【スプラトゥーン3】のXP3000以上の放送上におけるイヤらしい発言とドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフ
はじめに
注意されたぐらいで喚くな
本NOTEは気散じにかいたものであり、これを読んで深刻に受け取って欲しくはない。
いや、受け取っては欲しいが、いちいちメソメソしないでもらいたい。
私ズンダが何かを注意すると「人生が終わった」かのように思い込み、消えていく一定の人々がいるが
誰かと付き合っていれば何かをいわれることがあるのは当然であり、
その言動が相手にとって不愉快であったから注意されることがある。
それだけだろう。
私の放送で「人生が終わった」と思い込み、消えたところで、それはズンダ主催の劇から降板しただけであり、降りた先にも人生があることはいうまでもない。
そして別の場所へいっても、同様のことをし、また降板するかもしれない。
相性のいいところへいけば自分は責められることはないだろうと思われるかもしれない。それは間違ってはない。誰も合わない人間とはなるべく付き合わない方が幸せだろう。
だが、相手にされやすい振る舞いを身につけていた方がラクなことはいうまでもない。わざわざ嫌われるようなことはしないにこしたことはない。
降板するには選出されなければならないが、その機会は無限ではないことを頭の片隅においたほうがいい。
無論、この私の注意の仕方に問題がないとはいわない。私はなるべく我慢してから一気に吐き出す人間なので、相手をびっくりさせてしまうことが多い。そこに自分の欠点があるのは承知している。
しかしそうだとしても、相手の主張に対して粘り強く考えてみてほしいという気持ちである。
XP3000人間の性格
さて、最近、放送に旧制度—XPの上がり下がりが激しくなかった頃を《旧制度》と呼ぶことにしよう。まるでアンシャン・レジームみたいだが—においてXP3000を得た人間が、ここ一週間で二人ぐらいやってきた。
この二人を今、AとBとよぶ。
どちらもいうまでもなく上手いし、私のプラベでは飛び抜けて上手いほうなのでこの二人と一番XPが低い人間同士で分けると試合が一方的にならずにすむ。そのため放送主としては助かる。参加者も視聴者も「いい試合」を体験したいし、不均衡な試合を望む人などいないからである。
Aはかなりまともな人間である。自分のXPの高さを鼻に掛けない。
といってはみたが、実は彼自身、一年ほど前は高慢ちきで傲岸不遜な人物だったらしいが一時期スプラから離れて、冷静にモノをみられるようになったらしくその反省から常識的なふるまいをしている。
Bの人間としての振る舞いははっきりいって、悪い。
しかしこの悪さは、放送にやってくる人間の駄目な例としてはよくあるものだ。
私は、Bを悪いモノとして特筆しているのだが、その悪さの質は凡夫のそれに過ぎない。言い方を変えれば、小悪党でしかない。
彼は自分が放送の中で一番うまいとおもっている。その思いから遊喜があふれたようなコメントをする。
「味方さん、キャリーしてください」
「今日、別のことをやっていたのでエイムがあったまっていません」
私も長年、放送をしているので、この手の書き込みは腐るほどみた。
どちらも
「自分が勝てなかったときの保険」であり、
また
「まさか、自分ほどの人間がこのプラベにおいて活躍できないことなどなかろう」
という気位いの高さが滲み出た気持ちの悪いコメントである。
こういう、その心底が見え透いた、他の人間を自分の卑小な自尊心のために
利用してやろうという言葉遣い、まさに小悪党でしかない。
多くが教科書で読んで知っている中島敦『山月記』の
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とは彼のような人物がもつ心根である。
また、通話しているとそこかしこに自慢がはいる。一種のトラップが仕掛けられている。
そのためこの手合いに対して話をするのが嫌になる。
こちらがなにかをいえば、相手が返してくるのは「自慢」だからだ。
しかしここまで記述してきたことに何の驚きもない。
これは動画でもNOTEでも何度もかいてきたことだ。
NOTEを読んでいる人々であれば「またか・・・・・・」と思うだけだろう。
だが個人的に、先日よんだ本と軽く結びつけたくなったし、ちょうどいい諭し方として利用できるかもしれないという思いで、この続きをかいてみたい。
それはドストエフスキー『罪と罰』である。
この主人公ラスコーリニコフとB君のような人物は近しいところにある。
これはラスコーリニコフが特別なわけでも、B君が特別なわけでもない。
至って凡庸なのにもかかわらず、自分を非凡だと思ってしまった人間によくみられる行動なのである。これは「頂き女子りりちゃん」に対するTwitterの評家らによる認識のおかしさにもつながっている。
では、B君とラスコーリニコフについてみていくことにしよう。
図書案内
亀山郁夫訳には批判の声があがるし、訳文も岩波や新潮と較べると軽く感じて、文学的香気はないようにおもえるが、読みやすさや解説の詳しさなどをみると、決して悪いとはいえない。それどころかあまり文学になれていない人間であればこれよりも最良のものはないはずである。というわけで、『罪と罰』を読みたい方は以下をどうぞ。
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