読書のきろく#3『想像ラジオ』(いとうせいこうさん)
読みたい、と思ってから、手に取るまでに時間がかかった。
あの日、わたしは小学3年生だった。朝微熱があって小学校を休んだのだが、午後にはすっかり元気になっていて、母と、近所から来ていた祖母と一緒にいた。なぜだか、居間の白い壁が明るく照らされていた記憶がある。3月にしては暖かい午後だった、とも思っている。ひとりでお手洗いに行っているときに、それは起こった。
揺れてる、という声がした。たぶん母の。トイレは丈夫だからそこにいなさい、と祖母はわたしに言った。たしかに、長い揺れだった。居間に戻ってもまだ揺れていた。わたしたちはテレビをつけた。それが、はじまりだった。
あれからたくさん災害があった。自分の住んでいた場所にほど近いところで起きた地震もあった。あれからいくつも地震があったけど、<震災>という言葉で語られるのは、ひとつだけ。
この本の存在を知ったのは新聞の書評欄だった。本が出されたばかりのことだ。気になって奥付を見たら、2013年に初版が出ていた。わたしはまだ小学生だった。児童書以外の本はやっと読み始めたばかりだったと思う。だから新聞の書評欄だっていつも丁寧に読んでいたわけではないのだが、なぜだかこの本が紹介されていたということが、心に残っていた。書店で平積みされていたのを見るたびに、「ああ、あれが」と思っていたからかもしれない。
だから、<震災>が深く関係している物語だということは知っていた。そして読みたいなとも思っていた。でも何度か手にとっては買わずにいた。理由はよくわからない。
「想ー像ーラジオー。」
ページをひらけばジングルが鳴って、DJアークが喋りだす。軽快に、そして時々抒情的に。彼は「高い杉の木」の上に引っかかっている。そこから、ラジオを流す。電波の代わりに使うのは想像。想像力をもつ人々に、ラジオは届く。
生い立ち、家族のこと、仕事のこと、幼いころの思い出。取り留めなくとどめなく続く語りは、次第にリスナーとの会話に移る。リスナーから手がかりをもらいながら、DJアーク=芥川はだんだん、自分のことを分かっていく。おかれた状況、思い出の答え、出会ってきた人たちへの感情。何を望んでいるのか。自分はなぜ、ラジオを続けるのか。
でもこの物語は、アークだけのものではない。アークを見つめ続けるハクセキレイがいて、車中の震災ボランティアの若者たちがいて、そして幾多ものリスナーと、リスナーではない人たちがいる。広がり続ける円の真ん中に、杉の木が立っている。
「いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった」
物語の中で、ある作家は愛する人にそう告げる。失ったものにとらわれていてはいけない、前に進まなくちゃ、という考え方に問いかける。死者と一緒に少しずつ進むことはできないのか。その声を聴こうとすることは、過去にとらわれているということなのか。
今もまた、毎日死者の数が報じられている。先の見えない状況に対する不安、焦燥、苛立ちの中で、いつしか前ばかり見ていた。失われた命の声に、わたしは気づいていなかった。
人が死ぬということが、わたしにはまだわからない。大切な人に、いつか永遠に会えなくなってしまうということ。もうその人とは話せないということ。そしていつかは自分がここから、いなくなる日が来るということ。自分が誰かに残されて、誰かを残していってしまうこと。
どれも物語の中で起こることのように、輪郭がぼやけたふわふわした感覚。でもいつか突然、それが目の前に重みをもって現れる日が来る。その日が来るまで、わたしには想像ラジオは聴こえないのだろうか。
「声が聴こえなくても、あなたは意味を聴いてるんだよ」
作家は愛する人にそう言われた。声が聴こえなくても、書くことで、死者の声を想像できる。そう信じているから書き続ける。聴こえなくても聴きたい。もう会えなくなってしまった誰かの声を。
<震災>の日にテレビの中で、ヘッドライトを点けたままの車が、黒い波に押し流されていた。それがどういうことかわかったときに、その光景はわたしにとって忘れられない記憶になった。
でもわたしはテレビの前にいた。どこまでも明るい午後の居間で、いちばん安心できる家族のそばで。アナウンサーが叫んでいた。わたしは体育座りで黙って見ていた。家に帰るなり遊びに行きたいと駄々をこねて怒られた妹が部屋でしょげていた。夕ご飯の支度ができた。ご飯を食べた。寝た。車は海の中に消えていた。
あのとき声はすぐそばにあったのかもしれない。気づけないくらいには幼かった。そして今も、気づけていない声があふれている。
この本の解説を書いた作家の星野智幸さんによれば、震災ボランティアの若者たちが死者の声を聴くことについて意見を交わす第二章は、<震災>を知らない世代がそれを語る資格がないと思ってはならない、という思いで書かれたのだという。
被災地から離れていたわたし。小学生だったわたし。東北には行ったことがない。
わたしはきっと、向き合えていない自分を見つけるのが怖かったのだ。どこかに共感の限界があるはずで、それに気がつくのが怖かった。感情は思うように動いてくれるだろうか。不十分な言葉しか出てこないのはもう間違いない。
でもこの本は、それでも耳を傾けて、語ってと呼びかける。DJアークの声を借りて、日本中の想像力に向けて。
ボブ・マーリー『リデンプション・ソング』
普段ラジオも洋楽も聴かないわたしは、この本に出てくる曲はほとんど知らなかった。想像力で聴いてください、とアークが言うから、似ても似つかぬはずの自分でつくったメロディをうっすらと思い浮かべていた。
最後にかけられたこの曲だけでも、今から聴いて布団に入ろう。夜更けに真っ暗な部屋で横になり、耳を澄まして待っていよう。
想像ラジオを始める声を。
今回の本
『想像ラジオ』いとうせいこう 河出書房新社 2013年(文庫版は2015年)