもその後で起きる。席から転倒する。転ぶ。ケガはしなかった。ただ、神経がだいぶすり減らされた。だから、一旦やめた、言葉を投げかけるのを。しかし、転倒は続いていた。「男」を見るたびに、最後は転んでしまう、席から。

 幸いなこと、「男」の出現には運動のパターンがある。だから、視界の死角に埋めることが可能になる。一週間ぐらい、「男」のことを見えないようにした。見るのが、怖かった。だが、今日はうっかりしていた。視界に、侵入を許した。だから、今日は、「見える」日だ。

 修は「男」の虚ろな輪郭を観察して、思わず口にしてしまう。

「デカダンス」

 そう零した瞬間だった。「男」は尋常じゃない詰め方で、修の前に迫ってくるーー

ーー「デカダンスは文学の目的ではない」

 ガタン! 大きな音をたてたあと、修は既に椅子と一緒に仰向けになっている。何度も起きていたことだ。ただ、今回の転倒はなぜか、手応えがあった。椅子と一緒に転んだから?

「草穂! また貧血か」

「先生、低血圧です」沁は隣で〈数をかぞえる〉先生を訂正する。この言い訳が有効に機能してきた。誰にも不審だと思われずに済んだ。

 沁は修の方に向く。

「保健室行く?」

「また、見えちまった」小声で、彼は沁に耳打ちする。

「うん、わかってる」小声で返される。

「でもようやく正体を掴めた」

「誰?」

 推測可能な範囲で検索を試みる。デカダンスに対して、あのようなリアクションの仕方を取る人は、恐らく、

「おそらく、サカ——」

——ドーン!

 鈍い轟音が、窓の外から侵入した。尾を引く隕石が、青く輝いて教室を直撃する。直撃して、閃光を放ち、激しく照らす。つまり、全員がフラッシュバンを浴びる。同時に、〈数をかぞえる〉教師が、吹っ飛ぶ。教科書も、机と黒板も、衝撃によって吹き飛ばされる。生徒と椅子だけが、なぜか無事である。だが、目はしばらく見えない――この「しばらく」は、教室が落下している間に、何度も繰り返される。そして、涙が出る。耳鳴りもひどい。パニック状態に陥りそうになる。

 肩の方に手の温もりを感じる。あのグラウンドで感じた温もり。沁の手だ。その手は落ち着いている。だから、一層、修の恐怖心を煽る。それは、全く見知らぬ人の手のように感じる。修はその原因をわかっている。見てしまったからだ。轟く音が教室に侵入する直前、沁は誰より早く、目と耳を塞いだ。まるで、隕石の到来を事前に了承していたかのように。その時、沁は何かを口にした、

「Bフラット」、

そう言ったことが修の記憶に記録される。

 喚き声が聞こえる。ものにぶつかる音がする。修は、別のことに意識を集中させる、沁の手をなるべく意識しないために。目が見えない。しかし、別の目が、彼にはある。つまり、「男」を見る、その目が。感覚をチューニングする。切り替えていく、そう努力する。そして、その目を、隕石の方に向ける。

 巨石はその半分を教室の内部に突き出している。その表面に、骰子の出目が刻まれている。7。神話化されすぎた、アラビア数字。しかし、出目は「7」を表示しない。あくまでも、垂直の3つの点と垂直の4つの点として表示される。

 ・・

 ・・

 ・・

  ・

 つまり、計算はここで起きてしまう。足し算が、発生してしまう。否応なしに発生してしまう。最大瞬間数え、4までが限界だ。以後の付け足しは計算に頼るしかない。だから、修は3+4=7と計算する。点を、無意識的に、アラビア化する。

 そう遠くないところで、沁の、惚けた呟きが聞こえる、

「ついに、この時が来た」

 すべてが君のお見通しか、沁。修は依然として、昔から知っていた幼馴染が別人になっていると感じる。だが、沁の呟きに修の目は触発される。目が別の力を獲得する。ひどく、制限された予知力を獲得する。隕石の名が、「マラルメ」であることを、修はその目でわかる。そしてその隕石が、複数の称号を持っている。〈カジノ観測高踏派〉、〈家具喚起の証拠人〉、〈難破船の眷属〉、〈ファウヌス・マシーンの技師〉・・・それ以上は、見通せない。最大瞬間予知も、4までが限界だ。それでも、隕石「マラルメ」が称号持ちであることも、目で、わかる。わかってしまう。かねてより知っていた、という奇妙な感覚によって、過去は、上書きされる。

 名が意識に浮かび上がった瞬間、隕石の出目が、遊走する。移動して、顔文字的な位置につく。つまり、隕石の表面が顔貌機械の素体になる、点の顔に。そして、顔が点の口で、喋る。

「君たちに問う」点の唇が上下する、声の肌理が礫の粗さを帯びている、礫を、壁に撃ち込む荒さがある、「この教室は、何番目だ?」

 〈数をかぞえる〉ことを強いられる。何番目というのは、何年生? かぞえ方がわからない。わからない、何を以てして一番目なのか。つまり、〈数をかぞえる〉ための基盤がそもそも存在しない。ただ、それより大事な何かがあった気がする。大事な何かを忘れた気がする、あの「男」について。

 忘却を思い出した瞬間、教室は沈む。落下する。丸ごとに、垂直に、沈む。すべてが、浮き始める。全員が、落下の逆方向に吊るされる。さかさに、吊るし上がられる。無重力。

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