散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道
散るぞ悲しき
硫黄島総指揮官・栗林忠道
梯久美子著
ビブリオバトルで紹介させていただきました。
栗林中将の素晴らしい人となりと、麾下二万の兵士の鬼神を哭かしむる敢闘を、できるだけ多くの人に知って欲しいと思い拙い発表ですが頑張りました。
「散るぞ悲しき」とは、栗林中将の辞世の歌です。
国の為、重きつとめを果たし得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき
この「悲しき」という言葉には、圧倒的に優勢な米軍に徒手空拳で立ち向かわなければならなかった兵士たちが弾尽き、水涸れて斃れていく姿に、指揮官としての断腸の思いを込めた言葉だったのです。
しかしその言葉は大本営によって変えられ、当時の新聞には「散るぞ口惜し」と載せられました。
エリート軍人たる栗林が、徒に将兵を死地に追いやった軍中枢部へのギリギリの抗議ともいうべきこの歌を詠むまでにどのような戦場の日々があったのか。
栗林は敗色濃厚になってきた昭和19年6月、硫黄島に着任しました。硫黄島は東京から南に1250km、ここを米軍に取られると日本全土に空襲できるようになるということで、死んでも守らなければならない島でした。満足な水や食料のないなか、栗林は兵士と同じ量の水と粗末な食事をとり、常に部下と共にあろうとしました。
また、兵士に手紙を手紙を書くようにすすめ、自らも41通もの愛情深い手紙を書きました。留守宅の台所の隙間風を心配し、体の弱い妻を案じ、末娘と夢で会った話を書くなど、ささやかな家族の日常を愛する1人の父親でした。
合理的思考で有能な指揮官だった栗林は、当時日本軍の主流であった水際作戦ではなく地下壕を島の縦横に掘り、島全体を要塞化しました。そして徒に兵力を失うバンザイ突撃を厳しく禁じました。
アメリカ軍は上陸前に激しい砲撃を74日間連続で行いましたが、地下に潜っていた兵士は無事でした。栗林は自分達が1日でも長く戦うことで、本土への空襲を遅らせれられるんだ、という一心で最後の一人になってもしぶとく闘うことを将兵に徹底させました。
まさに、死ぬよりも苦しい生を生きよ、と求めたのです。
硫黄島での死闘は第二次世界大戦中、米軍に最も多くの死傷者を出しましたが、いよいよ島の北端に追いつめられた栗林は大本営に訣別電報を打電、それが最初に話した「散るぞ悲しき」というものです。
時代はくだり平成6年2月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇が詠ったものが
精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
まだ硫黄島の地下には半数以上の遺骨が残っているそうです。
発表を終えた後、観戦者の方々から声をかけていただき、興味を持ってくださった方がいたようでやってよかったです。
ただ、声をかけてくださった方のお一人から「犬死でしたね」と言われなんとも言えない気持ちになりました。確かに勝てる闘いではなかったけれど、それでも1日でも家族や愛する人のいる本土への攻撃を遅らせるため、米軍の損害を増やしアメリカの世論を動かすため、必死で闘いぬいた一人一人のことを無駄な死と言っていただきたくない。でも、言った方もそういうつもりでおっしゃったのではないだろうと思うので、敢えて強い言葉は返しませんでした。
これほどの苦しい闘いをしてくれた先達がいて、今の私達がここにいる、ということを改めてかみしめ、有難い「今」を一生懸命生きたいと思います。
他の方の発表もとても素晴らしく、参加して良かったです。
バトラー(発表者)は総勢8人で、内訳は10代3人、30代1人、50代2人、70代1人、90代1人でした。
10代のバトラーの紹介した「かくしごと」という本の感想で、
「一人一人に役割があって、役割のない人はいない、と思いました。私も自分の仕事をしたい」というような趣旨のことを言っておられました。
まさにそれこそが、硫黄島で死んでいった兵士の一人一人の生であり、存在にこそ意味があるのだと思いました。
ビブリオバトル、楽しすぎてやばい。
次はどんな本を紹介しようかな。