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お寺から考える、短期思考から長期思考へ
いかにして良き祖先となるか
最近の様々な報道やニュースを見るにつけて、「善」ということについて、考えずにはいられません。何かしらの「善」なる行いをしようと思った時に、大切な視点であると思う「いかにして良き祖先となるか」という問いについて考えてみます。
未来への視点を失いつつある現代社会
このテーマを考えるきっかけとなったのは、『グッド・アンセスター 〜未来を思いやるためにいまできること〜』(ローマン・クルツナリック著、松本紹圭訳)との出会いでした。
著者のクルツナリック氏は現代社会の課題として、私たちが短期的な利益や利便性に囚われすぎていると指摘します。
そして「未来の世代と共感し、時間を超えてつながることができるのか?」ということを考えた先に「未来の人々にとっていかにしてよき祖先となるか」問いを投げかけます。
この世界には、現在の他、過去すでに亡くなった人々が築いた歴史とこれから生まれる未来の世代がつくっていくであろう歴史が存在します。彼らもまた、この地球(世界・社会とも言える)を共有する「ステークホルダー」なのです。
なぜ「先祖」ではなく「祖先」なのか
日本では「祖先」という言葉よりも「先祖」というのほう言葉の方が身近で親しみやすい言葉です。しかし、訳者の松本紹圭さんはあえて「祖先」という言葉を選び取ったそうです。
多くの人が「先祖」という言葉でイメージするのは、自分の血縁関係にある過去の人々でしょう。しかし、ここでいう「アンセスター」はそういった血縁に限られた範囲ではなく、同じ世界を共有する人たちにとっての「アンセスター」になるという意味であるので、より広く”先人”を思い浮かべられる「祖先」いう言葉を選び取ったということです。
仏教が教える長期思考
仏教は今から2500年ほど前にインドのブッダから始まり、長い年月でその教えである諸行無常を体現するかの如く、時間と距離を超えていく中で変化をしながら、現代の日本までもその教えが伝わっています。
ブッダから現代日本の私までの間には、今も名前が残っている人から、もはや誰にも名前が知られなくなってしまった人も含めて、数多くの「よき祖先」が存在したことでしょう。
この仏教の流れで考えたのと同じような形で、様々な形でのよき祖先が、私たちの前には無数に存在し、まさか現代でこうなっているとは想像もせずに、しかし、よき未来のために限られた一生を使って、何かしら善なることを行なってきてくれたのです。
お寺が示す長期思考の実践
日本には約77000ものお寺があると言われています。その中で、歴史的に一番多いのが、約400年ほどの歴史を持つお寺だそうです。驚くべき数字だと思います。
それらの寺のほとんどには、文化財にはなってはいませんが、当たり前のように築100年を超える建物があったり、もっと古いと思われる仏像があったりします。
古い本堂には、過去の寄付者の名前がずらりと並び、今あるものが、顔分からないこの人たちの苦労によって作られたものなのだと、とてもありがたく感じられます。
現代社会を生きる私たちはあまりに早い時代の進行速度もあり、短期思考に偏りがちになっているのではないかと思います。だからこそ、長期思考の大切さを考える必要があります。私たち一人ひとりが「良き祖先」として、未来の世代のために何ができるかを考え、行動することが求められているのではないでしょうか。
そんな中、仏教実践の場であるお寺は「長期的な善を考えることに向いている場所」と言えるのかもしれません。
短期思考から長期思考へ転換する道場(環境装置)は、案外それぞれの身近にあるお寺なのかもしれません。そして、そこで案内人のような役割を果たすのは住職(これは力量が問われる部分)。
お寺という場を通じて「未来のために今何をすべきか」、よき祖先としての自身のあり方を自分自身に問うとともに、共に考える仲間たちとの場所にしていきたいと考えています。