【カンニング竹山の古典の授業は要らない発言】古文漢文不要論は、「要不要」の問題か?
試験があるたびにトラウマを思い出す人々
古文漢文は要るか要ないか?
先日、共通テストといわれる試験があった。ちょっと前ならセンター試験、もっと前であれば共通一次試験とよばわれたものである。
こういった全国で行われる試験があるたびに次のような議論が起こる。
古文漢文が必要か不必要かに関しては今にはじまったことではない。
おそらく義務教育が始まって以来、ずっといわれていることであろう。
教育に関する本、あるいはオピニオン雑誌のような本を読んでみても
そういう文章がかかれていることは管見の限り、多々あった。
古文漢文がどう必要か、どう役に立つのかについては、
京都大学の准教授、田中草大氏による講演録『日本語史の研究と「古文」「漢文」』をよむと古文漢文の技能性に焦点をあててかかれている。
ある段階の人にとっては必要であることはここから確実にいえることである。
人生で要るか要ないかはその人それぞれ
私ズンダの意見は
「そもそも、小卒、中卒でいいはずの人たちを高校や大学にいれてしまったせい」
というものだ。
もとから勉強ができなかったり、学問に興味関心のない人たちを学校にいれてしまえばそういう意見がでるのは当然である。
自分が理解できないものを役に立つなどと考えられるはずがない。
生きるだけであれば、私たちに必要なのは小学校でならうような簡単なことだけでいい。
あるいは社会にでて学んでいけばいい。
社会に出た場合の学びはそのときどきに対応するだけに
留まる。深く学べるかはわからない。
しかし「必要性」を感じるだけに拘るのであれば、それでいいだろう。
古文漢文にかぎらず、どれも不要である。
英語を使わないと生きていけない日本人もそんなにはいないし、数学も、科学も物理もいらない。
セックスをしない童貞には「保健体育」もいらないかもしれない。
職業の意義、大衆社会、古典とは?
十年ほど前にかかれた本田由紀
『教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ』 (ちくま新書) がある。
この本では日本の教育は就職するということを考えるきっかけが少ないということが指摘されている。日本の教育はまるで大学の先生を目指すような内容に寄りすぎているのである。
世の中の全員が大学教授になってもらってはそもそも社会がまわらなくなるし、そもそもそんな頭をもっているわけがない。本田氏のいうことは尤もなように当時、私は思った。
しかしこれが「大衆教育」がもたらした世界である。
苅谷剛彦氏が指摘するように、エリートだけが大学や高校にいく時代ではない。
全ての科目が過去のものである。
その昔、著述家の山本夏彦が指摘したように
我々が習っていることはすべて、昔人が発見したものであり、あらゆる科目全てが「古典」といえなくもない。
どうして「古いことを学ばなければならないのか」という疑問は我々の中に常にある。
「新しいことだけを学んだ方がいい」
もしくは
「役に立つことを学べば良い」
もちろんこれに対する反論として
「新しいことはすぐにかわる、役立つこともすぐにかわる。
変わりにくいものや、新しいものに対応できる力を養うのが教育だ」というものがある。
確かに文字の読み書きができないと、そもそも学習自体が不可能になることは間違いない。
いくらyoutubeなどの動画サイトがあったとしても文字はつかわれる。
また何らかの勉強をする際に本でしか学習できないことも多い。
その際に最低限の読み書きが必要であることを否定する人はさすがにいないだろう。
またこの「最低限」というのは数学についてもいわれることで「四則演算」を最低限
という人は多い。
いつから古典漢文は問題視されていたか?
浅田孝紀 「古典教育の意義に関する一考察」(1992)によると
昭和40年代に「漢文教育廃止論争」があり一般人からの提案、そして碩学であった国語学者、時枝誠記の議論への参戦にまで至っている。
この論争に関しては浅田孝紀の文に譲るが、必要/不要論は昭和40年代に始まった話ではない。
明治期の文部大臣を務め、教育勅語の原案をつくり、大日本帝国憲法の起草にまで携わった井上毅(1844~1895)が次のように記した文章がある。
前田雅之『古典と日本人「古典的公共圏」の栄光と没落』より引用する。
読むと次のことがわかる
①古典古語は尊重すべし
②但専門として尊重し、又は一種の美術として尊重し、国民教育には用いるな
といっている。
井上の考えでは古文は「一般教育には向いていない」ということになる。
欧米列強に抵抗しなければならない明治期の日本において、古文だけを勉強している余裕などないというのは非常に頷ける見解ではある。
だから、漢文漢字だけにかぎらず「欧州の論理法に取らざるべからず」というわけだ。
このように古文漢文に関してはその要不要はずっと前からいわれていた。
私のように本を読むことが好きな人間であれば、そんなことは常識であった。
「古文漢文」どころか「漢字自体を廃止して、英語にしろ、フランス語にしろ」などという議論などがあったことも事実である。
安田 敏朗『漢字廃止の思想史』
デキの悪い人はそもそも論争に加わるべきなのだろうか?
よってTwitterで「全国テスト」が行われる度に彷彿として湧き上がる
「要不要論」は目新しくはない。
またこの時期に話柄として扱われがちになる理由も、所詮は
「自分が古文漢文で点数がとれなかったから」が
殆どであろう。
「自分ができなかったモノは嫌い。だから、不必要だ」という、その人の「デキの悪さ」からきた怨みつらみである。
自分が出来なかった場合の恥ずかしさや僻目などを隠す方法は
「それ自体が役に立たない」と「デキの悪いあなた」が
いうことである。
実際世の中には本当に役に立たないものがあることは否定しない。
ハリー・G. フランクファートがいった
「うんこな議論」であり、正に今回の「デキの悪いあなた」の立場は
このうんこな議論にあたる。
しかし「古文が役に立たないから、自分は古文が読めなくても良い」というのは言い換えると
「役に立つ科目であれば自分はできるはずである」ということになる。
この思考に陥った瞬間から、バカだったあなたは「能力のある人間」にうまれかわる。
「実は古文漢文が全くできなかったけど、それは役にたたない科目だったからなんだ。役に立つものだったら自分はちゃんとできたはずなんだ」
という荒唐無稽な「能力のある人間」にだ。
お目出度い理路であるし、語学をナメた黄口児の孟浪な考えである。
役に立つ立たないであれば「英語」のほうが立ちそうだが、それで日本人が英語をできるようになったか?をその足りない頭で少しでも考えればわかるだろう。別にできるようになどなっていない。
※ただし、日本人が英語を使わなければならないほど追い込まれた経済状況になっていないから、という指摘は
数十年前からある。薬師院仁志『英語を学べばバカになる~グローバル思考という妄想~』 (光文社新書)
古文漢文ができなかった理由を「役に立たないモノだから自分はできなかった」というふうに考えるようにし、自身を慰めているだけであろう。
こんな痴愚の自慰で教育制度に変更が加えられるのだとしたら、もはや何も教えられなくなるだろう。
この手の人間が「義務教育など根絶せよ」という「反教育論」の人物であるならば理解できるが、そうでないのだとすれば感傷的で手前勝手なだけである。
こういう水準の人間がいう「古文漢文は必要か不必要か」は
実は「○○は必要か不必要か」というあらゆる問題を創出してしまう。
理由が「自分はできなかったから」だからである以上、古文漢文に限った話ではなくなる。
我々の多くはできることよりもできないことのほうが多いのだから、
この論でいくと「殆どのものは不必要!」ということにしかならない。
斯くしてこのような人間が行き着く先は
といった多くを敵にまわすアナーキーな顚末である。
個人の《私はこの科目が苦手だったから》という動機の下で教育政策の議論がされるのであれば、それは不純でしかないし
国家百年の計の基幹ともいえる教育政策を任せるに適した人々ではない。
Twitter上のやりとりではこの部分は不明確であることが多い。
まず、その教科を苦手とした人がわざわざ
「自分は点数がとれていませんでした」と開示した上で
「その教科は不必要である」と述べるのはあまりみたことがない。
無論、「お前ができなかったから、不必要っていってるだけやろwwww」とバカにされるからである。
バカな人間を選別する方法
しかし、先にも述べたように「必要/不必要」を述べる人間はこのような不純な人間がいる可能性がある。
その「不純な人間」を見抜くための簡単なやり方として
「お前は古文漢文の必要不必要に関する本や論文をよんだか?」と
きくことである。
これをやっていない人間は以下の理由により不適格である。
英語教育論争
さて、ここまで「歴史的には明治から古文漢文不要論はあった」こと「古文漢文・必要/不必要を語るに不適当な人間がいる」こと
を述べてきた。
こういった議論は古文漢文だけでない。「英語」に関しても実はかなり多くある。
そのためこういった議論に興味のある人は「英語が要るかいらないか?」「英語をなぜ日本人は身につけられないか」
などを参照すること可能だし、またその議論を読むことは実に面白い。
私ズンダなどは十代ぐらいのときに「英語が要るか要らないか」といった本を読むのが好きで読んでいたが、
現在の「古文漢文論争」などをみていると、全く同じような光景が繰り広げられている。
なんとなれば英語のほうが古文漢文よりも白熱した議論がおこなわれているのではないだろうか。
古文漢文に関してはこのようなことを論じた本が少ない。
勝又基『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた』 (文学通信)
『高校に古典は本当に必要なのか: 高校生が高校生のために考えたシンポジウムのまとめ 』
英語教育大論争 (文春文庫)
英語教育論争史 (講談社選書メチエ)
実は、要不要の問題ではないのでは?ー文化資本か?
正直、「役に立つか、役に立たないか」という問題設定ではこの話は終わらないし、私は何か見逃しているような気がしてならない。
それは上にも述べたように「個人の能力」を見誤っているせいなのではないか。ここが常に語られてないのである。
冒頭で@niina_norikoを引用した。
彼の見解は、
文化資本(=社会学者ブルデューの用語。個人の努力で身につけたものではない親の教育、あるいは意識せざる生活様式によって自然に身につけてしまう感性や能力のこと)が一部の階級らによる独占になってしまうのではないか。一般の人々にもそれを分け与えるべきではないかというものだ。
これは確かにそうである。
政治的に考えれば民主主義の社会においてあらゆる部分に格差や断絶をつくることで社会の共通概念が揺らいでしまう。
国民一人一人の共通性をつくりだすこと、それが国民国家における義務教育の理由でもある。だからこそ「国語」や「日本史」や「古文漢文」があるわけだ。
だから「古文漢文」を教える理由の一つに「ナショナリズムの涵養」がある。「不要論」に反対する根拠の一つになるだろう。
ところで@niina_noriko氏の意見は私には「確かにそうだな」と思う部分があったが、
同時にある反駁も思いついてしまった。それが以下である。
↓ブルデュー『遺産相続者達』より
ブルデューの「文化資本」は後天的であると同時に、選ぶことができない「親ガチャ」をうまく引いた人間が有利であることを
意味する点においては先天的でもある。
本人の自助努力ではない状態を指す。
@niina_noriko氏は図らずも
「古文漢文を学び、役に立つと思える人は《文化資本に恵まれた人》」といってしまっているのである。
「古文漢文は不要である」と思ってしまう人の大多数が「文化資本に恵まれなかった人」であった場合、この論争はは大きくかわる。
教育論争でありがちなのは
「やればできるはずで、教え方が悪いからできない」
とか
「その人のやる気がないからだめ」
とか
になりがちである。
しかし、それ以前に親の経済状態で学力はかわってしまうし、行動遺伝学では遺伝である程度決まっている、とまでいわれている。
この「古文漢文は必要/不必要」が
もし「文化資本をもった家にうまれてこなかったから」だとすれば、
教える意味などないということになりはしないか。
畢竟、「不要」なのではなく「教えることが不可能」なのではないか?
ここにきて、先述した問題に逢着する。
「自分が古文漢文で点数がとれなかったから」は《個人のデキの問題》だったが
「文化資本のある人は一部」であることを思うと《全体の問題》になりうる。
彼らは
「古文漢文を生活の一部としていない家にうまれた。それを享受できるだけの生まれではなかった」
この論争の事の本質は、ここにあるのではないだろうか。
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