女性の”美しさ”は誰のため? 強制的異性愛と女性の美について
この前、大学でこんな本を見つけた。
ラディカルフェミニズムの本で、シーラ・ジェフリーズによって書かれた『美とミソジニー』という本である。
美容行為を男性支配と女性の従属を促進させる「有害な文化習慣」としてとらえ、西洋中心的・男性中心的価値観を痛烈に批判する…という、THE・ラディカルフェミニズムな本で、興味を持ったので読んでみた。
女性が美しくなろうとするのは本当に「個人の選択」なのか?について論じており、韓国で巻き起こった脱・コルセット運動の原点になった本だという。
女性の"美しさ””美しくなろうとすること”に私が思うこと
ここからはこの「美とミソジニー」を読んだうえでの私の意見だが、私としては女性が行う美容行為すべてが男性支配と女性の従属を促進させる「有害な文化習慣」だとは思わない。
全ての女性が男性に気に入られるために美容行為をする訳ではない、と私は考える。
自己肯定感を上げたい、自信をつけたい、おしゃれが好き、洋服が好き、など。
女性が行う美容行為すべてが、女性の主体性が失われたうえで行われるものではない、と周りの女性たちを観察していて私は感じる。
しかし、その美容行為によって追い求める”美しさ”には、やはり男性優位社会における男性支配、女性の従属が大きく影響を及ぼしていると考えている。
女性は結婚しないと生きていけなかった
現在の社会では未婚化が進行し、生涯未婚率(50歳の時点で一度も結婚をしていない人)は女性が1割、男性が2割となっている。
1割、2割と聞くとそこまで多くないように思われがちであるが、この数字は年々上昇傾向にあることを忘れてはならない。
しかし、今から約50年前の1970年代にはほぼ全員が結婚をしていた。
それ以前の時代でも、ほぼ全員が結婚をしていた。
そもそも結婚をしなければ、女性は社会で生きていくことが難しかったのである。(男性も、結婚して妻を養うことが一人前の条件とされていたので、結婚していなければ企業で昇進できないという差別が存在していた。)
女性には1人で食べていけるだけの職業が少なく、一部の職業婦人以外は結婚しなければ生きていくことが難しい状況であった。
つまり、女性が社会で生きていくためには男性との結婚が必要不可欠であり、社会に参加するためには男性から選ばれ、結婚することが絶対であったわけである。
(アドリエンヌ・リッチは、女性に男性の承認を求めさせ、異性愛にはめこんでいく仕組みを”強制的異性愛”と呼んだ。この”強制的異性愛”では女性どうしの繋がりが軽視され、女性たちは男性に承認されるかされないか、という競争の中で敵対関係に置かれた。未だに”女の敵は女”、”女の友情はハムより薄い”というような、女性どうしの繋がりを否定するような言葉が存在するのはこの”強制的異性愛”が人々の価値観に大きな影響を与えているからだと、私は考察している。)
女性の美しさは男性から選ばれるために
では、女性が男性と結婚しなければ社会で生きていくことが難しい時代に(男性も結婚しなければ家事をしてくれる人がいない上、企業での昇進が難しかった時代に)、女性たちには男性から結婚というかたちで「選ばれる」ため、何が求められてきたのだろうか。
今よりもっと不便で、24時間営業をしているコンビニなどもない時代、働く男性には家で家事全般をしてくれる妻が必要だったため、女性にはもちろん家事能力が求められた。
しかし、その家事能力と同じくらいに女性には「美しさ」が求められた。
ここで、女性が男性に「選ばれて」結婚をしなければ社会で生きていくのが難しかった明治・大正時代における女学校でのエピソードを紹介する。
明治・大正時代の女学校には、「卒業面」という言葉が存在していた。
明治・大正時代の女学校に通う女子生徒たちは、在学中に縁談(結婚)が決まると途中で女学校を退学する「寿退社」ならぬ、「寿退学」なるものをしていたという。
つまり、在学中に結婚が決まれば女学校を卒業することなく、退学をして、男性のもとへ嫁いだというわけである。
これに対してこの「卒業面」は、「器量が悪いので(美しくないので)、在学中に縁談が決まらず、途中退学をせず、無事に女学校を卒業できる女子生徒」を指した悪口であった。
この明治・大正時代の女学校でのエピソードからも、とにかく女性が男性に「選ばれて」結婚をするためには「美しさ」がいかに重要であったかということが理解できる。
現代こそ、女性が結婚をしなくても社会である程度は生きていけるものの、つい50年ほど前までは女性が男性に「選ばれて」結婚をしなければ生きていけない社会であり、女性の結婚のためには「美しさ」が重要であったことを考えてみよう。
現在、メディア等を通して無意識に刷り込まれていく女性の美しさの基準(肌の色、目の大きさ、脱毛処理など)は、男性優位な社会において、多かれ少なかれ男性たちの目によって値踏みされ、決められてきたものと考えることができるのではないのだろうか。
もちろん、男性の美しさの基準に女性たちの目によって値踏みされ、決められてきた部分が無いとは思っていない。
しかしながら、現代でこそ変わってきているものの、長い時代にわたって女性が男性に「選ばれて」結婚しなければ社会で生きていけないうえ、女性が結婚をするためには「美しさ」がかなり重要視されてきたことを踏まえると、男性に対する美しさの基準よりも、女性に対する美しさの基準の方がかなり異性によって値踏みされて形成されてきたと考えることが出来る。
つまり、美容行為すべてが男性支配と女性の従属を促進させる「有害な文化習慣」だとは感じていないが、女性たちがその美容行為によって追い求める”美しさ”、そしてその基準には、男性優位社会の中で男性たちの目によってかなり値踏みされて形成されてきた側面があると、私は考えているのだ。
女性への”美”の圧力は未だに大きい
先ほども書いたように、現代は女性が結婚をしなくても、ある程度は生きていける社会である。
しかしながら結婚する・しないに関わらず、未だに女性には「美しさ」がとにかく求められていることは事実である。
女性が男性に「選ばれて」、結婚しなければ生きていけず、結婚するためには何より「美しさ」が重要であった時代が終わりつつあってもなお、女性に対する「美しくあれ」という圧力はとにかく大きい。
それをよく示しているのが、摂食障害が依然として女性の病であることだ。
摂食障害とは、拒食症や過食症のことを指しており、背景には痩せた細い身体こそが美しいとされる意識の蔓延が挙げられる。
この摂食障害の患者は約90%が女性であるため、女性の病とされている。
ここまで女性ばかりが摂食障害になっていることを踏まえると、「美しくあれ」という圧力は男性よりも女性に対して強く向けられていることが理解できる。
おわりに
冒頭でも書いたように、私は女性が行う美容行為すべてが男性支配と女性の従属を促進させる「有害な文化習慣」だとは思っていない。
女性は全てにおいて男性に気に入られるため、美容行為を行っているわけではない。
自分の趣味や娯楽として美容行為を行っている場合も多く、女性が完全に主体性を放棄したうえで美容行為を行い、美しくなろうとしているわけではない。
私自身もお洒落をして街に出かけるとテンションが上がるが、別にそれは街で男性に声をかけられたいから、見られたいから、ナンパされたいから、そういうことをしている訳ではない。
しかしながら、自分自身が持っている女性の”美しさ”に対する基準、そしてメディアなどから流される女性の”美しさ”に対する基準には、女性が男性に「選ばれて」結婚しなければ社会で生きていけず、その結婚のためには「美しさ」がとにかく重要であった時代を通して、男性優位社会のなかで男性たちの目によってかなり値踏みされ、形成されてきた側面があるということを絶対に忘れてはならないと、常日頃から思っている。
摂食障害の患者の約90%が女性のこの社会で、女性に対して「美しさ」を求める人が多いせいか、時々しかお洒落をせず、大抵ノーメークの私は時々他人から(男性から)容姿を侮辱されるが、特に気にしていないし、気にする必要もない。(昔は気にしていたが)
彼らの持つ女性の”美しさ”の基準なんぞ、とにかく男性によって都合よく値踏みされては形成されてきた基準の真骨頂のようなモンである。
【参考文献】
千田有紀・中西祐子・青山薫「ジェンダー論をつかむ」有斐閣 2013年
小倉千加子「セクシュアリティの心理学」有斐閣 2001年
水島広子「女子の人間関係」Sanctuary books 2014年
シーラ・ジェフリーズ「美とミソジニー」慶應義塾大学出版 2022 年
上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」朝日文庫 2018年
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