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女がいない

王手メディアやコンテンツにおいて、女を正しく知る機会が存在しない。この日本社会では。ニュース、YouTube、テレビ、漫画。公の場で素の女が映される場所は1つもない。女。女性らしさとは社会が望んで作りだした虚構だ。素の、人間としての女を見聞きできなかった男性は着ぐるみや虚構を女と誤認する

女は、信頼し気を許した近親者か自身の前でしかよそゆき仕草を脱げないでいる。真に女の権利と安全をを尊重した者しか女の素を見ることが出来ないから多くの男性は素の女を知らないし、人間とは別属性としての女の尊重の仕方、愛し方しか知らない。

『男は稼ぎ、女は彼をあらゆる方法でケアして支え合う』に対等で尊重しあう男女関係はない。実社会で女に男と同等の選択が与えられていないのだから、すなわち男の維持装置としての価値しか望まれていないからだ。

つまらない部分や社会的評価がなく誰も進んでやりたがらない部分。皆の負担を最後に引き受ける役割。女は女の権利よりも外部のしわ寄せを浄化する為に生きることを期待されている。見くびられている。女の幸せは、人間の幸せにいつまでも及ぶことはない

放射能汚染土を地方に押し付けるように、沖縄に基地を負担させるように、なんのロマンもない外部のでがらしの処理を、処理者のケアより優先して担わせる。でがらしに本当はロマンなどない。たとえ愛とラッピングしてみせたとして、それを男が担いたがらない事実が全てを証明している

自浄を放棄した男につくす女。社会的評価をえ自己実現する事を期待されず、場もおざなりにしか用意されない。容姿や奉仕力の巧拙でしか評価されず、大勢が心身削らされる程にその評価が絶対だ。
社会が女に重ねるのは、自己犠牲による再生産装置だ。女は社会でも言葉上でも人間であれない。

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